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十二年前のあの日、彼女に恋をした。
ジルベールの母親は三人いる国王の妃のうち、もっとも位が低い三番目の妃。ジルベールはそんな母から生まれた子供だった。
この国の王位継承順位は生まれた順で決まる。
最初に生を受けた息子であったため、ジルベールは自然と王位継承第一位の王太子となり、まだ五歳であるにも関わらず時期国王としての教育を受けていた。
しかし国王はまだ若く、残る二人の妃もまだ若い。
幼いジルベールには知る由もなかったが、宮廷では彼女たちが身籠るのも時間の問題だろうと言われていたし、仮に第一妃が男児を産んだ場合にはジルベールの命は危ういだろうとも囁かれていた。口にこそしなかったが、母もずっと気を揉んでいたに違いない。
そして恐れていた事態が訪れる。
数日前に第一妃の子供が生まれた。それも男児だということで、彼を王位に据えるべく邪魔者のジルベールは命を狙われるだろうと、周囲の者たちは警戒をしていた。
ジルベールは男児が生まれた日から部屋に閉じ込められて、出ることを許されなかったが、それでも護衛になりすました第一妃の放った刺客によってあっけなく拉致された。
夜中に宮殿から連れ出されたジルベールは手足を縛られ、口を布で覆われて馬車の荷台に放り込まれた。
どこへ行ったとしても殺されるのは目に見えている。
誰もいない森の中で密かに獣の餌になるのか、無理やり毒を飲まされるか、それともブラウデル川に放り込まれるのか。
これから自分の身を襲うであろう悲惨な末路に思いを巡らせると、ジルベールの体は恐怖に強張り、呼吸は荒くなった。布で覆われた口を懸命に動かして叫び声を上げても、誰にも気が付かれない。見張りの男がそんなジルベールを見下ろし、笑う。
「誰も来やしねえよ。諦めな」
「――っ! ――――っ!!」
「はっは、一国の王子ともあろうお方が無様だな」
やがて馬車は停まった。宮殿を出ていくらも走っていないようだった。
ジルベールを攫った男二人に担がれて、外へと引き摺り出される。真っ暗闇に包まれているので分かりにくいが、おそらくサンティエンヌの都のどこかだろう。
漆黒の闇が支配する都はぬるりとした澱んだ空気が漂っており、吐き気を催す嫌な臭いが鼻をつく。
ジルベールが連れ出されるサンティエンヌの都というのはいつも華やかな場所ばかりだった。たくさんの蜜蝋に照らされた美しい邸宅、生花の芳しい香りが満ち満ちている玄関ホール、出来立ての料理の匂いを嗅げば思わずお腹がぐるぐると鳴きだす。そして美しい装いに身を包んだ大人たちが、揃いも揃ってジルベールにかしずくのだ。
今ジルベールは、そうした場所とは全くかけ離れた路地裏を担がれて移動させられている。
大人一人がかろうじて通れるくらいの道の両側には住宅らしき建物がぎっしりと軒を連ねているが、どこの窓も固く木戸が閉められているようで一寸の光すら遮断されている。
犬猫すらもおらず、人の息遣いさえも感じないこの場所は、まるで墓地のように静まり返っている。
ジルベールを担いでいる男が、後方をついてくる男に声をかけられた。
「おい、どこまで行くんだ。ここらでいいんじゃねえか」
「まだだ、袋小路の行き止まりまで連れて行って置き去りにしねえと」
「早くしねえと俺らの身も危なくなるぞ。何せ今夜は新月だからな」
新月。
その言葉にジルベールはぞくりとした。
月明かりの届かない新月の夜には「魔」の活動が活発になると、聞いたことがある。
「魔」というのはこの世の悪感情が凝り固まってできたものであると教わっている。それに取り憑かれればいかな方法でも助かることは出来ず、人は悪魔に成り果て、人を襲う。こうなればもう銃殺されるしか道はないと。
(もしかして……僕を魔憑きにさせようというのか)
あまりにも外道な暗殺方法に、ジルベールはパニックになった。
「―――――っ!!」
「おい、暴れるな。よし、ここでいいか」
「早く行こうぜ」
男はジルベールを乱暴に落とすと、振り返りもせず一目散に走り去っていった。
「―――――っ!!」
ジルベールはどうにか動けないものかともがいたが、縛られている縄は頑丈でとてもはずれそうにない。布は唾液でびしょびしょになり、よだれが首元を伝って服を濡らす。それでも布はびくともせず、声なき声を聞き届けてくれる者もいない。
新月の夜は月明かりが薄い。加えて星もほとんど出ておらず、ジルベールは完全な闇の中、置き去りにされていた。
どれだけ時間が経ったのだろう。
やがてジルベールを、一つの影が覆った。
これほどの闇の中でも尚わかるほどに濃い影だった。
横倒しになったまま目だけを動かすと、影が自分に覆いかぶさろうとしているのがわかった。
一眼見てそれが何なのか理解できる。
(これが……「魔」……!)
