第九話 本当の夜、孤独、名前を
“渦を呼ぶもの”は彼女たちの目の前で光の籠に吸い込まれていき、虫を潰すように殺された。あっという間の出来事だった。
「A、A、アルホツズトォーラ……」
我に返ったマリメラが喉を震わせて、恐る恐る異名を呼んだ。ペルティアは射殺さんばかりの気迫で彼女を睨み付ける。
「て、手遅れだ……もう呼べない、呼べない……もう」
「……」
「そんな……神よ! バーラフバよ!」
「何か、まだ出来ることがっ……!」
「ボクじゃあ……何も思いつかないヨ……」
世界は邪神の企みに追い風を吹かせた。
邪神Nyarlathotepが勝利してしまったこの世界の、誰一人であろうと彼の者の名を呼べない。
ペルティアは待つべきではなかった――だが、どのみち彼女が彼を呼び戻す事は出来ない。
(取り返しの、つかない…………)
彼女の嫌な予感は当たっていた。
喉が裏返る痛みにペルティアは首元を抑えた。グレートソードを手放し、石畳に手を付いてうずくまる。
あまりの衝撃に目は開いても光を捉えず、天地がひっくり返ったようにバランスが取れなくなる。
「あァッ、ぁ……っ、だ、め……!」
「大丈夫かペルティア!?」
喉を震わせる彼女にバルライカが駆け寄って、肩を貸して立ち上がらせる。
(前が見えない……! どこ、どこに居るの!? 彼の力が、感じ取れない……!)
あらゆる人類の神々の力が霧散していく。
ただ、ヒンメルのか細い祈りだけが、ペルティアの背に暖かな力を繋ぎ止める。
その内に光の籠は解けていき、景色が元に戻る。
六人の目の前には、先程までは街だった筈の――砂漠が広がり、【憎悪の太陽】が光を吸い取って暗黒に輝く。
地表は陰り、嵐の夜の海の如く暗闇を波打たせていた。
「け、剣を……!」
ペルティアは嗚咽ではなく言葉を漏らす。
意図を汲んだキットは、彼女の魔法のポーチから常用している短剣を取り出して握らせた。
ペルティアは決意している。
目の前が見えなくなる程辛い現実があっても、戦うだけだ。
例え、抗う術無き絶望が襲い来るとしても。
戦うしかない。
「戦え、戦うのよ……わたし……!」
確認するように繰り返し、自分を励ます。
此処で歩みを止めれば、今までの軌跡は何だったのか分からなくなる。己の存在証明のため、彼を取り戻すため、ペルティアは生まれ変わったのだ。
彼女は力が全く入らない手で、前が見えない目で、一歩進む事すら億劫な脚で前へ行こうとする。
例え誰もが名を呼べなくとも、*勝利*のために――彼を呼び戻すために往く。
ヴェローチェが《祝福》の魔法を掛けると、ペルティアの震えは収まり、まっすぐ短剣を掲げることが出来た。
「お願い……《勇気凛々》!」
祝福された『勇気凛々の』短剣《竜殺し》は青白く輝き、魔法はカオスゲート中に広がった。そして、彼女自身に並々ならぬ勇気を授けた。
無駄と戦う勇気、一歩を踏み出す勇気、取り返しがつかないとしても……諦めない勇気。
彼女が視界の暗闇を払うと、Arhotztohraが【憎悪の太陽】を呑み込む。
光は完全に消え失せ、何一つとして見通せない夜が訪れた。
本当の夜だ。
二度と開けない闇が降りてきた。
【あ"ぁぁァああ"ああぁあああ"あ"あ"あ"あ"あ"ァァァアアアア!!】
彼は暗闇の中で一人咆哮し、紅の星の眼を東に向けて歩み出した。
ペルティアはその姿に、迷子が泣き叫ぶような面影を重ねる。孤独な声だ。冷たい声だ。彼は誰かを探している。
彼女は目を見開き、真紅の瞳で彼の姿を追う。
