(5)
「ルテウス、ちゃんと食べておいたほうがいいよ」
「……ああ」
フォルマの呼びかけに生返事をしながら、ルテウスは外を見ていた。薄曇りのせいで判別しにくいが、時間は確実に過ぎていっている。もうじき、天空神の世界の扉が開くのだ。
絶対に向こうの世界に追いやってやる。そして二度と自分の前に現れないようにしてやる。
もうたくさんだ。ようやく少しずつ前を向いて進めるようになってきたのに、どこまで自分の邪魔をすれば気が済むのか。
こんな脅しに屈するほど自分は弱くない。今日必ず決着をつけてやる。
「夜は冷えるから、ルテウスは上着を着ておいてね」
キルクルスの忠告に素直にうなずき、ルテウスは食事を無理やりかき込んでから、自分の袋に突っ込んでおいた上着を引っ張り出した。そのとき床に厚めの手帳が落ちたのを見て、ルテウスは目をみはった。
「ルテウス、何か落ち――」
「触るな!」
拾おうとしたセピアより先に手帳を蹴り飛ばす。手帳は小屋の玄関扉に当たって床に転がった。
ルテウスの大声に驚いて手を引っ込めたセピアのおびえた表情を見て、ルテウスは舌打ちした。
「……悪い」
「ルテウス、説明してくれないと、みんな対処に困るよ」
人をからかうことの多いレオンが、いつになく真面目な口調でうながす。一度歯がみして手帳をにらみつけてから、ルテウスはため息をついた。
「あれは、あの女の日記だ」
自分が今、母親の亡霊にまとわりつかれていること、アルクス市で亡霊をこの世から消し去るつもりであることを告げたルテウスに、祖父母がそっと差し出してきたのだ。ここには母の思いがすべて詰まっているから、アルクス市に着くまでに読んでほしいと。
「ルテウスは読んだの?」
レオンの問いかけに、ルテウスはかぶりを振った。
「読むわけないだろう、そんなもの。どうせ俺や父さんへの文句ばかり書いてあるに決まっている」
どうしてわざわざ自分から傷を広げるようなまねをする必要があるのかと突き返したはずなのに、祖父母はこっそり隠し入れておいたのだ。
「俺を祟るような女の気持ちなんか、今さら知ったところで何も変わらない」
今夜を越えたら後で燃やすから放っておいてくれと言い捨て、ルテウスは上着を着はじめた。
みんなに背を向けていたので、ずっとルテウスを見つめていたセピアがそろそろと手帳に近づいたことに、ルテウスは気づかなかった。だから、手帳をめくったセピアが声に出して読みはじめたとき、ぎょっとした。
「……『水の女神がまどろむ月』十九日、ついに大きな証拠をつかんだ」
「おいっ!」
「これでようやく夫の仇が討てる」
セピアをとめようとしたルテウスは、はっとした。
「『水の女神がまどろむ月』二十日、今日もつけてくる者がいた。これまでに集めたものは、信頼できる政務官にすべて預けることにした。家には残しておけない。ルテウスと、父と母を守らなければ」
セピアは続けた。
「『水の女神がまどろむ月』二十一日、今日は早いうちに書き記しておく。これから会うのは、夫と親しかった法務官だ。夫の死をともに偲びたいと……ふざけるな。どの口が言うか」
誰も中断させようとしない。しんと静まり返った小屋の中で、みんな動けなくなっていた。
「私は今夜、ここに戻れないかもしれない。ルテウスは部屋に鍵をかけている。私と顔をあわせたくないらしい」
続けるセピアの声が震えている。
「最後に一目、見たかった。愛する夫によく似た、何よりも大切な私の息子」
泣いている。リリーが、フォルマが。
「十年、二十年、ずっと先まで、あなたの成長していく姿を、夫とともに見守りたかった」
「……嘘だ」
「それでも、これがあなたの将来を守る道だと信じている。私は……夫は間違っていなかったと、必ず明らかになることを祈って――愛しいルテウスへ。どうか、母の不実を乗り越えて、健やかに、安らかに育ってほしい」
「嘘だ!」
あり得ない。絶対にあり得ない。
「貸せっ」
セピアの手から奪い取った手帳を乱暴にめくっていく。
読まれる可能性のある最後だけ、世間体を考えてよい母親を演じただけだ。
