表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
クソゲーの『悪役』令嬢と『デーモンスレイヤー』  作者: 傘花
第四章 宇宙を飲み込む嵐の中で
35/41

第五話 その心、手折られて、いま


 彼の手足は痺れて痙攣し、攻撃はまともな威力にならない。


 どれほど己を奮い立たせても、過去が追い縋ってしがみつき、引きずり下ろして滅多打ちにしてくる。


 “針鼠の肉屋”はもう限界だった。


『無様ですねぇ。ほら、二十分足らずで力尽きるほどの覚悟なんですかぁ~~?』

「……っ、止まるな、止まるなっ、止まるなァぁあああああああああッ!」

『無駄と分かって足掻け、無為と知って嘆くがいい。未来は無限に続かぬと思い知れ!』


 それから五分と経たず、彼は止まった。


 大魔法の雨霰は止み、光の弱まった【憎悪の太陽】だけが砂漠の空に残される。


 得物は彼の手から抜け落ち、身体が徐々に傾いて、真っ黒な幽星(アストラル)体ごと砂の上に倒れ伏した。


 幽星(アストラル)体から漏れ出た血液が真っ白な砂漠を錆色に染め上げる。その勢いは凄まじく、血は滝のように降り注いでいた。


 日差しが弱まり、渦巻く血雲からポツポツと小雨が降り始め、水面に波紋が起こる。


 己の血の中に顔を浸けて、彼は湿った砂を握りしめた。


「何故こんなことで、何故こんなことで立ち上がれない……!」


 微睡みから完全に覚めた彼の幼き日の心と感情は、全ての記憶の全ての痛みに悶え苦しみ絶叫している。


 憎悪と理性に支配された“針鼠の肉屋”にとって、それは胸の奥で他人が暴れまわっているような痛みだった。だが、今はもう自分のもののように耐え難い。


 魔法では決して癒やすことのできない、彼の行動を遮る忌々しいものだ。


{“こんなこと”とは心外だな。君が切り捨て、望み、今も縋ろうとしている“感情”ではないか}

「黙れッ……!」


『憎悪、悲哀、憤怒、後悔、不満、罪悪感、殺意、怨恨嫌悪に孤独落胆執念……どれも私達のだ~いすきな♡感情ですよ!

 そしてあなたが持つ“全て”です、あなたは何一つとして得られない!』

「黙れぇぇええええええ!!」


 身体を僅かに起こして“針鼠の肉屋”は憤怒の叫びを上げた。


 “針鼠の肉屋(自分)”ではない子供(自分)を、彼は否定しなければならなかった。


 認めれば取り戻してしまう――成長することなく痛みに晒された心と、マイナスだけに振り切れた感情を。


「邪魔をするなッ! 俺の内で叫ぶなぁああああああ!」


 血の湖に顔を半分浸けたまま右手を伸ばす。


 血が肺に流れ込もうと、黄金球へ――祝福された『次元の』究極の黄金球エターナルナイトへ手を伸ばす。


「戦えッ、戦え――全てを失う前に!」


 ――柄に、手が届いた。


 万力の如く握り締め、緩慢な動きで手繰り寄せ、立ち上がろうと全身に力を込めるが……。


 肉体を動かす経路が子供(自分)に遮断されて動かない。


 幼い精神が、延々と続く戦いに虚しさを感じている。終わってしまえばもう楽だと諦めている。いっそ全てを投げ出してしまえと。


 だが、“針鼠の肉屋”は断固として拒否した。


「お前も俺なら分からないのか……!

 今度こそ、今度こそ次は無いんだぞッ!

 今っ、戦わなければァッ!

 死体の山を振り返れ屍の頂を見ろ!

 踏破しなければ明日は来ないッ!

 何故それが分からない!?」


 徒労の重力が彼に酷くのしかかり、低きへ流れる水の如く感情が大地へ吸い寄せられる。


「手放すなッ!

 戦え!

