(6)
「母さん! どこにいるんだ!?」
次から次に寄ってくる魂を払いのけながら、ソールはあたりを見回した。
あれは絶対に母だった。赤ん坊をかかえ、小屋のそばをすうっと通り過ぎていったのは。
「母さん!」
どれだけ叫んでも応じる姿はない。関係のない霊魂ばかりが自分をつかんで引きずろうとすることに、ソールは苛立ち、ますます母を捜して声を張り上げた。
ガッと腕を取られた。びくりとしてから、それが生身の人間の手だと気づく。
「まったく、まさか君が暴走するとはね」
霊魂たちが散らされた。遠巻きに自分たちの周りをぐるぐる飛びながら、悔しそうにうなり声を上げている。
「ここにいる魂の全部が全部、主神の御元から降りてきたわけじゃないんだよ。これから導かれるものもたくさんいるんだ」
中には害をなすものだってある。だから小屋を出てはだめだと言ったのに、と淡い虹色の光を全身から放ちながら、キルクルスはため息をついた。
「君の試練も母親絡みか……でもルテウスほど直接的ではなさそうだから、残念だけど君の番はもう少し先のようだね」
ソールは目をみはり、それから眉をひそめた。
「キル、お前……」
どういう意味なのか。いったい何を知っているのか。
そもそも、どうして虹色に輝いているのか。
霊魂は明らかにキルクルスを恐れて近づかなくなっている。しかしソールが疑問を口にする前にキルクルスは身をひるがえした。
「みんなが心配してるから、帰るよ」
腕を引っ張られる。力だけなら簡単に振りきれるくらい自分のほうが上だが、有無を言わさない強さにソールは気圧された。
見失った母に未練を残しながら、やむを得ずソールは小屋へと戻った。
キルクルスと一緒にソールが帰ってきたので、ルテウスはほっとした。小屋で待っていたみんなも安堵の言葉を漏らしている。
「もう、ソールってば、勝手に出ちゃだめだって言われてたのに」
セピアが怒っている。ソールが叱られるのを見たのは初めてかもしれない。
ソールは黙ってうつむいている。キルクルスが困ったような笑みを浮かべた。
「急に死に別れた場合、よくあることなんだ。だからあんまり責めないであげてよ」
危険な行為には変わりないから二度は許さないけどね、とキルクルスに釘をさされ、ソールが「……悪かった」とぼそりとあやまる。
「寒いから、早く中に入ろう? キル、ソールを助けてくれてありがとう」
リリーがソールを小屋の中へ引き入れる。おとなしく従ったソールの後ろで「どういたしまして」と笑顔で答えたキルが、ルテウスをふり返った。
「ルテウス、そろそろ扉が閉まる頃だよ」
だから最後の別れをすませておけということか。ルテウスはきゅっと唇をかんだ。
離れたくなかった。このまま三人でずっとこうしていたい。
しかし、時間はとまらない。別離のときは刻一刻と迫っていた。
それまで遠く近くを飛び交っていた魂のいくつかが、空へ昇りはじめた。つられていく魂が徐々に増えていく中、ルテウスはまだ湿った頬をぬぐって両親を見た。
「母さん、俺……キュグニー先生と同じ風の法を学びたかったんだ」
あの爆発の日に自分を助けてくれた教官にあこがれた。彼についていきたい、彼の歩んだ道をたどっていきたい――ずっとそう願っていた。
「でも今は、大地の法を使えることを誇りに思う」
母と同じ守護神をもつことが、間違いなく母の子だという証のようで――ここにきて初めて、嬉しいと感じられた。
大地は暗黒神の支配を防ぐ砦。闇を抑え、人々が天空神の祝福を受けて安寧の日々を過ごせるよう見守るための力。
「俺、もっともっと勉強するよ」
自信をもって自分の道を進んでいきたい。父や母のように、信念のある人間になりたい。
両親がうなずいた。慈しみに満ちた笑みを広げ、ルテウスを包み込んでから、二人はふわりと離れた。
「……行くのか」