どこかに本音が書いてあるはずだ。自分をののしり、放置して、毎晩遊び歩いていた気楽さが。
父親似の顔など見たくもない。暗く沈んだ家には帰りたくない。醜い心を暴露した箇所が。
そしてルテウスは、言葉を失った。
そこにつづられていたのは、母の苦悩だった。自分がルテウスを大事にすれば、いずれ自分の調べたものをルテウスに預けると思われてしまう。そうなれば、次はルテウスが狙われる。また、同居している両親まで危険にさらしてしまう。
自分はこの家族を見捨てて自由に生きている。ルテウスも両親も自分は信用などしていない。家に寄りつかないのはそのためだ――周囲にそう見せざるを得なかった苦しみと悲しみにあふれた文章。
朝方まで飲み歩いていたのは、酒に付き合うことで彼らの口が滑るのを待っていたから。
一つ一つ確実に、粘り強く、証拠になるものを探っていたから。
二年間、一人でコツコツと慎重に機会を追い求め、ようやく実を結んだものと引き換えに母は殺された。
おそらく、口封じのために――。
「なんでだ……なんでなんだよ」
目頭が熱くなる。混乱のあまり、息ができない。
母は自分をうとんじていたのではなかった。守るために、未来へつなげるために、わざと自分と距離を置いた。
でも愛していたのなら、なぜ母は今、恐ろしい姿で自分を責め立てるのか。
自分が母を恨み、遠ざけたからか。母の本心を知ろうともせず、憎み続けたからなのか。
本当に苦しんでいたのはお前ではなく私だと、訴えたかったのか。
「そろそろ時間だよ」
法陣に入るようキルクルスに指示され、ルテウスは顔を上げた。
「あちらの世界の扉が閉じるまで、君たちは外に出ないようにね。そうしないと引きずられてしまうから」
リリーたちが神妙な顔でうなずく。そして彼らは心配そうにルテウスを見つめた。
「ルテウス……」
本当にお母さんを無理やり向こうの世界へ押しやるつもりかと、六人の目が聞いている。ルテウスは唇をかんで顔をそらし、のろのろと歩きだした。
露台に描かれた天空の法陣にルテウスとキルクルスが一緒に入ってからしばらくすると、誰も触れていないのに外灯が一つずつ消えはじめた。
この日のためにアルクス市を訪れた人たちは皆、小屋や天幕に入って外をのぞいている。リリーたちも全員窓辺に張りついて、二人を見ていた。
まもなくすうっと暗闇が降りてきた。あたり一面が暗くなったとき、はるか上空に大きな光が出現した。
虹色に輝いているのは両開きの扉だ。その扉が小刻みに震えたかと思うと、ゆっくりと開きだす。完全に開き切るのを待たずに、たくさんの小さな光が我先にと飛び出してきた。
何かを探すように飛び回る幾多の霊魂に、ルテウスは立ちつくした。それらは時々ルテウスに近づいては、求める存在と違うとわかって離れていく。
母はどこにいるのか。いつも夜になると現れる母は――。
「……来たね」
隣でキルクルスがつぶやく。その薄茶色の双眸は細められ、もつれあいながら降りてきた二つのものをしっかりとらえていた。
「お母さんが……二人!?」
窓越しに驚くセピアの声がする。ルテウスも信じられない光景に目を見開いていた。今まで一人しかいなかった母が、どうして二人いるのか。
二人の母はつかみあい、ルテウスのもとへ行くのを妨害していた。どちらも暗い赤紫色の髪を振り乱し、必死の形相でお互いを取り押さえている。
「どういうことだよ……」
「一人は本物。もう一人は、呪物より生まれた魔だ」
困惑するルテウスを、キルクルスが横目に見た。
「今まで君に張りついて苦しめていたのは、お母さんの姿を借りた偽物だったってことだよ」
「なっ……」
母ではなかったのか。毎晩のように自分のもとを訪れ、恨みがましいまなざしを延々と突きつけていたのは。
「じゃあ、母さんは……」
「扉が開いたことで、君を助けるために飛んできたんだ」
ルテウスはあらためて二人を凝視した。どちらが本物かわからない。本当にそっくりだったのだ。
「一度天空神の司る世界に渡った魂は清らかになる分、争いに必要な抵抗力も失う。闇の気に飲み込まれるとあっという間だよ。このままでは、君のお母さんの魂は魔に食われて消滅する」