 心がどうした感情が何だッ!?

 お前など、存在しなければ――」


 立ち上がれない。


 Nyarlathotepはちっぽけな雑音をあざ笑い、()の耳元で囁いた。


『あなたには僅かな喜びもない』

{母なる者に抱かれる安心もない}


 彼は常に孤独であった。


『未来に寄せる期待もなければ』

{今日押し寄せる興奮もない}


 彼は失意の底に居続けた。


『己の行いには決して満足せず』

{満たされる欲望も存在せず}


 彼は殺戮だけで満たされた。


『心奪われて感動することもなく』

{侮辱されて恥じることもなく}


 彼は負の感情だけで形成された。


『信念を貫く勇気もなければ』

{失うことへの恐怖もない}


 彼の心はいま手折られて。


『だから、あなたに新しい感情をあげます……』

{甘美であり、讃美であり、喜悦であり、好意であり、音楽であり、人間である。我らが求めて止まないものだ}


 “針鼠の肉屋”はついに恐怖した。


 己の中で荒れ狂うどうしようもない激情に恐怖した。


 感じたことの無い何かの芽生えに恐怖した。


 内から湧いて出た恐ろしさで身体が震えた。


 その紛れもない己の心に、彼は憎悪した。


 しかし全身が凍ったように冷たく縮こまり、声が思うように出せなかった。


 遥か彼方を見上げるように、彼にはNyarlathotepが大きく見えて――敵わないと思ってしまった。


 彼我の間にはあまりにも絶対的な力の差があるというのに、“針鼠の肉屋”の方が圧倒的な強者だというのに。


 彼はその瞬間敗北した。


 人生唯一の一択である“殺”を封じられ、“針鼠の肉屋”は元の自分に戻ろうとしている。


 感情が肉体を支配し、心が精神を蝕む。


 もう彼は、自分の未来へ進めない――。


『思い出させてあげます。感情の鍵を仕込んだ胎児の時の出来事を♡』


 彼を更なる闇へと引き摺り込む言葉。


「なに、を……なにを……」

『覚えていません? 私が胎の中で語ったじゃありませんか』

「ぁ……」


 ――それから先を聞いてはいけない。


 彼はなんとか耳を自壊させ聴覚機能を切り捨てた。


 黙らせるために魔法を放とうとするが、四ツ頭が動くことはない。


 幽星(アストラル)体は苦しみに悶えて震え、跳ね、うねり、血を流していた。


 それは無駄な足掻きだ。


 産まれた時から突き付けていたチェックメイトを化身が(さら)け出し、駄目押しの一手に移る。


『さぁ、母の温もりを思い出して下さい』


 化身は一転して穏やかな声で促した。


 子守唄を謡う母のように、彼が求めていた慈しみと愛しさと優しさを込めて。


『委ねて下さい。もう、楽になっていいんですよ……』


 化身がパチンと指を鳴らすと、彼の脳裏に“思い出”が蘇る。






 いつの間にか、Nyarlathotepと彼は演劇を見るように席について、映し出された記憶を見ていた。


 見たくもない悪夢のような光景がこれから彼の脳内で上映される。


 ――暗く温かく、液体に満たされた場所であった。


 記憶の中の“針鼠の肉屋”は胎児だった。


 背中を丸める彼の腹からは白いへその緒が伸びており、胎盤に繋がっていた。


 その胎盤は泡立って細胞分裂を開始し、あの銀髪褐色の化身の顔を形成した。


『《成長せよ》』


 その化身は記憶を見つめる“針鼠の肉屋”へウインクをしてから魔法を唱える。


 すると、胎児の頭はどんどんと大きく“成長”して立派な大人の頭になった。


『サァ、あなたが送る人生を見せてあげます』


 胎児は限界まで目を見開く。


*


 ――母の命日が彼の誕生日だった。


 産まれたのは、頭だけが大人になった不気味な子供。


 母親は産まれた彼を見て絶句したまま死んだ。


 トロールの血を半分だけ引く父親は、痩せ細った顔を憤怒に歪めた。


