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オリバーを担いだアルフォンスがリュシーと共に行った場所は、十五地区にほど近い下町の市場だ。明け方のこの時間、市場では朝食を売る店が既に開店していて、串で炙られた肉の匂いや煮えたぎるスープ、焼き立てパンの香りが充満している。威勢の良い店主の声と共に、暴力的なほどに美味しそうな香りが客を呼び込んでいた。
いつもなら素通りしてしまうであろう市場を前にして、オリバーの腹がギュルルと鳴く。オリバーは自分の薄い腹を押さえると、ごくりと生唾を飲み込んだ。
アルフォンスは何も言わずに手頃な屋台に近寄り、串焼き肉を三つ買って戻ってきた。
「ほら」
「わっ、本当にいいのかい、アル兄ちゃん」
「いいって言ってんだろ。あんまりしつこいこと言うと、もう一本追加するぞ」
アルフォンスの意味不明な脅し文句に、オリバーは顔をフニャっと綻ばせた。
「……ありがとう」
串焼きを大切そうに受け取る。アルフォンスは満足してオリバーを眺めた後、リュシーにも同じものを手渡した。
「リュシーも」
「ありがとう」
せっかくなので遠慮なく受け取る。
並んで三人で串にかぶりついた。肉は赤身が多く、塩胡椒で味付けされたシンプルなもので、噛み締めると肉の味が口の中に広がる。夜通し働いた体に栄養が行き渡り、活力がみなぎるかのようだった。
ジルベールはいつも迎えを寄越した後、リュシーの身支度を整えさせて食事を一緒にするのだが、そこで食べる上品な肉料理よりもよほど美味しいと思った。
オリバーは夢中で食べすすめ、口の周りを肉の脂でベタベタにしている。
「アル兄ちゃん、これ、すげえうまいよ!」
「そりゃ、よかったな」
オリバーはあっという間に肉を食べ終えると、名残惜しそうにいつまでも串をしゃぶっていた。行儀が悪いなんて小言はアルフォンスもリュシーも言わなかった。滅多に食べられないご馳走の味が染みついた串を舐めていたいという気持ちは痛いほど良くわかる。リュシーもかつては似たようなことをやっていたし、アルフォンスは串をしゃぶるどころかガリガリと齧っていた。それに比べればオリバーの行為はまだしも上品というものだ。
「じゃあ次は私の番ね。お肉を食べたんだから、次は麦粥なんてどうかしら」
「えぇ、粥までご馳走してくれるのか」
「当然よ。この先にオートミールを出す店があるから、そこに行きましょう」
リュシーは仕事明けにこの通りにたまに来る。身入りがいい時は食事をして帰ることもあるので、店の場所やどんな店があるかなどはかなり詳しい。
やがて三人は、一軒の出店の前で止まった。
店の前には簡素な木の椅子が設えられており、食事ができるようになっている。オリバーを挟むようにして三人で並んで腰掛けると、オートミールを三つ頼んだ。
ほかほかと湯気を立てるオートミール。熱々のミルクの中にたっぷりと麦が入っており、甘く香ばしい香りに三人とも皿に釘付けになった。
スプーンを手に取りすくう。ふぅふぅと息を吹きかけ、少し冷ましてから口に運ぶと、まろやかな牛乳をふんだんに吸った柔らかい麦がたまらなく美味しい。
「リュシー、おれ、あったかい料理はじめて食べたよ」
オリバーは感動した様子で言った。
貧乏人にとっては火だって貴重なものだ。薪も蝋燭も火種も無尽蔵に出てくるわけではないから、ギリギリで使わなければならない。
オリバーはきっと、いつもいつでも冷め切った料理ばかりを食べていたのだろう。
リュシーとアルフォンスは、夢中でオートミールを掻き込むオリバーの頭ごしに視線を送り合った。
せめてこのひとときだけでも、この子に精一杯の良い思いをさせてやろう。
「オリバー、次は水はどうだ。店で買う水は、井戸から取れるものより美味いんだぞ」
「オリバー、パンはどう? この時間帯は焼きたてのパンを食べられるから、信じられないくらい柔らかくてフッカフカのパンが食べられるわよ」
リュシーとアルフォンスはオリバーを食べ物攻めにした。
本当は服や靴なども買ってやりたいところだが、オリバーに断られた。
「買ってもらっても、どうせすぐに煤まみれになっちまうからもったいないよ」と言われてしまった。なのでせめてと、二人は食べきれないほどの食糧をオリバーに与える。
