第十話 『悪役』令嬢と『デーモンスレイヤー』
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深い深い水の中。
光の届かぬ胎内。
音さえ届かぬ闇。
獣が抱く絶望の中で、男は目覚めた。
理性を形どる男は、己よりも深く沈んでいく子供に話し掛けた。
(聞こえただろう、今の声が)
子供は沈んでいく。
目を塞ぎ、耳を閉ざして、丸まって。
男は繰り返す。
(聞こえただろう、今の声が)
「うるさい!」
子供は叫んだ。
外は自分を虐めるもので溢れている。
子供はもう疲れていた。
(何故諦める。力が在るはずだ)
「……誰かを助けた事なんてないよ」
子供は首を振る。
男は諦めなかった。
(少なくとも一人は助けている)
男は沢山の手に押さえつけられた。
理性など、所詮は感情に振り回されるもの。
子供が主となった内的世界では、無力に等しい。
(王の手によって死刑となる筈の、ペルティアを救ったのはお前だ)
「ふざけるな! 僕は表になんて出てない! 気狂いの理性がやったことだ!」
(理性だけで生きる者が何故無駄なことをする? 復讐を終えた者が何をすると言う? 俺を動かすのは何時であろうとお前だ)
子供は男の口を沢山の手で押さえつけた。
だが、その力は弱々しい。
(今なら間に合うぞ。お前が救った者を、今度こそ救うのだ。心よ、感情よ、真なる願いを取り戻せ)
「い、嫌だ……どうせ、どうせ一人なんだ……誰も僕を助けてくれない!」
(お前は渇望している。理解している。信じたいと願っている。隠そうとも分かるぞ。走り出すのがお前なら、手綱を取るのが俺だ)
子供は絶望の中でもがいた。
諦観に耳を閉ざし、憎悪に目を潰され、深い孤独に押し潰されてなお求めた。
救いを。
ただ一人の理解者を。
(ペルティアは手を差し伸べた。答えろ)
「あ、あぁ…………助けて……僕を助けて……まだ諦めたくない!」
男は力を取り戻す。
沢山の手を振り払って子供を抱き、水面へ上がっていく。
上昇するほどに男の中で力が漲り、子供は眠るように瞼を閉じた。
「己を誇れ、お前は今、絶望を踏破した」
*
『馬鹿な……!?
獣性が剥がれ落ちただと!?』
Nyarlathotepの化身は、残された上半身の顔を驚愕に歪めた。
『何故だ!?
完璧な儀式だった筈だ!?
自力で脱出するなど有り得ん!?』
獣の威容は崩れ始めた。
溶けるように彼を包む暗闇が落ちていく。
『どうやって名を剥がす!?
私の支配から逃れたと言うのか!?』
溶け落ちた暗闇の底には巨躯の者が一人立つ。
見るも悍ましいアーティファクトに身を包んだ者だ。
『何者に出来ると言うのだ!?
何者がしたと言うのだ!?
貴様は何故戻った!?
如何なる方法でさえも効く筈がない!?』
彼は黄金球と手斧を持ち、背中から暗黒の幽星体を生やしている。
『貴様は何で出来ている!?
我の操り人形を何処へやった!?
貴様は……貴様は誰だァァァァああああああ"あ"あ"あ"あ"あ"あ"あ"あ"ァァアアああああああ!?』
狂乱する化身――否、Nyarlathotepは最早動く力すら残していない。
全てが上手くいく筈だったから。
アズは空を越え、ペルティアに歩み寄る。
彼女は呆然としたが、涙を拭って砂を払う。
「……すまなかった」
「遅いのよ……でも、来てくれたのね」
「そうだ、お前と誓った。今度こそ、俺と共に生きてくれ、ペルティア」
「……ばかね、もう離さないわよ。アズ」
ペルティアは差し伸ばされた手を掴んで立ち上がった。
いつの間にか、東の空が白んでいた。
二人は微かな日の光に照らされ、お互いに見つめ合う。抱いた気持ちは同じだった。
『それは何だ!?