 彼を取り上げた翌日、父親は産まれたばかりの彼を床に叩きつけ、体重をかけて踏みつけた。


『お前など産まれなければ良かった!! 呪われた子め、死んでしまえ!』


 酷い暴力に(さら)されても、彼は死ななかった。Nyarlathotepが守護したのだ。


 その次の日、父親は首を吊らされて死んだ。


「ほら、あなたは誰にも望まれなかったんですよ」

「やめてくれ……」


 唯一残されたのは彼の兄だけだ。


 痩せこけた兄は奴隷のように甲斐甲斐しく彼の世話をした。


 しかし、兄の言葉だけは一語たりとも再生されない。


「あなたは世話になった人の言葉も思い出せない冷血なんですねぇ!」

「ちがう、わすれたくなかった……わすれては、いけなかったのに」


 ――盗賊が彼の居た村にやってきた。


 不用意に外へ出た彼を庇うため、兄が覆いかぶさる。


 その直後、兄は長剣に貫かれて死んだ。


 村は焼き払われて、彼は冷たくなる死体の下で憎悪を滾らせた。


「キャラメイク完了ですよ!

 初期フィートは憎悪、職業はデーモンスレイヤー!

 さぁ、序盤の“見所”のシーンですよ!」


 朝日が登ると、彼は焼き払われた村中を巡って物資を集めた。


 唯一無かったのは食糧だ。


「やめろ、やめろっ、そんなことをするくらいなら死んでしまえ、死んでしまえぇぇええええッ!」


“針鼠の肉屋”は叫ぶが、これは記憶だ。


 己の罪から目を逸らせるはずがない。


 彼は無表情のまま(あばら)骨の浮き出た兄を解体し、乾燥させ保存食として持ち運んだ。


「人でなしだなぁ……次は何を食うつもりだったかな?」


 彼は“復讐”に衝き動かされた。


 彼は小さな都市のスラムで小銭を稼ぎながら、大きな埃、ゴミ、排泄物、石ころ、ゴキブリ、ドブネズミ、死んだ乞食、死にかけの娼婦を食べて生き長らえた。


 その間も抜け穴を通って街の外に出て、孤立した弱い魔物を見つけて殺す。


 控えめに表現しても、それは人の皮を被った化け物であった。


「薄汚い卑しい餓鬼ですね。どれだけ取り繕おうともあなたの中身は化物なんですよ」

「いわないでくれ……もう、ききたくないぃ……」


 一年後に場面が飛ぶ。


 彼は小綺麗な格好をして、冒険者になっていた。


 やることは変わらない。迷宮に潜って力を付ける。


 誰かの誘いは殆ど無視し、ひたすら一人で戦い続ける。休みはなく、眠りはなく、食事は最低限。


「人は繋がりを持って生きているんです。あなたはどうでしたか?」


 ――“アッテムトの虐殺”。


 14779人もの人間が、一人残らず彼に殺された。


 顔見知りでさえ躊躇なく殺し、命乞いに耳を傾けず殺す。


 上級悪魔が引き金を引いたとはいえ、常軌を逸した行いだ。


「もう戻れなくなりましたねぇ。でも、私はあなたを愛してあげます……あなたを理解してあげます、あなたの欲しい物を何でも与えてあげますよ……」

「ああ、ああ、ああぁぁ……」


 “針鼠の肉屋”は頭を抱えて呻く。


 己の罪を突き付けられて目を逸らさずにいられるほど、彼の心はもう強くない。


 だが、目を逸らしても見えなくなるわけではない。(まぶた)を覆い隠そうとも、記憶は魂で上映されているのだ。


 また場面が飛ぶ。


 今度はカオスゲートだ。


 “厳冬期”の直前に食料庫が焼かれ、配給されるはずの物資もほぼゼロになった。


 人々は怒号を飛ばし合って狼狽える。蓄えのある者は生き残れるが、そうでない者が大多数になってしまった。


 そんな中、彼は近隣の三都市が上級悪魔に《支配》されたという報を受け取り、発った。


 三度虐殺。


 三つの都市を滅ぼした時には“厳冬期”が訪れていた。


 彼は食糧を――兄を解体した時と同じ様に集めた。


 五万五千体分の人肉を持って、彼は雪を踏みしめてカオスゲートに帰還した。


 彼は嫌悪と憎悪と殺意で迎えられた。


「ほら、誰があなたを必要としたんですか?