「こんなにいっぱい……二人とも、ありがとう」
林檎を齧りながらオリバーははじけるような笑顔を見せてくれた。
頬いっぱいに林檎を頬張り幸せそうな顔を見せるオリバー。今朝方のどんよりとした雰囲気は雲散霧消している。お腹が満たされると人は幸せになるものだ。
アルフォンスは乱暴にオリバーの頭をぐしゃぐしゃ撫でた。
「他に欲しいもんはないか?」
「もう十分だよ。おれ、お腹も胸もいっぱいだ」
「そうか。よかった」
口の端を持ち上げて笑うアルフォンスも満足げである。
「なあ、リュシー。おれ、リュシーにお願いがあるんだ」
「なに?」
「おれにサンティエンヌの都を案内してくれよ」
予想外の頼みにリュシーは目を丸くする。オリバーは視線を彷徨わせながら、ポツリポツリと言った。
「おれ、いつも親方の後ろをくっついて歩いてるだけだから、都のことよく知らないんだ。リュシーはファロティエだから道に詳しいだろ? おれを案内してほしい」
「……任せて!」
オリバーのいじらしい頼みを断る理由なんてどこにもない。
リュシーはくたびれた外套を羽織った胸をどんと叩くと、率先して歩き出す。
「まずは第一地区から見に行きましょう」
下町の出店が並んだ通りから出て、王侯貴族の馬車が行き交う大通りへと向かう。そこをひたすら南東へ歩いていけば、第一地区へとたどり着く。
遠目からもわかる華やかな建物は近づけば当然より圧巻で、オリバーは口を開けて見上げていた。
「あれが歌劇場。隣に見えるのがサン=アンタキンヌ大聖堂。少し先にあるのがルクサンブール宮で、シルヴァ・ルイーヌ宮殿が完成するまで王族の方が住んでいた場所。今は離宮になっているわ」
リュシーは淀みなく説明をする。
「そうだ。少し先の細道を行くと、水飴を売っているお店があるから行ってみましょうか」
この辺りはリュシーにとっては庭のようなものだ。毎晩毎晩ファロティエとして客を取るために立っていたし、界隈の通りの名前からそこに建っている店の種類まで、全てを諳んじることができる。
リュシーは先導して都を案内した。煌びやかな上流階級の人が集う宮殿も、中流階級の人がたむろするコーヒーハウスも、人々が祈りを捧げる大聖堂も、雑多な賑わいを感じられる市場も、全て案内した。
やがて歩き疲れた三人はブラウデル川のほとりに座りしばしの休息をとった。
ブラウデル川は下流に行くにつれて平民が洗濯に使ったりしているので水質が悪くなり、澱んでいるのだが、今三人がいる場所は普段使いが禁じられているため綺麗だった。行き交う小舟に乗っているのは、川下りを楽しんでいる貴族たちだ。船頭が櫂を操りゆっくりと進む船には、真ん中に日除けの大きな傘が固定してあり、ドレスに身を包んだ令嬢二人がテーブルを挟んで向かい合わせに座っている。テーブルには焼き菓子やティーセットまでもが並んでいた。
一方、川縁には行く当てのない平民が力なく座り込んでいる。橋の下で雨風を凌いで暮らしている者もいるが、見栄えが良くないからという理由でじきに警官によって追い出されるだろう。棒で叩かれ追い出してもいつの間にか戻ってくる彼らに、上流階級の人々や警官が嫌な顔を向けているのをリュシーは知っている。それでも、よるべのない彼らは橋の下以外に行く場所がないのだ。
「なあ、リュシー」
オリバーが水飴の棒を咥えたまま、真っ直ぐに指差した。
「あのお屋敷には誰が住んでるんだ?」
オリバーが指差したのは、このサンティエンヌの都でも一際目立つ、小高い丘の上に建つ豪奢な屋敷だ。
「ポンドール公爵様よ」
パルマトレの丘のポンドール公爵邸といえば、国で最も古い大貴族の家である。夜毎の夜会の数もダントツに多いし、周囲には他の貴族の屋敷もたくさんあるので、この界隈を縄張りにしているファロティエはなかなか儲かっていると聞いたことがあった。
「へぇ……すごい家だな。煙突掃除のしがいがありそうだ」
大きな煙突が何本もそそり立つのを見てオリバーはそんな感想を漏らした。
サン=アンタキンヌ大聖堂の大鐘楼が正午を告げる鐘を鳴らす。それを聞いたアルフォンスが「そろそろ戻るか」と言い、三人は立ち上がった。
十五地区に近づくにつれて道幅は狭くなり、行き交う人々の身なりも変わる。平民だらけの市場に再び足を踏み入れた時、大きな怒鳴り声がした。