とどめておくことはできない。住む世界が違うから。
二人の視線が小屋のほうへ流れた。今のルテウスには彼らがいるから大丈夫だと、二人の目は語っている。
「父さん、母さんを頼むよ。それから母さん……俺を守ってくれてありがとう」
あんたが好きだよ、とはさすがに照れ臭くて口にできなかった。それでも母には伝わったらしい。まだ三人で暮らしていた頃によく見せていた理知的な微笑みを返してきた母親に、ルテウスもまた笑った。
父が母の手を取る。再び泣きそうになるのをこらえ、ルテウスは二人が上昇していくのを見送った。しっかりと、目に焼き付けるために。
風が出てきた。自発的に扉へ向かう魂が多いが、中には無理やり気流に乗せられて運ばれていくものもいる。
たくさんの光が明滅しながら舞い上がり、開かれた扉の向こう側へと消えていく。抵抗していた魂も見えない手に引かれるように吸い込まれ、扉がゆっくりと閉まった。
やがて、外灯がまた順番に点火していく。鳥の鳴き声すらしないひんやりとした静けさをかみしめながら、ルテウスはそのまましばし、法陣の中でたたずんでいた。
いいかげん小屋に入れとオルトに声をかけられ、ルテウスはのろのろとみんなのもとへ向かった。しかし、怒りにとらわれていた数時間前とは異なり、気分はすっきりしていた。むしろぽっかりあいた心の穴が寂しいと思えるほどに。
死者が去るまで封じられていた暖炉が、控えめに炎を生んでいる。上着を脱いだルテウスは、フォルマから温かい飲み物を渡され、円になって座っている七人の輪に加わった。
「今夜からはぐっすり眠れそうだね」
「ああ……みんなのおかげだ」
レオンの言葉に、ルテウスは素直に感謝を口にした。
「ずいぶん長い時間をむだにしちまった」
「それも君の成長に必要なものだったと思えばいいんじゃない? ルテウスなら、どんなことも糧にしそうだから」とレオンが励ます。
「それにしてもルテウス、どっちが本当のお母さんかよくわかったね」
自分の飲み物に息を吹きかけながらセピアが言うと、オルトもうなずいた。
「てっきり泣いてるほうが本物かと思った」
「何度も面と向かって嫌いだって言い続けてきたからな。俺にそう言われたときの母さんの顔しか印象に残っていないってのも、情けない話だが」
リリーに差し出された母の日記を手に取り、ルテウスはあぐらをかいた膝の上に手帳を置いて、そっと表紙をなでた。不意に、ズボンのポケットに何かかたいものが入っていることに気づき、ポケットをまさぐる。
「もし君が偽物を選んでいたら、君を向こうの世界に蹴りとばすところだったよ」
キルクルスがにっこり笑う。
「キルはどっちが本物かわかってたんじゃない?」
リリーの問いに、キルクルスはさも当然とばかりに「そうだよ」と答えた。
「だったら教えてあげればよかったのに」
しかめっ面のセピアに、キルクルスは首を横に振った。
「そんなことをしたら、ルテウスはそれを手に入れられなかったよ」
ちょうどポケットから取り出したものを見ていたルテウスを、キルクルスが指さす。全員の視線が集中したルテウスのてのひらの上には、黄色い玉が転がっていた。
「それ……」
リリーもポケットから緑色の玉を出してみせる。二つになった玉に、沈黙が落ちた。
「……ねえ、キル」
リリーがキルクルスに目を向けた。
「お父さんとお母さんには、この玉は見えないの。たぶん、私たち以外の人にはみんな……なのに、どうしてキルには見えるの?」
今度はキルクルスに注目が集まった。
「キルって何者なの? この玉はいったい何を示しているの?」
リリーのさらなる追及にキルクルスがどう返事をするか、みんな待っている。ルテウスはこれまでのキルクルスの言動から、その正体について予想を立てていた。リリーたちを部屋から追い出した後にキルクルスが行った傷の手当。偽物だった魔を抹殺した天空の法の文言。
