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下界  作者: Kou:A
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2章#1


高校入学と共に趣味が増えた。小さい頃母親に連れられてアーケード街を脚がくたくたになるまで歩かされて帰りたいとよく泣いたものだが、高校に入ってから自ら脚がくたくたになるまで歩くようになった。アーケードの近くに朝市があることを知ったのはそのせいである。学校に行くと言って家を出て、学校への曲がり角を普段とは逆の方向へ曲がる。

背徳感がそれゆけと言うから、テンポを早めて歩く。魚介の匂いと青果の匂いが威勢の良い声に乗って青く翔んだ。朝市である。店頭に並んだ魚をまじまじと見ながら朝早くから賑わう人々の間を縫う。店頭をキャンパスだと勘違いした青果たちは様々な色の絵具としてポツポツと鮮やかな色を垂らしていた。スーパーより種類も多く、安いから、少し珍しい果物を食べたければここに来る。魚も同様である。裏方を覗くと魚が捌かれる様子を眺めることができる。良いと言えるかもしれないが、自分の悪い癖で、人の作業を凝視して覚えようとしてしまう。周りの人は颯爽と通り過ぎていく中、30分程魚が捌かれるのを、息をするのも忘れるほど、じっと立って集中して見ていると、


「やってみるか?やりたいか?」


と声をかけられたことがあって、いつから気付かれていたのだろう、敢えて見させておきながら捌いていたのだろうかとおもいながら、何だか申し訳なくて断ってしまった。それからなぜあの時断ってしまったのだろう、やってみればよかったのにと心に引っかかるものがあって、とうとう自分で魚を買ってしまった。当然魚はあの作業を凝視させてもらった頭の上がらない店である。


「初めて捌くなら、鯛がいいよ。骨が硬くて添わせやすいからね。」


ただ店頭に並ぶ新鮮な魚を眺めていたら、突然そう言われてぎょっとした。言う通りに鯛を買って、新しい趣味がスタートした。また趣味が増えてしまった。小さなヨットで海原に乗り出す、好奇心と探究心の飽和であった。

 包丁ならといである。父親はなぜか刃物の研ぎ方を心得ていて、家の出刃が切れなくなったら父親に頼むのが通例である。頼むと、

「おん。」と死んだ返事をして、しばらくするとその死んだ返事とは対照的な生きのいいしゃりしゃりとした音が聞こえてくる。音が途絶えたと思ったら後に残されたのは全ての光の粒を一つ残さず反射しそうなほど美しく輝く刃である。昨日頼んでおいたから帰って包丁に幻滅することはない。


「今日はいいサワラが入ってるよ。」


いつものおじさんである。いいものをのこしておいてくれる、有難い存在で、初めて声をかけてくれた人である。それをかって、さあ帰ろうと家への方向へと足を向けた瞬間であった。


「学校は?」


女性の声であった。


自分に話しかけられたのだと一瞬思ってしまった。サボってここにいることを知っている人はここには一人もいるまい。買い物に来ているおばさんがちびっこに言ったのだろうと勝手な予測(結果的にそれは非常に身勝手だったと判明したのだが)をしたのだが、気にすることはあるまい、サボろうが何しようが自分の人生だ、こういうときこそスルースキルを発揮せねばなど考えながら素通りする予定であった。


「ねえ、聞いてる?」


今度の声は空気が意図的に、どういう意図かは知らない、ただ未来を変えるための天のお告げに従ったのかと思えるほどであったが、円柱形に自ら圧縮して女性の声をメガホン式に直に耳に届けに来たと思えた。はっきりと聞こえた。避けられないと思った。蛇を見たカエルであった。世界には二人だけが立っていた。一人は自分自身だ、じゃあもう一人は?恐る恐る蛇の方を見ると、そこに立っていたのは同い年か、少し年上に見えるくらいの女性であった。顔はじっと真っ直ぐにこちらに向き、美しく取り付けられた目、鼻、口のパーツは今にも頭に浮かぶ言葉を全て吐き出そうとしていた。ただただ整った美しさがあった。鋭い目は僕の瞳を突き刺し貫通して脳内の思考回路を見透かしているのかと思うほど真っ直ぐであった。ただ、神聖な白さとは対照的に、髪の漆黒はメデューサの蛇の如く、生き生きとうねるが如く、その艶やかさを強調していた。その醸す圧で飛んでくる音を地面にへたり込ませ、周囲には静寂がもたらされていると感じられたが、冷静になってみると再び人々の雑踏と賑わいが耳に届いてきた。なんて答えようか。学校をサボってここで魚を物色している、なんていうのは気が引ける。しかし、向こうもなんなんだ。同じ高校生に見える。だとしたらなぜ学校に行ってないのだ。いや、大学生か?分からないがここには珍しい存在であることは確かだ。