「野菜泥棒だ! 捕まえてくれ!!」
鋭い声にいち早く反応したのは夜警官のアルフォンスだ。
彼は泥棒を見つけようと雑踏の中に素早く目を凝らす。
泥棒は人間ではなかった。大型の灰色の犬が人参やじゃが芋を咥えて疾走している。それも、五匹。関われば噛まれるかも知れず、様々な病気を持つ野犬に噛まれたら、医者にかかれない平民などひとたまりもない。人々は捕まえるどころか犬を避けて道を開けるので、犬は凄まじい速度で市場を駆け抜けていた。
アルフォンスは割れた石畳の破片を拾うと、向かってくる犬めがけて勢いよく放つ。破片は寸分違わず犬の眉間を打ち抜き、犬は弾け飛んでどうっと倒れた。白目を剥いて痙攣しているところを見るに、気絶しているのだろう。
一匹、二匹と立て続けに打ち倒し、とうとう五匹目が間近に迫ったところで、アルフォンスは残る最後の一匹も眉間に石をぶち当てて倒した。
そこに焦りや恐怖などといった感情は感じられない、冷静な投石。
さすが毎日銃を扱っているだけあり、見事なコントロールだった。
「あぁ、ありがとう。助かった!」
「おう。もう盗まれんなよ」
八百屋の親父は倒れた反動で犬の口から放り出された人参を掴むと、苦々しげに犬を見た。
「このクソ犬どもめ。これで三度目だぞ、俺の店ばかり狙いやがって」
倒れた犬を足蹴にし、八百屋の親父は立ち去っていく。アルフォンスは倒れたままの犬をじっと見つめていたかと思うと、急に腰のホルターから銃を抜き、犬に向かって突きつけた。リュシーとオリバーはギョッとして同時に叫ぶ。
「!? アル、何する気!?」
「アル兄ちゃん、何も殺すことないだろ!?」
「ウルセェ」
一体何を考えてるのか、アルフォンスは二人の叫びを無視して撃鉄を親指で弾いて起こすとぎりぎりと引き金を引き絞った。周囲の人々も、アルフォンスの行動に驚いたのか目を丸くして事態を見守っている。買い物客が足を止め、犬とアルフォンスを見比べていた。
「やめてくれ!!」
アルフォンスが引き金を引き切る直前、人垣を割って一人の男が飛び出してきて犬を庇うように覆いかぶさった。
「悪かった、こいつは俺の飼い犬だ! 殺さないでくれ!」
「ふん、そんなこったろうと思ったぜ」
アルフォンスは引き金から人差し指を離し、銃を持った腕を上げる。呆れたように言った後、ホルターに銃を戻して腕を組んだ。
「野生の犬にしちゃあ、統率が取れてた。大方誰かが泥棒するように仕向けていたんだろうと思っていたが、案の定か」
「あぁ……俺が悪かった。食い物に困っていたんだ」
「困っていようがなんだろうが、盗みはダメだ」
「そうだな……」
男は気絶した犬の傍に膝をつき、がくりと項垂れる。騒ぎを聞きつけた警官がやって来て、犬たちと男を連れて去っていった。
オリバーはアルフォンスを見上げ、はーっと感嘆の息を漏らした。
「すげえや、アル兄ちゃん。犬を捕まえただけじゃなくて、飼い主の泥棒まで誘き出すなんて。ねえ、今度おれにも石の投げ方を教えてくれよ」
「おう。いいぜ」
アルフォンスはオリバーの眼差しを受け止めつつ、片手を上げて短く答えた。
「おい、オリバー!」
その時、声がしたかと思うと、人ごみをかき分けて親方が駆け寄ってきた。
「こんなところにいたのか、何やってたんだ」
「リュシーとアル兄ちゃんに都を案内してもらったんだ。あと、誕生日プレゼントだって、いろんなものをご馳走になった。ほら」
オリバーは握りしめていた肉の串や水飴の棒をみせてにへっと笑う。親方はオリバーとリュシー、アルフォンスの顔を順番に見つめて困惑していた。
「誕生日だぁ? なんだってそんな……」
「親方、俺とリュシーが勝手にやったことだから、気にすんなよ」
「そうそう」
「しかしだなぁ」
渋い顔をする親方の肩にガシッと手を回し、アルフォンスが顔を近づけた。
「まあまあ、気にすんなよ。俺らだってガキの時、さんざん十五地区の皆からいろんなもん貰ったんだから、恩返しだ」
十五地区は貧しいながらも支え合いの精神が強く、小さい子供に大人たちが何かを世話を焼いてくれていた。リュシーもアルフォンスの両親や洗濯屋のジャンヌの母に、しょっちゅう破れた服を繕ってもらったりしていたものだ。リュシーの家は母親がおらず女手がなかったので、そうした細やかな気遣いはとてもありがたかった。