ただ、なぜ自分たちのもとにやって来たのかがわからない。何の意図があって動いているのか。
ルテウスはソールに視線を投げた。ソールもまた何か思うところがあるのか、口を開きかけては閉じている。先ほど飛び出していったソールを捕まえにいったのはキルクルスだから、そのときに何か他とは違うものを感じたのかもしれない。
「とりあえずは、君たちの味方とだけ言っておくよ」
僕のことも、その玉のことも、おいおい説明するから、とキルクルスが微笑する。
「みんながこのまま進んで、無事に資格を得たら……」
そこから先は僕たちの仕事だから――ぼそりと言って、キルクルスは手の中の熱い茶を飲み干した。
朝、寝返りを打ったところで目が覚め、リリーはのそりと起き上がった。ぼうっとした状態であたりを見回すと、まだみんな寝袋の中で休んでいる。いや、一つだけ空っぽになっているものがあった。
昨夜ルテウスが立っていた露台にいる人物を見て、リリーは上着を羽織ってそっと扉を開いた。
「おはよう、ソール」
「おはよう……早いな」
他の人たちを起こさないよう静かに扉を閉めたリリーを、ソールがふり返る。こげ茶色の髪がわずかにはねているのがかわいらしくて、リリーはふふっと小さく笑った。首をかしげるソールに、寝ぐせがついているのを指で示すと、ソールが恥ずかしそうに髪をなでた。
「リリーはそれだけ長いのに、全然乱れないんだな」
「うん、でも逆にまっすぐすぎて滑るから、髪をくくるのがちょっと難しいの」
ソールの隣に並んで朝の空気を吸い込む。ひんやりとした風がのどを冷やし、リリーは一度身震いした。
「寒いなら中に入っておけよ」
風邪をひくぞと言われ、リリーは「大丈夫」とかぶりを振った。
「……ソール。もしかして昨日、お母さんを見つけたの?」
遠慮がちに尋ねると、ソールが肩を揺らした。手すりにもたれ、ソールはまだ足元に残っている天空の法陣を見下ろした。
「もしあの札を拾っていたのがルテウスじゃなく俺だったら、俺の母さんが来ていたんだろうかってずっと思ってた。でも昨日見えた母さんは、俺に気づかずどこかに行ってしまった」
「それは、ソールとお母さんの間には、ルテウスみたいなわだかまりがなかったからじゃ……」
「ある」
リリーの言葉を遮り、ソールは唇をかんだ。
「母さんが死んだのは、俺のせいだ」
意味を理解するのに少し時間がかかった。驚きのあまりかたまるリリーを見やり、また法陣へとソールは視線を移した。
「リリーは、妹か弟が欲しいと思ったことはないか?」
「……うん、あるよ」
兄弟の多いセピアがうらやましくて、父と母に言ってみたことがある。そこで初めて母が実は髪を染めていて、本来は黒髪であることを知ったのだ。
母は自分の髪の色を子供が引き継いでしまうことを心配していた。自分と同じように人目をごまかしていく苦労をさせたくなくて、あえて子供をつくらないようにしたのだと。
リリーが生まれたとき、黒髪でなかったことにどれだけほっとしたかを聞き、リリーはそれ以上何も言えなくなってしまった。
兄弟はいないけれど、その分父と母はたっぷり愛情をそそいでくれているので、今は十分満足している。むしろ一人の時間がもてるのでよかったとも考えられるようになった。
「俺はカルパみたいに弟が欲しかったんだ。ペイアも俺には大事な家族だが、俺の友達に混ぜて連れ歩くのはやっぱり難しくてな。乱暴な遊びになることも多かったし。かといって、ペイアに付き合って人形遊びやままごとばかりするのは退屈で……あの頃は、何の遊びをするかでペイアとよくもめていた」
だから誕生日の贈り物は何がいいか聞かれたとき、『弟』とソールは答えた。それはすぐには渡せないから、一年は待ってくれと両親に言われ、心待ちにしていた。