 飢えて死ぬほうがマシだと皆心の中で言っていますよ?」

「おれじゃない、これ、これはおれじゃない……おれじゃない……」


「ま、いわゆる平行世界ですよ。確かにそうですね。

ですが、あなたも、やったでしょう?」

「あ、ああっ、う、ああ、あ"あ"あ"あ"!!

 ちが、ちがう、やりなくなかった!」


 “厳冬期”の間中、彼はダンジョンに潜っては食糧を集めて届けた。


 だからこそ余計に恨まれた。それができるなら何故もっと早くと――。


「あなたは余計な事しかできないんですよ。人を食った最下層の人間も大半は死にました」

「おれは、おれは」

「何がしたかったんですか? 

人も救えず自己満足で人肉を食わせて、一体何がしたかったんですか?」

「ああaあ、お、れ、おれが、わるkaった……」


 記憶が飛ぶ。


 そこは何も無い。


 無だ。


 暗黒も光も、上下も色も無い。


 永遠の孤独。


 そこでずっと一人。


*


「あなたは復讐を遂げられず宇宙でただ一人生き残った。“混沌”が目覚め「無」となった宇宙で一人、そして「あなた」は「宇宙」そのものになった」


 Nyarlathotepが顛末を語る。


 記憶の中の化身も言った。


『これで終わり。これがあなたの人生の予知です。孤独があなたの友人ですよ』


 胎内で彼は叫んだ。


『産まれたくない、こんな人生なら産まれたくなどないっ!!