抵抗できないジルベールに「魔」はするすると近づき、そのまま影を伸ばす。なすすべなく目を瞑っていたジルベールの中に、突如抗い難い感情が湧き上がってきた。
抑えきれない激しい憎しみ、怒り、全てを壊してしまいたいという、破壊衝動。
ジルベールは心の奥底から突き上がる激情に身を任せた。手足を拘束していた縄を引きちぎり、口を覆う布をむしり取る。
――殺したい、壊したい。
ジルベールの体を乗っ取った「魔」により、それ以外考えられないほどに思考が殺戮衝動に支配されていた。
そんなジルベールの前に現れたのが、リュシーだった。
この入り組んだ裏路地のどこをどうやったらジルベールの元へと辿り着けるのか、どちらにしろ運が悪いとしか言いようがない。
「魔」はジルベールの体を動かし、少女に近づくと、細い首を右手で持って締め上げる。おおよそジルベールが持つ本来の力以上の膂力でもって、少女を殺そうと右手に力をますます込めた。
その時だった。
光が辺りを照らし出し、一瞬光に目が眩んだ。
蝋燭の光とは比較にならないほどの明るさだった。
輝く光は白く、まるで小型の太陽が爆ぜたかのようだった。
眩しいだけではない。
ジルベールの中に巣食っていた「魔」は明らかにこの光を嫌がり、恐れている。ジルベールの中で苦悶の叫び声を上げ、やがては一際大きな断末魔をあげて霧散した。
やがて光は収束し、一瞬気を失ったジルベールはその場にどうっと倒れる。
意識を無くしたジルベールを揺さぶり起こしたのはほんの小さな手だった。
「ゲホッ、ゲホ……ねえ、あなた。ねえ、起きて」
「……う……君は……僕は……『魔』が……」
「『魔』はいなくなったわ」
「……もしかして君が?」
顔を驚きに強ばらせ、少女の掌に灯る明かりを見つめた。そこにはきらきらと光る、まるで星を閉じ込めたかのような輝きが乗っている。小さくとも神々しさすら感じるそれが何か、ジルベールは瞬時に理解する。
「それは……聖なる光!」
「聖なる光? 何、それ」
「何って、『魔』を退ける力がある光だよ。君、知らないの?」
少女は少し考えてから首を横に振った。ジルベールが説明しようと口を開くが、慌ただしい声と足音に注意が逸れた。同時に、少女の手に灯っていた明かりも消える。途端に暗闇が舞い戻ってきて、ジルベールは恐ろしくなった。
ガシャガシャと鎧がぶつかる音がして、数人の兵士がやって来た。手には赤々と燃える松明を持っており、誰も彼もが必死の形相だ。
「……殿下、殿下! ご無事でしたか!?」
「あぁ、エドウィン」
ジルベールはほっとした。
エドウィンはジルベールの筆頭護衛であり、味方だ。彼がくればもう、大丈夫だろう。
何があったのかを説明していると、ランタンの炎が揺らめきながら近づいてくる。少女は叫んだ。
「おとうさん」
「リュシー!」
どうやらこの少女はリュシーという名前で、父親が来たらしい。
エドウィンが父親の手に金貨を一枚握らせ、ジルベールに馬車に乗るよう促した。
すれ違う瞬間、目があった。
まだ自分とさして年の変わらなさそうな女の子は、どこにでもいそうな顔立ちだったが、珍しい杏色の髪の毛がジルベールの目を奪う。粗末な服の上に散ったその髪色は、まるで先ほど彼女が生み出した聖なる光のようにあたたかな色合いだ。
「あの、ありがとう。助かったよ」
かろうじてそれだけを言うと、その場を去る。
馬車の中で、助かった、生きていたと言う安堵感が込み上げてくる。
同時に、あの女の子のことがひどく気になった。
(リュシー。聖なる光を生み出す女の子)