「母さんはもともとそんなに体が丈夫なほうじゃなかったんだ。ペイアを産んでからよけいに……それなのに、俺の頼みを叶えようと無理して……難産になった」
産気づいてから容体が悪くなり、結局赤ん坊も母親も助からなかった。母体から引き出された子は男児だったと、ソールは後で聞いた。
「ペイアはまだ小さくて、母親が必要だったのに……俺は、父さんからもペイアからも母さんを取り上げてしまったんだ」
かける言葉が思い浮かばなくて、リリーはただソールを見つめた。
中央広場の噴水池で過去の出来事を打ち明けたとき、なぜソールが非難もしなければ変になぐさめることもしなかったのか、わかった。
ソールのせいではない。でもソールはそう考えていない。
ソールだって、母親を失ってつらかったはずなのに。
「なんでお前が泣くんだ」
苦笑顔で、ソールがリリーの目元に指をのばす。こぼれ落ちた涙をぬぐうソールのまなざしは優しくて、それが悲しかった。
「悪い。朝から聞かせる話じゃなかったな」
無言で首を横に振るリリーの肩を軽くたたき、「そろそろみんな起きるだろうから、朝食の用意をするか」と言って、ソールは小屋へ入っていった。
目を覚ました人から順番に寝袋を片づけ、宿泊者のために用意された食事を取りに行く。ソールはもういつもの落ち着いた様子に戻っていたので、リリーも何事もなかったかのようにふるまった。
そして朝食をすませ、小屋から荷物を出していると、エスキーがやってきた。
「おはよう。成功したか?」
「うん、予定外の行動は一つあったけど、何とか終了した」
キルクルスの視線がソールに流れる。ソールがきまり悪そうにするのを見て、リリーは「あっ」と叫んで話を変えた。
「クルスのお土産を買って帰らないと」
「いいよ、そんなの。帰ってから甘やかしてやれば満足するから」
キルクルスが渋面する。
「だって、いい子でお留守番してるのに」
「クルス……?」
不思議そうな容相のエスキーに、キルクルスが飼っているハヤブサのことだとリリーが説明すると、エスキーが目をみはった。
「まさか、リリーの家に一緒に住んでるのか?」
エスキーがキルクルスをかえりみる。「クルスがね」とキルクルスが答えた。
「人懐っこいし、賢いし、かわいいですよ」
リリーは笑ったが、エスキーはあきれ顔になった。
「ずいぶん図々しいことをしてるな」
「クルスがね」と、キルクルスが顔をそらして繰り返す。
「食いしん坊だから、食べ物のほうがいいかな」
考え込むリリーに、エスキーが「それなら、この先の市場に寄ればいい。あいつの好物を教えてやろう」と言った。
お礼の言葉を返したものの、リリーは「あれ?」と首をかしげた。エスキーはクルスの名前を知らなかったようなのに、どうして好きなものがわかるのだろう。
しかしそれを聞く前にエスキーが離れてしまったので、結局うやむやになってしまった。
先に市場でクルスの好きな果物を購入してから、リリーたちは荷馬車へ向かった。協力して荷馬車に荷物を乗せ、御者台にはセピアとオルトが上がる。さあ出発というところで、見送りに来たエスキーがオルトに話しかけた。
「引きずられるなよ。意地でもはね返せ」
さもないと大変なことになる――おどしともとれる忠告に、オルトが眉をひそめる。何のことだとオルトが問い返したが、エスキーは答えず、ただかぶりを振った。
「それじゃあエスキー、また遠くないうちに」
「ああ、幸運を祈る」
荷台から身を乗り出したキルクルスの額にエスキーが口づける。性別の垣根を越えた外見の二人の行動に、何だか見てはいけないものを見た気持ちになり、リリーたちは赤面して視線をそらした。
オルトが鞭を振るい、荷馬車が動きだす。エスキーに手を振るキルクルスの隣で、リリーも最後にエスキーをふり向くと、目があったエスキーが口角を上げた。頑張れ、と言われた気がして、リリーも小さく手を振った。