「……オメエらも大人になったな」
「まあな。こう見えていっぱしの夜警官だ、リュシーは最近貴族のパトロン捕まえたみたいで、羽振りがいいぜ」
しみじみと言う親方に向かって、なんでもないとでもいうふうにアルフォンスが言った。親方はリュシーとアルフォンスに向かって頭を下げると、オリバーを見た。
「オリバー。仕事先が見つかったから今から行くぞ」
「うん。リュシー、アル兄ちゃん。おれ、今日、すげえ楽しかった。ありがとう!」
「いいってことよ。仕事、頑張れよ」
「怪我しないようにね」
「うん。じゃあ、またね!」
オリバーは肉の串と水飴の棒を大事そうに握りしめたまま、親方について去っていった。見送ったリュシーとアルフォンスは、横並びになってその場に佇む。
「いいことしたな」
「そうね」
リュシーはアルフォンスを見上げた。
「アル、ありがとう」
「あぁ?」
「オリバーを説得して付き合ってくれて」
アルフォンスは口は悪いが面倒見がいい。一人真っ暗な部屋の中で泣いているリュシーを壊れた壁越しに慰めてくれたし、夜警官で都を巡査している時も、道で誰かが困っていればさりげなく話を聞いている。
そうした優しさをひけらかさないのも、アルフォンスのいいところだ。
真っ直ぐなお礼に照れたのか、アルフォンスは赤くなった顔を隠すかのように警官帽のつばをぐいと押し下げた。
「……俺がそうしたかっただけだ。おら、行くぞ。はぐれんなよ」
アルフォンスはリュシーの右手を取って雑踏に足を踏み出す。
午後になり、都の市場は人が多くなっていた。
自然に繋がれたアルフォンスの手についつい意識がいってしまう。
アルフォンスの手は、最近よく触れるジルベールの手とは全く違う。
撃鉄を起こすために硬くなった親指の腹、引き金を絞りすぎてコブになっている人差し指の付け根。全体的にゴツゴツとした手のひらは、ずっと拳銃を握りしめている人間のそれだ。労働を知らないジルベールの手とは大違いだった。
ふとリュシーがアルフォンスにこんな質問をしてみた。
「ねえ、アル。人を殺すのってどんな気持ち」
「あ? そりゃあまあ、いい気分じゃねえよ」
「なんで夜警官なんてやってるの?」
するとアルフォンスはリュシーを見て、手を握る力を少し強めた。
「……毎晩、街に繰り出すお前を一人で放っておけるか」
「私のため?」
「そうだ。それ以外に何があるっていうんだ」
少し目つきの悪い瞳に真っ直ぐに射抜かれて、リュシーは面食らう。
「そんなこと、言ったことないじゃない」
「いちいち言うか。格好悪いだろ」
「じゃ、なんで……今は答えたの」
「お前を馬鹿王子に取られそうだから」
「馬鹿王子って、そんな」
「馬鹿王子だよ。何の苦労もなくヘラヘラ遊んで生きているくせに、この上平民にすら手を出そうなんて大馬鹿野郎に、リュシーを取られてたまるか」
「アル……」
「リュシー。結婚しようって言ったの、まさか忘れてねえだろうな。俺は本気だし、諦めるつもりはねえ。馬鹿王子にお前を取られるつもりも毛頭ねえぞ」
立ち止まったアルフォンスは真剣な表情でリュシーに言った。握った手に込められた力は強くなり、痛いくらいだった。アルフォンスの気持ちが伝わってきて、冗談でもなんでもないのだと訴えてくる。
それでもまだ、リュシーには何て答えていいかわからない。
アルフォンスのことは嫌いではない。
しかし昨夜はジルベールにも熱烈な告白を受けたし、恋愛経験のないリュシーはもう大混乱である。
頭の中はぐしゃぐしゃで、まともな思考などとてもではないができそうにない。
「アル、私、どうしていいかわからない」
リュシーは項垂れながら正直に言った。
今まで愛だ恋だなんて考えたこともなく、その日その日を生きるのに精一杯だった。ファロティエとして生き、そしていつかは聖なる光を生み出すルナ・ファロティエになれればいいと思っていた。
今の状況は一体、何なんだろう。
幼馴染にプロポーズされ、国の王子に告白されるなど想像すらしたことのない事態だ。
「ごめん…………」
一体誰に向けた謝罪なのかもわからないままこぼれ出た言葉に、アルフォンスは反応しなかった。どんな顔をしているのか、見るのも怖い。優柔不断な自分に呆れているだろうか。
ただ何も言わず、繋がれたゴツゴツとした手だけは離れずに、暖かかった。