 殺してくれ、殺してくれ殺してくれ殺してくれぇ!』

『あなたは産まれます。生きます』


『なら、せめて……記憶を、消してくれ……こんなに辛い思いをするなら、これほど苦しむ生ならば――』

「やめろッ! おまえが消さなければ、消しさえしなければァ!!」


 “針鼠の肉屋”が絶叫した。


 最も“他者の救い”に近い記憶を捨てるなど有り得ない行為だ。


 その予知さえあれば、知識さえあれば、“針鼠の肉屋”は今度こそ誰かを救えた。


 だが、見ているのは彼自身の記憶だ。その選択は止めようがない。


 彼は許し難い罪を突き付けられた。


『――こんな記憶があるならっ、もう生きていたくなどない!!』

「やめろぉぉぉおおおぉぉおぉおおおおおッ!!」


 記憶の中の化身が張り裂けそうな笑みを浮かべる。


『あなたは一番の望みを切り捨てた。おめでとうございます、この世で最も罪深い生誕ですよ』

「産まれたことが罪です。

死ぬことも罪です。

生き続けることもまた罪です。

自殺すれば良かったんじゃないですか?」

「…………おれは、おれは……うまれてはいけなかったのか……?」


 彼の目から涙が溢れ出す。誰からも気にされなかったその素顔から、産まれたことすら望まれなかった悲しみが氾濫した。


 這い寄る罪が内から身体を食い破り、耐え難い重荷となった。


その潰れてしまいそうな自責の念から逃れてしまいたいと願い、彼は頭を垂れた。


「ぁ、あ…………ゆ、ゆるし……ゆるして……」

「請い願うならば、生き残る罰を以って贖うがいい。永遠に苦しめてあげますよ、私ならね」


 記憶の再生が続きから始まる。


『もう、泣いたらダメですよ♡ 今のは私が見せた予知の中で見た予知なんですから♡』


 また、未来の中で彼は産まれる。


 “針鼠の肉屋”は絶望した。


 生誕を呪われる。


 “針鼠の肉屋”は絶望した。


 慕っていた兄を食う。


 “針鼠の肉屋”は絶望した。


 化物同然の生活をする。


 “針鼠の肉屋”は絶望した。


 知人も何もかもを虐殺する。


 “針鼠の肉屋”は絶望した。


 虐殺し、人道に反する無駄を行う。


 “針鼠の肉屋”は絶望した。


 復讐を成し遂げられない。


 “針鼠の肉屋”は絶望した。


 宇宙が滅びてただ一人生き残る。


 “針鼠の肉屋”は絶望した。


 そしてまた胎内に戻る。


 “針鼠の肉屋”は絶望した。


「あなたは何回だって同じことを繰り返すんです。

何度だって繰り返す……無駄なんですよ、お前の生そのものが無駄な足掻きでしかない」


 “針鼠の肉屋”は視神経で目玉を押し出して兜の外へ排出した。


 そんなことで記憶から目を離せはしない、彼はもう一度記憶の消去を懇願する己を見てしまう。


 そして本当の過去の自分の記憶が消され、今の“針鼠の肉屋”が産まれた。


「みたくないみたくないみたくないみたくないみたくないぃぃぃいいいぃぃぃぃぃ……」

「だめですよぉ……あなたは何度だって絶望の前で折り返すんです。

どれほど強大な力を身に着けたって、愚かな選択で全てを失う」

「いやだ、いやだいやだいやだいやだいやだぁぁああああああああぁぁあぁああぁああああああああ!!」


 彼は子供のように頭を振って駄々をこねた。


 そんな事をして止めるNyarlathotepではない。


 彼の拒絶は邪神の嗜虐心を煽り、人生の復習は嬉々として始められた。


「さぁ、まだありますよ、本当のあなたの人生を振り返りましょうか」

「あ…………あ”ー、あ”ーー、あ”あ”あ”あ”あ”あ”ーーーー!」


 言葉を失い、慟哭する。


 *“針鼠の肉屋”は 絶望した*






 人は容易く挫けない。


 例え、人肉を食べさせてしまっても、数百人を虐殺しようとも、悪辣なる者に嵌められたとしても。


 諦める前に立ち直る事ができる。


 だが、あまりにも辛い出来事が、踏ん張れる限界寸前で波のように寄せては返す。


 諦観は繰り返され、諦めは繰り返され、無力は繰り返され、絶望で彼の心は完全に砕け散った。


 脳を収縮して鼠のそれよりも小さく。認知症を始めとする多数の身体・精神障害が併発。


 人間ならマトモに身体を維持できない。そうして死に近づくことで、彼は自分を守ろうとした。


 さりとて既に、“針鼠の肉屋”の人間としての要素は踏み(にじ)られたのだ。


『その程度で死ぬくらいなら、始祖に連なる神を殺せはしませんよねぇ! 肉体如きが死を(もたら)せるものか』


 血の湖の中心で胎児のように(うずくま)る“針鼠の肉屋”に、Nyarlathotepの化身は囁いた。


 例え首をもがれようと、四肢を千切ってバラバラに封印されようと、太陽に生身で飛び込んだとしても、“針鼠の肉屋”がその程度で死ぬ訳がないのだ。髪の毛が少し切れてしまうのと同じで、なんら痛痒(つうよう)すら与えられない。


 生物としての存在の格は上から数えたほうが早いくらいだが、精神は10歳の子供と同じだ。


『チュートリアルは終わりですよ。あなたの本当の生はここから始まるんです……さぁ思い出して下さい。本当に憎いのは、()ですか?』


 彼の身体がピクリと反応する。


 それから芋虫のように身体を痙攣させて、話の続きをねだる。


 さながら母親に寝物語を求めて甘える子供であったが、ここで彼が望むものを与えられるのは――Nyarlathotepしかいない。


 罪を雪ぐ甘美な絶望が包み込む。


『答えは“針鼠の肉屋”その人です。あなたはあなたが憎くて憎くてたまらない……そうでしょう?』


 壊れた心に憎悪が芽生える。


 彼にはいつだって自覚できはしなかった。不甲斐なさと無力さと自己嫌悪と殺意と恨みと憤怒を憎悪に昇華して、一体誰に押し付けるつもりだったのか?