「行くわ」答えも聞かず宣言した。
「待ちな……《影のゲート》」
マリメラが暗黒の魔法を唱えると、暗闇に溶け込んだ門が現れた。彼女に出来る限界まで遠く――Arhotztohraの近くまで繋がる門だ。
“愛の星”は道を示した。
ペルティアは重たいポーチを投げ捨てて、何も言わずに飛び込む。
力の限り駆けるのだ。
腕を振り、脚を回転させ、熱砂を蹴飛ばし走る。
彼の背中を――暗闇で微かに灯る青白い角灯を追い掛ける。
されど歩みは大きく、東へ、東へ、東へ、彼はペルティアを突き放して歩く。
「A、A、ぁ…………あ――」
ペルティアは彼の名前を呼ぼうとした。
だが呼べない。
名前が出てこない。
しかし、頭の中で何かが弾けた。
ペルティアは喉の奥に絡まる鎖を打ち砕き、あらん限りの力で叫んだ。
「アズぅぅううううーーーーッ!」
少女は世界が掛けた呪いを振り切って走る。
「アズっ、アズ! 待って、待ってよ!」
願おうとも彼は待たない。
目の端には涙が浮かび、ペルティアはさらに名前を呼んだ。
「私をっ、忘れたの!? アズ! 戻ってきて! アズッ!」
砂の山を駆け上がりながらペルティアは走る。
だが、どれだけ腕を振ろうとも角灯の光は遠ざかり、見上げていた筈の顔が徐々に下がっていく。
青白い星が滲む。
「アズが居なきゃ、生きていけないの! 何で置いていくの、アズっ! 待って、待って……!」
涙を拭うことすら惜しんで砂の山を駆け下りたペルティアは、勢い余って転倒する。
鉄臭い砂に塗れて髪が汚れ、肌が焼けても、彼女は這いながら立ち上がって疾走する。
脚が千切れ肺が潰れようとも、止まるつもりなど無い。
文字通り死ぬまで。
「アズ! アズ! 待ってよ……待ちなさいよ……! 私が、これだけ言ってるのにっ、アズッ! いや、いやよ、アズ……!」
存在を乗せた渾身の叫びは届かない。
ペルティアはいつの間にか、過去の事ばかりを思い出していた。
一晩中手を握ってくれた彼を、呼べば必ず答えた彼を、悲しみを垣間見せた彼を、決して諦めていなかった彼を。
こうして叫べば、いつものように名前を呼んでくれる気さえした。
当たり前に側に居る人が居ない、それだけで彼女の心は千々に乱れていく。
「もう失いたくない! アズ! あなたを……っ!」
ろくに言葉も交わせないまま、一方的な決別を味わう。
そんな絶望から逃げるように彼を追い掛ける。
記憶の中の彼に手を伸ばす度、胸が痛み息苦しくなる。
彼の――かつてない程の悲しみの叫びがペルティアの耳から離れない。
例え獣の如き体に成り果てようとも、引き裂かれた彼の心の叫びを忘れたりはしない。
だからペルティアは走る。
走る。
走る。
走る。
そんな、無駄な行為を続けてしまう。
どれほど彼が遠いのか――今はもう東の壁を越え、万を越す山脈を跨いだところだ。
声が届くはずもない。
脚が追い付くはずもない。
砂漠すら越えられぬ緩慢さで、星に手が届くはずがない。
ペルティアはひたすらに叫ぶ。
存在を乗せて、喉が千切れる程に咆哮する。
脚はもうクタクタだ。
疲労で姿勢が崩れていく。
無駄な行為だ。
走って叫んで苦しんで、彼女の心は砕けていく。
「こんなにも苦しいのに、あなたはっ! 私の気も知らないで……!」
だから、ペルティアは絶望した。
「ねぇ、助けて、アズ……私を助けて……助けなさいよっ、ばかっ! 私を、助けなさいよぉぉおおおおッ! アズぅぅうううう!!」
泣き叫び、崩れ落ちる。
もう走れない。
一人では、立ち続けられない。