何の力も無い小娘が何故ここに居る!?
私の計画を破壊したのは誰だ!?
答えろ答えろ答えろぉぉぉぉぉおおおおおおおおおおおおプレイヤァァァァアアアアああああああああああああ!!』
Nyarlathotepの絶叫が響き渡る。
アズは幽星体の腕で遠くに落ちている化身の上半身をつまみ上げ、自分の目の前に叩き付けた。ついでに、南門周辺の魔物を魔法で一掃する。
上半身は指を鳴らして『思い出せ』とだけ言う。
「無駄だ。今の感情の封鎖にお前が介入する余地は無い」
「感情……?」
「後で話そう」
『糞袋がァ! 私のプレイヤーを下等生物の売女如きがァアアアアアアアアアアア!!』
「下等生物に負けた雑魚が吠えるな」
ペルティアが煽ると上半身は言葉を尽くして罵った。
「最早“視”るだけの道具だ。今のお前には何もできん」
『掃溜めの肉共めぇぇええええ…………呪ってやる』
化身は彼女を指差した。
「ッアズ!!」
「無駄な足掻きを!」
『お前は“悪”だ、世界が認める“悪”なる存在だ!!
孤独を味わえ、孤立しろ、逃れ得ぬ絶望に屈服しろ、貴様は未来永劫味方を得られぬ!』
アズが射線を遮りながら、黄金球で化身を肉塊に変える直前、動きを止めた。
「……そうか」
『あぁ……』
突如、二柱は何かを理解した。
「何……?」
「お前は……今呪われたのではない、既に過去を呪われていた」
『ハッははハハハッはハハハハハハッはヒィィ――ッヒヒッヒイヒヒはひはひふはへへへははへはははは!!
因果は逆転していた!!
なるほど!!
私が気付かないわけだ、ははははははははははははは!!』
「呪いって……」
「“悪”の定め、滅びの未来の確約。尤も、その策すら既に打ち破られていたようだ」
『破られた?
いいや、お前は“悪”だ!
刺客は既に放たれていた!!
逃れられるものかぁぁあぁあああぁぁぁ……必ず殺してやるぅぅぅ……
Nyarlathotepはまだ居るぞ、宇宙を越えて貴様らを滅ぼしに来るぞ!!』
「そうか」
アズは化身に幽星体の腕を突き入れる。魂の領域で化身の力を破壊し、本体と繋がっている“視”る力だけを残した。肉体は霧散して目玉が一つだけ残る。
「お前にはこの“苦悶の球”に入って貰おう。拷問など貴様には何処吹く風だろうが……」
彼は目玉をつまみ上げ、その向こう側のNyarlathotepに話す。
呪われた実感も何もないので、ペルティアはその様子を黙って見守った。言いたいことは山程あったが、それは別の機会に話すことにした。
「“視”ろ、お前には俺の憎悪など欠片もくれてやるものか。これは貴様が殺した人間達による復讐だ……死んでも後悔しろ」
目玉は悪魔の拷問道具“苦悶の球”に押し込められ、今もなお悶え苦しむ“支配”の悪魔共と永劫の責苦を受け続ける。
向こう側のNyarlathotepが罵詈雑言を喚き散らして辺りに八つ当たりするのを見て、アズは満足した。
ようやく、過去の忌々しい因縁に終止符が打たれた。
「終わった?」
「ああ、終わったよ……ペルティア」
どこか、今を見ていない彼の様子にペルティアは気付いた。
「可笑しいか?」
「全然、いいと思うわ」
沈んだ太陽が登る。
夜は去り、朝日が地上を照らす。
二人に付きまとった運命は姿を消した。
道はもう一つではない。
彼らが往く未来は、もう誰かが決めたものではないのだ。
「さ、帰りましょう! アズ!」
彼女は満面の笑みを浮かべ、仲間の元へ帰る。
西に伸びる影が一つ、カオスゲートへ……。




