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ポンドール公爵邸があるパルマトレの丘の麓でジルベールに出会ってから、リュシーの生活は一変した。
夕暮れ時に第一地区で迎えの馬車を待ち、乗り込んでシルヴァ・ルイーヌ宮殿へと向かう。ファロティエとして夜会に付き添った今日、リュシーは御者台の上でジルベールの帰りを待っていた。
杏色のドレスの上に揃いの布で作られたケープを羽織り、じっとランタンの炎を見つめる。
このランタンも中の蝋燭も、全てジルベールが用意してくれたものだ。
白く塗られた華奢な作りのランタンの中では、甘い香りを纏わせた蜜蝋が細い煙を燻らせながら燃えている。繊細なランタンは非常に可愛らしくはあるが、リュシーはいつも使っている父の形見のランタンの方が好きだった。今履いている靴と同じで、このランタンは借り物という気持ちが強く落ち着かない。
「終わるまで馬車の中で待っていてくれ」と言われていたが、主人のいない馬車の中でじっとしている訳にはいかない。
御者は台を降りて、顔見知りの別の御者と話し込んでいた。
御者も使用人もファロティエも、皆思い思いに時間を潰して主人の帰りを待っている。馬は蹄で石畳を掻いたりしながらもその場に大人しく佇んでいる。
じっと人々の様子を見ていると、中に一際明るい光を灯したファロティエの一団がいることに気がついた。そのランタンの中には、蝋燭がない。光はランタンの中に浮かび、ひとりでに光っている。リュシーは御者台から飛び降り、その一団に近づいた。五、六人いる彼らは全員がパリッと糊の効いた服を着ており、アイロンのかかったセンタープレスのズボンを履いている。身なりの良さは往来を行き来する普通のファロティエと明らかに異なっていた。
「あの、ルナ・ファロティエの皆さんですか?」
「ん? 見慣れない顔だな」
「どこの家のファロティエだ」
「ジルベール王太子殿下です」
するとルナ・ファロティエたちは一斉に驚きの声を漏らした。
「ほう、ジルベール王子の」
「殿下はファロティエを雇わないことで有名だったんだが」
「とうとう専属で雇うようになったのか」
「あの、聖なる光、どうやれば作れるのか教えていただけませんか」
「何、お前さんは殿下に雇われているのにルナ・ファロティエではないのか」
「はい……一度だけ、五歳の時に聖なる光を生み出したことがあるんですけど。それきりで」
「ふむ……」
リュシーの言葉を聞くと、一人のルナ・ファロティエが己のランタンを地面に置き、両の手のひらを温めるように擦り合わせた。それからおもむろに手を開くと、そこには小さな、しかし力強い光が乗っているではないか。
年の頃合いは、四十代といったところだろう。口髭を歯ブラシのような形に綺麗に整えた中年のルナ・ファロティエは、光を目の前に掲げながら言う。
「一度出来たというのであれば、二度目も可能だろう」
「でも、何度試しても出来なくて。何かコツがあるんですか?」
「コツのぅ。よく聞かれるんだけどな」
言いながら左胸に手を当てる。
「ここだよ、ここ。心が篭っていれば、誰にでも聖なる光は生み出せる」
「心が……?」
「そう。逆に、心が無ければどんなに頑張っても聖なる光は生み出せない。ルナ・ファロティエにはなり得ない。なぁ?」
男が周囲を見渡すと、集う人々は一様に頷いた。
「俺が初めて聖なる光を生み出せたのは、まだ子供が赤ん坊の時だった。ひもじい生活をしていてな。マッチも蝋燭もねえような村だった。真冬の、地面もかちかちに凍った村で食うものもなく荒屋に住みながら、ここで女房と生まれたガキともども、皆死んじまうのかって時だった。俺は思ったね。『死んでたまるか』って。そうしたら胸がカッと熱くなって、気が付いたら手のひらに光が生み出せていた」
「俺もだ。俺の場合は、恋人が貧しさのあまりに身売りをしようとした時のことだ。夜の街にほっそい蝋燭を一本持って出かけたアイツを止めるために走ったんだ。『んなことしなくても、俺が何とかしてやるから。お前の食い扶持くらい稼いでやるからよ』って」
俺も俺もとその場にいるルナ・ファロティエたちは自分が初めて聖なる光を生み出した時の話を始める。どれもが極貧の中や追い詰められた時に光を発せられたというもので、リュシーの状況と似ていた。違うのは、その後彼らは自在に光を生み出せているのに対し、リュシーは再現ができないという点だけだ。
「お嬢さんはきっと、あんまり早くにできちまったもんだから、聖なる光のなんたるかがわかっていないんだと思うぜ」
「何なんですか、聖なる光って」
「おう、そりゃあ深い質問だ」
歯ブラシ髭の男が腕を組み、リュシーの問いかけを噛み締める。
「『魔』を寄せ付けない光……それをありがたがって聖なる光と人は呼ぶがな。俺たちルナ・ファロティエは光の本質を見抜いている」
「本質?」
「そうだ。この光源は、俺たちの心だよ。なぁ」