神聖さを感じる聖なる光。あの綺麗な杏色の髪を持つ少女のことを思うと胸が高鳴る。それがジルベールが初めて知った「恋」という感情だった。
(もう一度会いたい)
サンティエンヌの都は広いが、聖なる光を生み出せる少女という希少性からすぐに見つけ出せるだろうと思っていた。
しかし現実にはうまくいかず、無情にも時は過ぎて行く。
時間を重ねるだけジルベールの中に巣食った感情は大きくなっていき、会いたい気持ちは強くなる一方だ。
聖なる光を生み出せるということは、ルナ・ファロティエになっている可能性が高い。そう考えたジルベールは、リュシーという名前のルナ・ファロティエがいないか、各貴族の屋敷に出入りするファロティエの名前を片っ端から調べた。
しかし該当する人物は見つけられない。
それでもジルベールは諦めなかった。貴族の屋敷でこっそり囲われているのかもしれないし、市井でファロティエをしているのかもしれないと思い、夜ごと積極的に観劇をしたり舞踏会へと参加する。会合の中身など、どうでもいい。
あの日から極度に闇を恐れていたジルベールだったが、リュシーに会いたい気持ちの方が上回っていた。光を絶やさぬようにしながら暗い道を馬車に乗って通っていく。
ただただリュシーに会いたい一心だった。
舞い降りてくる数々の縁談には目もくれなかった。いかな美姫に引き合わせられようとも、機知に富んだ会話ができる聡明な令嬢と話そうとも、ジルベールの心はまるで動かない。
ジルベールが愛してやまないのはたった一人、杏色の髪を持つ聖なる光の導き手、リュシーだけだった。
そうして出会ったのがあの日だ。
パルマントレの丘の上に建つ、ポンドール公爵邸を出た夜。
いつものように馬車の窓に目をむけ、リュシーがいないかと思いを巡らせていた時。
あの特徴的な杏色の髪がジルベールの視界を掠めた。弾かれるように腰を浮かせたジルベールは、御者に向かって声を張り上げる。
「止めてくれ!」
扉が開けられるのを待つのももどかしく、自分で扉を押し開くと、そこに立っている娘を見た。
十二年の時を超えて再会した彼女は、やはり美しかった。
杏色の髪が外套の上に散り、ランタンのわずかな光を受けて煌めいている。
これまで出会ったどんな女性よりも神々しい姿だった。
ジルベールは己の胸の内に燃える炎に身を任せ、戸惑うリュシーを馬車に引き上げて宮殿へと向かう。
みすぼらしい服に身を包んでいても、質の悪い獣脂を使っているせいで染み付いた臭いも、生活環境の低さからくる痩せ細った体も、何一つ彼女の内側から発せられる力強い美しさを損なわせていない。
込み上げる喜びが彼女には伝わっているだろうか。
どれほど会いたいと願っていたのか、彼女にわかるだろうか。
「……私のため?」
ジルベールのあまりに現実離れした告白に、リュシーは衝撃を受けた。
一国の王子がリュシーのような平民に恋をするなんてあり得ない。しかも夜毎出かけていた理由が、もう一度自分に会うためだったなどと言われても誰が信じられようか。
あの日あの夜にリュシーが聖なる光を生み出したのは、ジルベールを助けたいというよりも己が助かりたかった一心だった。だからそんなにもジルベールに感謝される謂れも、恋愛感情を持たれる理由もない。
ジルベールは戸惑うリュシーの手を優しく握り、言う。
「もう二度と手放さない。君がいてくれさえすれば、僕は満足だ」
「…………」
全く冗談を言っているとは思えない恍惚とした視線で見つめられ、リュシーはどう答えていいかわからなくなった。