「そんな……!!」と、背後でリリーたちが悲鳴をあげた。
「待っていれば、本物のお母さんはいなくなり、偽物が残る。それから魔を退治するのは簡単だ。でもお母さんを無事に向こうの世界へ帰したいなら、君が助けるしかない」
「どうやって!?」
「選べばいい。君の気持ちが力を与えるから」
ただし偽物を選んで力を貸してしまったら、本物はやはり消えるよと、キルクルスが冷ややかに言い放った。
キルクルスの話が聞こえたのか、もみあったままの姿勢で二人の母親が動きをとめ、ルテウスに視線を向けた。
二人の唇が同時に開く。ルテウス、という名を形作る。
ルテウスは歯ぎしりした。あまりにも似ていて見分けがつかない。
これも罰か。母を避け、まともに顔をあわせずに別れてしまった自分への――。
放っておけば偽物は判明する。しかしそのときには、本当の母は永遠に失われてしまうのだ。
「……母さん」
呼びかけると、二人の母がルテウスのそばにやってきた。手をのばせば届く距離で浮かんでいる二人を、ルテウスは交互に見やった。
二度と会わなくてすむようにしてやるつもりだった。これ以上自分の邪魔はさせないと。
「……俺は、あんたが心底嫌いだったよ」
ルテウスの低いつぶやきに、二人の母が目をみはる。
「父さんが死んで、わけがわからなくて……俺には母さんしかいなかったのに、俺を放って夜遊びに明け暮れてたあんたが、大嫌いだった」
ルテウスは二人をねめつけた。
「あんたが何をしてたかなんてどうでもいい。俺はただ、そばにいてほしかった。じいさんばあさんじゃ代わりにならない。あんたに、いてほしかったんだ。それを今さらあんな日記を読まされて、それで俺が許すとでも思ってたのかよ? ふざけるな!」
ありったけの怒りをこめて叫ぶと、二人の母の表情が分かれた。一人は泣きはじめ、一人は眉をつり上げてルテウスをじっと見つめている。
その瞬間、ルテウスは自然と口の端を上げていた。
「……あんたが、俺の母さんだ」
「ルテウス!?」
背後でみんながまさかと動揺しているのが伝わってくる。それでもルテウスはしっかりと、一人の母の手をつかんだ。
自分の抗議に嘆くことなく、まっすぐに見返してきた母を。
ルテウスと母の一人が触れ合うと同時に生まれたまばゆい光にはじかれて、もう一人の母が「ギャッ!」と身をよじる。腕で顔をかばってよろめいている母親に、キルクルスの目が向けられた。
「選んだね。ここからは僕の出番だ」
キルクルスの言葉に、選ばれなかったほうの母親が恐怖の色を浮かべた。
「主よ、賢者の末裔たる我が祈り、聞き届けたまえ。我が前にある暗き穢れを聖なる調べにてかき消さん」
小屋の中で見守るリリーたちに聞こえない程度の声で詠唱したキルクルスが、杖で宙に五芒星を描く。虹色に輝く星がぱあっと広がり、母親を包み込んだ。
おぞましいうめき声を響かせて、母親の顔が崩れていく。中から現れた黒い気はのがれようとしたが叶わず、虹色の光の中で蒸発して消えていった。
束の間、静寂が訪れた。後に残った母親とルテウスが手をにぎったまま見つめあっているところへ、新たな魂がふわりと寄ってくる。
「……父さん」
ルテウスと同じ髪と瞳の色をもつ男性は母の肩を抱き、ルテウスに微笑んだ。母が安堵した様子で父にもたれる。
「二人とも、向こうで再会できたんだ」
よかった、という言葉は声にならなかった。涙があふれてとまらない。ボロボロと泣きだしたルテウスを、父と母が二人で抱きしめた。
ぬくもりを感じた。寂しさがほんのりにじんだ優しさに、胸が苦しくなる。
こらえきれずにルテウスがしゃくりあげると、隣にいたキルクルスがそっときびすを返した。無言で法陣を出て小屋へ戻るキルクルスを視界の端に映しながら、ルテウスが思う存分両親に甘えようとしたそのとき、リリーの叫び声が届いた。
「ソール!?」
自分の脇を駆け抜けていくのはソールだ。何かを追っているのか、視線はまっすぐ前を向いている。
「君たちはここにいて! 僕が行く!」
キルクルスが走っていく。ソールはもうずっと先にいる。その体にいくつかの魂が群がり、まとわりついていた。