男が振り向いて同意を求めると、一団から「おぉ」「あぁ」と声が返ってくる。
「そういうことだ。さっきの話を聞いただろう。『死んでたまるか』『死なせてたまるか』って気持ちが昂ると、聖なる光は内から生まれる。それが闇を好む『魔』を退ける力を持っているってだけなのさ。難しいことじゃない。考えてみれば、当然だと思わないか? 『魔』は人の中の負の感情が凝り固まって、具現化したもんだ。だからそれを打ち消す聖なる光は、人の強い思いの力から出来上がってるんだよ」
話を聞いたリュシーは、男がやっていたように両手を擦り合わせてからそっと広げてみた。が、何も起こらない。体のうちから湧き上がるようなあの熱もなければ、突き上げるような衝動も何もない。
ルナ・ファロティエたちに礼を言うと、御者台に戻る。
(どうすれば、出来るんだろう。どうすれば……)
その夜はジルベールが戻ってくるまでずっと、リュシーは手のひらを擦り合わせながら聖なる光を生み出す方法を模索し続けた。
戻ってきたジルベールは申し訳なさそうに眉尻を下げ、馬車の向かいに座るリュシーを労った。
「待たせてすまない。本当はもう、僕は夜会になど出る必要はないんだけど、どうしてもと言われてしまってね。寒くはなかったかい?」
夜会に出る必要がない、というのはどういう意味だろうとリュシーは内心で首を傾げつつも返事をする。
「はい、大丈夫です」
「ただ僕の帰りを待っているのは、退屈だったろう」
「いえ。ルナ・ファロティエの皆さんの話を聞けて、とても参考になりました」
「そうか。聖なる光を生み出すヒントは見つかった?」
「はい。……たぶん」
リュシーが自信なく告げると、ジルベールはやんわりとした笑みを浮かべた。
「焦らなくてもいいよ。時間はたっぷりあるんだ」
この人は本当に、リュシーが聖なる光を生み出せるその日まで、こうしてファロティエとして雇うつもりなのだろうか。いや、聖なる光を生み出せたとしたら、その後もずっと専属で雇っておくつもりなのだろうか。
「恩返し」と称してリュシーを雇い、贅沢をさせるジルベールの真意が読み取れず、リュシーはなんだか落ち着かない。
シルヴァ・ルイーヌ宮殿のジルベール住む離宮に戻ると、利休全体に眩しいほどの照明がついている。まさか王子が帰ってくるまでずっと、この状態だったのだろうか。
たまらずにリュシーは部屋の中で上着を脱いだジルベールに話しかける。
「ジルベール様、流石にこれはやりすぎでは……少し消してはダメなんですか?」
「ダメだよ。このくらいは点けておかないと」
にべもなく却下する王子に、リュシーは少しムッとした。
「サンティエンヌの下町に住む人たちは、夜間の家での点灯を禁止されていて、暗い中で過ごすことを強いられています。それに、こんなにたくさんの蜜蝋をずっと点け続けておくなんて、もったいないと思います」
木戸を閉め、真っ暗闇の中を一晩中『魔』に怯えながら過ごす平民と、赤々と上等な蜜蝋を燃やし続ける貴族たち。
リュシーたちが使えるのは獣の脂臭い蝋燭で、蜜蝋は上流階級の人々にほとんど独占されている。
同じ都で生きる人間のはずなのに、なぜこれほどの差別を強いられなければならないのだろう。
腹を立てて反論したリュシーが意外だったのか、ジルベールは翡翠色の瞳を見開き面食らったような顔をした。それから視線を彷徨わせ、口を開く。
「……すまない。僕はそんな風に、蝋燭くらいで腹を立てられるなんて思っていなかったんだ」
蝋燭くらいで。
ジルベールに悪気はないのだろうが、その言い方ひとつとっても階級社会の差を感じる。
リュシーは震える唇を開いて、なおも言った。
「ジルベール様はもっと、平民の暮らしを知るべきです」
「そうだね、そうかもしれない」
申し訳なさそうな顔をするジルベールを見て、命の恩人とはいえただの平民であるリュシーに対して謝罪できる素直さに少し感心した。
リュシーの言い草に腹を立て、出ていけと命じたとしてもおかしくはないのに。
眉を下げ、困ったような顔をするジルベールには、差別意識のようなものは感じられない。
この人が真摯に平民の言葉に耳を傾けてくれるのであれば、国は変わるのかもしれないと思った。
「座って、リュシー」
大人しく座ったリュシーの隣にジルベールも腰掛ける。ジルベールはリュシーの杏色の髪をひとふさ手にとって口づけを落とす。洗練された仕草は、まるでおとぎ話に出てくる王子様そのものだ。
「リュシー、いい名前だ。かがやく者という意味だろう? 僕の名前もね、似たような意味を持つんだ。ジルベール……光の申し子」
ジルベールは翡翠色の瞳を切なげに細めてリュシーを見つめた。その目線は熱っぽく、まるで恋焦がれているかのような情動が見え隠れしている。
「なぜ僕が夜毎に出かけるのか、理由を知りたいかい?」
リュシーがゆっくり頷くと、やおらジルベールは語り出した。
「僕は十二年前のあの日、君に恋をしたんだよ」