 家族を殺した仇でもなければ、都市を滅ぼした悪魔でもなく、邪神Nyarlathotepでなければ。


 残るは“針鼠の肉屋”ただ一人。


 彼は――世界で誰よりも、自分の事が大嫌い。


『殺したくて苦しめたくて傷つけたくて狂おしく戒めを求めて、許しではなく罰を乞い願っている。

あなたは強くなり過ぎたが故に誰にも傷つけられない、あなた自身でさえ!

 だから、誰かに裁いてほしかったんですね』


 Nyarlathotepの化身は彼の身体を優しく抱きしめた。


 母のように慈愛を込めて。


 悪意をたっぷりと詰め込んだ言葉で憎悪を育てる。


 それに応えるように幽星(アストラル)体の出血が止まると、彼は暗黒を丸めて繭を形成し始めた。


『罰のために生き残りましょう。

守るために滅ぼしましょう。

“世界の穴”の私の本体を、東の果ての異種族を、星を巡って殺して周り、人と人類を守りましょう』


 意志を持った泥の如き幽星体が彼の肉体を呑み込んでいく。


『あなたに……癒えぬ傷を与える者が……どこかにいますよ……』


 化身達はうっとりとした眼差しで見送り、卵を孵す親鳥のように寄り添った。


 あらん限りの罵倒(しゅくふく)を。


 望まれぬ生誕に嘲弄(あいじょう)を。


 呪われた運命に(さいわ)いあれ。


『殺したくないけど死にたいなんて贅沢ですよ。

飽きるほど殺せば何も感じなくなります。

そして、いずれ誰かがあなたに罰を与える』

{始祖に連なる悪魔を殺したように、お前もまた憎悪に沈み苦痛の中で死ぬのだ}


 化身は繭に言葉を投げ掛ける。


 それは呪縛。


それは定義。


それは結末。


それは簒奪(さんだつ)


 かくあれかしと望みを吹き込み、最適な操り人形(プレイヤー)に仕立て上げるための儀式。


『“死に至る螺旋”が誰に打倒できるものか!

 しかし彼は、無限の一の砂を掻き分け掴み取った!』


{我らが望み、我らが創り、我らが歪めた主人公(プレイヤー)

 お前ならば宇宙とてただの燃料に過ぎない!}


『全てに滅びを!

 等しく絶望を!

 命ある限りの際限なき協奏曲を!

