一万超えの缶コーヒー。
ちらほらと、住宅街に舞う雪が膨らみを増していく。
こんな日に暖房の効いた喫茶店でたしなむ一杯は格別だ。
ブラックアイボリー。コーヒー豆を食わせた象の糞から選別される特異な存在。百グラム三万円を必要とし、ほとんどの喫茶店で取り扱われることはない。
「マスター。今日もいい仕事してるね」
マスターは少しだけまぶたを開き、ごくわずかに会釈してくれた。とそこで、一人の少女が店の横を通りがかる。
僕は慌てて席を立った。
「マスター、すぐ戻る!」
「お会計七千七百七十七円になります」
「ええい、釣りはいらん!」
万札をたたきつけ、店を飛び出す。
彼女の名を呼んだが振り返らない。肩で息をし、必死の思いで彼女を捕まえる。前髪で目元が隠れているが、彼女が不機嫌なのは明らかだった。
「偶然だね。ラフな服装を見るからにコンビニにでもいくのかな?」
「……そんなとこ」
「実はさっき世界一美味しいコーヒーを嗜んでいてね。せっかくだし君もどうかな?」
「いらない」
そうくると思った。
彼女は超がつくほどの天邪鬼。こんな寒い日には温かくて最高なコーヒーを飲みたいに決まってる。そそくさと歩みを進める彼女の横に並び、説得を続ける。
「私も世界一美味しいコーヒー知ってるよ」
脈絡もなく、彼女は言った。
「そ、そんなわけ……っ!」
僕の言葉を待たず彼女はすぐ先の裏路地へと隠した。置いていかれないよう足を踏み出して盛大に滑る。裏路地に入るとすぐ、彼女が自販機の前でしゃがみ込んでいる姿が目に入った。
かこっと、プルタブを開く。
ちびりと飲んで、彼女は白い息を吐いた。
「……ん」
差し出された缶コーヒーに僕は逡巡したが、彼女にぐいっと押しつけらえて受け取ってしまう。アルミのふちには少しばかりの黒い飲み残しが溜まっていた。
一思いに、ぐいっと飲みこむ。熱い流体が食道を通ってじんわりと胸を焦がしていく。感じるのは鼻から抜ける微かなコクのある風味。舌に残る苦みの中に、なぜか甘みを感じる気がする。
指の先まで温まる。
「それ、一万円の缶コーヒーなんだ」
「な、なんだって⁉ マスターのより美味しいわけだ‼」
「……くふふっ。なんてね」
「え、嘘なの⁉」
「さあ?」
ふわりと前髪が舞い上がる。
赤らみた頬の彼女を目にして、僕は喫茶店に戻れなくなった。