第一話 絶対に婚約破棄なんてされ……
王都の中心部、貴族街と呼ばれる一角に、ディセンブルグ侯爵家の所有する屋敷が在った。
ディセンブルグ侯爵家は広大な自治領を治め、領地に見合った武力を持ち、辺境伯のような役割を持つのに加え、宮廷でも顔が利くという珍しい貴族だ。
王の政にも口を挟める権威を持ち、貴族の中の貴族と謳われている。
学園に通う娘のために屋敷一つを改築する財力もある。目に痛いくらいの真っ赤な外観はどうやら流行りものらしく、尖塔の立ち並ぶ伝統的な煉瓦街の中でもひときわ目立つ建物だった。
ディセンブルグ侯爵家の長女に、手紙が一通届いた。
どこの誰だが知れない者の手紙で、本来なら届く前に弾かれてしまうような身分の者から送られてきた。
だというのに届いたとはどういうわけか。
それは脅迫状のように、彼女の天蓋付きベッドの横に貼り付けてあったのだ。
『ペイルティシア・マルトイ・ディセンブルグ侯爵令嬢へ
陽が二回昇った日の夜、学園主催の立食会にて、あなたを誘拐します
冒険者“針鼠の肉屋”より』
ペイルティシアは鼻で笑うと、もう一度、内容を読み上げて紙をグシャグシャに丸めた。
「私を馬鹿にしているのかしら。不愉快ね。手紙の作法がなっていないわ」
大騒ぎしたペイルティシアに呼び付けられた老齢の執事が動揺した。
なんてこった、これは予告状だ!
なんとも回りくどい方法を使うもので、執事は色々な考えを巡らせてから“針鼠の肉屋”という差出人に気付いた。
「お嬢様、明後日の立食会は欠席に――」
「まぁまぁまぁ、冒険者如きに逃げ出せと? 我が家の格が地の底まで落ちるわ」
「……では、護衛を増やし、会場に潜らせます」
「お父様と親しくしている方々にはバレないようになさい。我が家の顔に泥を塗らないことね」
老執事が去った後、ペイルティシアは訝しんだ。
冒険者“針鼠の肉屋”の思惑が分からない。
冒険者――戦う力だけはある下民だったが、反感を買う程露骨な真似はしていなかった筈、と法律を振り返り、やっと思い出した。
“針鼠の肉屋”。
ディセンブルグ家の領内で名を挙げた冒険者である。
彼はディセンブルグ領に現れた紫白級――上から二番目――の冒険者である。
吟遊詩人がよく詠う“針鼠の肉屋”の逸話にこんなものがある。
ゴブリンやコボルトなどの妖魔が四〇〇〇体、八〇〇体のオーガやオークがそれをまとめ、二〇〇体の下級悪魔が更にオーガ達を率いて、上級悪魔を将として都市に押し寄せた。
五〇〇〇の軍勢を率いる上級悪魔は、陰惨な策略を得意とする悪の下僕だ。
しかし、勇者が現れ一騎当千の活躍をし、これらを滅した……と。
五〇〇〇体の魔物が平野で群れているだけならば簡単に事が解決するが、上級悪魔が率いるとなれば話は変わる。
戦略に長けた上級悪魔を野放しにすれば都市が二つ三つ簡単に灰になるだろう。そうして都市が落ちればディセンブルグ家が――ひいては国家の屋台骨が傾く。
極めて危険度の高い軍勢を単身で滅ぼしたとなれば、その活躍を詠わずに吟遊詩人が語れようか。
(……そうね、功績だけ見れば立派な英雄ね)
英雄、正しく英雄。
通りで語り手が詠うのは輝かしい部分だ。
しかし裏では屍山血河を築く激烈な遍歴がまことしやかに囁かれていた。
付いた渾名が“血塗れ”、“悪魔の悪夢”、“根絶卿”、“針鼠の肉屋”、どれをとってもロクなものはない。
悪名を悪名が上書きし、偉業と相殺してなお余りある程で、情報を手にし難い民衆はともかく、詳しい惨状を知る貴族からは滅法評判が悪い。
貴族の前で“針鼠の肉屋”を詠った者は屋敷から叩き出されるか、悪くて処刑と言われる始末。
その癖、魔物退治にダンジョン攻略と使い所が尽きぬのだからなおタチが悪い。悪感情の自給自足だ。
兎も角、“針鼠の肉屋”に対する貴族の評判はド底辺もいいところ、貴族令嬢であればなおさらで。
――近づかれたくないし関わりたくもない。
そんな訳で、ペイルティシアは寒気と嫌悪感に苛まれ、執事に適当に任せてしまったことを後悔し始めた。
(護衛をもっと増やす……ですが目立てば汚点。大っぴらにしようにも、来賓の方々――我が家と近しい貴族閥に悟られれば影響力にキズが付くわ、冒険者風情とのいかがわしい噂が立つかもしれないのも腹立たしい)
第二王子との正式な結婚まであと数年だ。
侯爵令嬢として完璧を目指さなければならない以上、身を護る義務があった。
そう、だから、
「絶対に誘拐なんてされませんわ!」
「お前との婚約を破棄する!」
「……ぇ?」