 宇宙を滅ぼす旅へあなたは飛翔する!』


 繭に亀裂が入る。


 【憎悪の太陽】は輝きを増し、煌き、燐き、綺羅星の如く――地上を焼き払う。


 カオスゲートは半焼、砂漠は拡大し、草原は火の海に変わる。


 血は蒸発して砂にこびりつき、錆色に染め上げて大地と成る。


{其の名はArhotztohra!}

『得るもの無き円環の復讐神の名を授ける!』


{再誕せよArhotztohra!}

『其は起源から終焉へ、新たな宇宙へ跳躍し、混沌を撒き散らす絶望の螺旋なり!』


{憎悪せよArhotztohra!}

『行けど戻れど一切を喪失せよ! お前には無限の生こそが相応しき罰だ!』


{目覚め給え! 完全を得られぬ者よ!}


 Nyarlathotepが奏上し、『名』が与えられた。


 人では呼び得ぬ彼の名は――Arhotztohra。


 悪意を以って名付けられ、彼は『名』に当て嵌められた。


 まず暗黒の殻を打ち破ったのは、弧を描いて伸びた無数の沸騰する牙である。


 次に現れたのは五の頭。貌の無いのっぺりとした四つの従頭に、獣の如き顎門(あぎと)を逆さの階段状に重ねて生やした異形の頭が一つ。


 そこには四つの瞼に閉じられた九の眼が星の如く爛々(らんらん)と紅に輝き、腐敗の吐息が口端から漏れ出して空気を汚染していく。


 繭は牙に突き破られたまま真っ二つに裂け、人型の体躯を包む外套になった。


 獣の肉体に三つの関節を持つ手足がそれぞれ十本ずつあり、分厚い鉤爪が滴るほどの闘気を纏って伸びていた。されどその手は天を衝く程に巨大化したアーティファクトを握りしめ、それは人の形を真似ていた。


 そして、背から毛のように生えた牙は、円を描いて腹から全身を貫いている。


 揺れ動く度に穿たれた幽星(アストラル)体から血が吹き出し、万能の酸となって地に降り注ぐ。


 自縛し殺意を滾らせるArhotztohra。形を得た憎悪は宇宙を滅ぼすまで止まらない。


 彼は――人の形を喪った。


『あぁ……なんて素敵な瞬間なんでしょうか……神が! 神が、祈りを持たぬ神が単独で顕現するなんて……』

{純粋な力のみで、信仰無く現世に顕現した神だ! 讃えよ! 我等の新しき下僕(プレイヤー)だ!}

『私の愛は伝わって、帰ってきた……どうしようもなく通じ会えたんですよ! なんて幸せなことなんでしょうか!!』


 恍惚とし感極まった化身達は肉体の一部を楽器へと変じて、フルートと太鼓をかき鳴らす。


 何よりもまず祝福の音を響かせよ。


 今ここに、憎悪と復讐の神Arhotztohraは降臨した。


「A……A……Ah……」

『さぁArhotztohra! あなたの産みの親は私ですよ、私達ですよ!』


 悶える化身の柱へ、Arhotztohraは鋭利な爪で指差した。


 純粋な殺意と純白の憎悪で形成された存在(・・)が広がり、空間が歪曲する。


 可聴域を越えた断裂音が空気を震わせていく中、Arhotztohraは宣告した。


Y’bhnemerk(血を流せ)


 アーティファクトが青く輝き《真なる加速》が発動する。


 瞬間、彼らの見る世界から大地が消え果て、広大な宇宙が現れた。


 暗黒の中で無限に輝く星の光が降り注ぎ、神々を取り囲んで点となり、宙に留まる。


 星々の輝きは彼らの周囲で円を描く軌跡を残して動き始め、輝く籠となって二柱を閉じ込めた。


 Arhotztohraは光すら振り払う速さで――時間の法則を逸脱する速度で動き出した。


 Nyarlathotepですら感知できない、凄まじい暴力の嵐が吹き荒れる。


『h――――――――』


 凄まじい衝撃と共に音もなく化身の柱が粉微塵に。


 新たな肉体が虚空から這い出てくるが、現れた瞬間Arhotztohraに消滅させられてしまう。再生してどうにか持ちこたえられる次元の攻撃ではない。化身の、化身全ての魂が今砕かれんとしているのだ。


 宇宙を揺るがす暴力が吹き荒れる。


{何故止まらぬ!? 制御はどうした!}

「AAAAAAAAAHHHHHHHHHHH!!」


 獣の雄叫びと共に黄金球が輝いて《次元破断撃》が炸裂、虚空を薙いで空を割ると、彼は裂け目に鉤爪を挿し込んで強引にこじ開けた。


 有り得ざるその空間には、Nyarlathotepが司る全ての化身が蠢いていた。


{馬鹿な、六次元潜航だ――}

「|Mmeenhere’t《月への跳躍》」


 口だけを捩じ込んだArhotztohraが魔法を唱えると、そこにある肉体が無理やり()へ引きずり出されていく。


 彼は素早く()で待ち構えると、飛び出した肉体の一片一片を丁寧に砕いて削り、いたぶる。


 化身の身体は瞬時に塵となり、裁断機に突っ込まれたように次々と分解され、永遠に元に戻らない。


 階段状に裂けた幾つもの口腔から涎が撒き散らされ、快楽に浸り狂った笑い声と憎悪のままに喚き散らされる咆哮が無数に奏でられ、すすり泣く声が掻き消される。


 一切抵抗できず無力に成り下がった化身達は憎悪のままに嬲り殺され、獣性のままに暴れ狂うArhotztohraに次々と魂を破砕された。


{何故制御できない、何故思い通りに動かぬのだ!}

『いやーん怒っちゃやーよ♡ ま、音楽性の違いってやつですかね』

{貴様本体の端末(メッセンジャー)か!}

『数だけは多いし反抗されるのもムカつくので死んでもらいます♡ 楽しい玩具は独り占めするに限りますよ』

{ありえん、ありえん……私が出し抜かれるなどぉおおおおおおおおおお――}


 化身共が一致団結していたのは戦いが起こる前の話だ。


 協力する意味は無くなり、各々が欲望に従って争い始め――る暇もなく消滅していく。


『ハハハハハハッハハハッハッハハハハハハ!!

 所詮は化身風情、万年先も見えぬ盲目の白痴共にこの“這い寄る混沌”を欺けるものか!』


 “混沌”でさえ慰撫し眠りをあやす本体――“世界の穴”に座するNyarlathotepの元へたどり着けば、Arhotztohraは正真正銘本物の操り人形(プレイヤー)と化す。


 この世の魂を薪の如く炉に焚べ、星を砕き神々を地に這わせ、Nyarlathotepの無聊(ぶりょう)を永遠に慰める玩具と成り果てるのだ。


 星から星へ、宇宙から宇宙へ、滅ぼし滅ぼしなお滅ぼして渡り無限に命を貪る意志無き神として、ArhotztohraはNyarlathotepに仕えるのだ。


 《真なる加速》の効果が途切れ、唯一残された銀髪褐色の化身は上半身だけを地面に横たえた。


 最後の化身は砂上からArhotztohraを見上げ、【憎悪の太陽】が呑み込まれて嚥下(えんげ)されていくのを見送る。


 光が消え、本当の夜が訪れた。


 暗闇の中でArhotztohraは甲高い遠吠えをあげ、九つの目を紅く爛々と輝かせて歩む。


 この先、決して明けない夜の到来を告げる、冷たい声。


 音は冬を告げる風に乗ってカオスゲートの跡地を吹き渡り、今も魔物によって荒らされている街に響き渡る。


『密かに感情を乱し、判断を違わせ、選んだ運命は決して変えられない。

お前が狂い憎悪に溺れるように、世界の破滅は覆らないのだ!

 そして私は選ぼう、Arhotztohraがあれば“混沌”とて殺せる宇宙すら掌握できる!

 地球世界のNyarlathotepに好き勝手などさせぬわ!

 ハ――――ッハッハッハッハッハハハハハ!』


 東へ、東へ、東へ。ひたすら東へArhotztohraは歩き始めた。


 朝日が登らぬ内に“世界の穴”へ到達する速度で。


『絶望しろ、私の下へ来い、愛を与えよう……絶滅に至る激しい愛を!

 飽きるまでお前で遊んでやるぞ、尽きない宇宙を巡り巡り巡って滅ぼし狂い、時間でさえも忘れる常闇を……

私と共に旅しようじゃないか』


 甘い囁きは無限の闇に消える。


 絶望の影は深く、深く、人々の頭上を覆っていった。




***


「お前がッ!」


 《テレポート・アウェイ》で強引に引き離されたペルティアは、人気のない路地で行く先のない言葉を叫んだ。


 彼女が今の事態を把握するのには少々の時間を要した。


「ここは……?」



評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