「ちょっと、買い物で…。」


「サボってきたの?」


「まあ、はい…。」


ここで嘘をついて何かなるわけでもないし、正直にそう答えた。そもそも、知らない、赤の他人だ。何を言ってもよかろう。


「あの、どちら様ですか?」


こう聞いてしまう自分に驚いた。普通ならスルーするはずであるが、なにか、スルーしてはいけないような、スルーしたら後の人生にしこりを残すといったような不気味な天の告げ口があった。


「私?山本一葉。同じ学年でしょ?顔、見たことがあったの。気になって話しかけちゃった。」


「ああ、同じ学年でしたか…。」


周囲を見ない自分には顔見知りなどいないに等しいから完全に初対面である。向こうは違うようだが。


「それ、何にするの?」


ビニール袋に入ったサワラを指差している。サワラに向かって真っ直ぐに立てた人差し指はメスのように、鋭利で細いが丈夫で、あらゆる物を痛みを与えることなく切り裂いてきたように見えた。危うくとっさにサワラを後ろに隠すところだった。


「これは、刺身にでも。」


「へえ。」


今度は目線で瞳を刺してきた。瞳を隠すのにサワラを使おうと思ったがサワラもその突き刺す視線から守りたいというジレンマに襲われた。なんだか滑稽で笑いそうになった。


「あの、あなたは?なぜここに?」


「ん、私?それは、秘密よ。それじゃ。」


足早に去っていってしまった。

なぜか、狂わしいほど愛おしく感じた。周囲の分子全てが彼女を守っていた。よくみると、隣に男が並んで歩いている。遠くから見た判断では確証は得られないが、後ろ姿の背格好は男である。二人並んで、朝一の喧騒から出ていった。二人の周りの空気だけが違う色に見えた。ふいに、自分の周りの空気がひどく冷たく感じた。内臓が焦げる臭いがした。体内で火花が散って、パチパチと弾ける音がした。その衝撃で足が踊って彼女の方に駆け出そうとしたが、理性がそれを押さえつけてしまった。二人の姿はもう見えなかった。



今年も終わるのかと嘆く声はあらゆる場所から耳を塞いでも聞こえてくる。桜の憂鬱が通学路の吹き溜りに花びらの茶色い山を作った。まだまだと気張る、がくにしがみつく花びら達の憔悴してゆく体力はじりじりと、冬の名残る春の日光を通させて柔らかなピンクでアスファルトを優しく包んだ。その上を歩くと足が春の温かさに包まれて脳内の気力の芽を全て目覚めさせるようななんともいえぬ幸福な気分になるのであった。新年度の教室の空気は新高校生の緊張で泥と化していた。足にへばりついて歩くのも億劫になるほどであるが、静けさで校舎はしんと凛としていて、嫌いではなかった。その静けさの中での生徒の賑わいは壊れて放置された中古車のエンジンを無理やり動かそうとする時の不器用な振動となって校舎と緩く共振した。それに耳を傾けると全てを見透かす頂点に立つものになった気分になって、新年度の憂く心を優しく慰めるのであった。廊下を歩いていると


「あら、また会ったわね。」


背骨が曲がらない竿竹になったかと思った。

あの蛇の声にカエルの体はまだ過剰に反応してしまうようである。後ろを振り返るとそこにしんと立っていたのはあの朝市で出会った女性である。


「ああ、どうも」


突然の再会に驚いてもごもごと発音してしまった。


「サワラはうまく捌けたの?」


「まあ、まあですね」


本当は少し失敗したとは言いたくなかった。

ここで強がっても仕方ないだろうという心の声が聞こえた。


「料理したの?それとも刺身?」


質問ばかりしてくる。質問に答えていた方が会話が楽であるという僕の心を見抜いているのかとふとよぎるものがあった。


「アニサキスは好きよ。」


アニサキスが美しくなった。アニサキスは魚の内臓に寄生する小さな線虫であり、誤って体内に入れると胃に噛みつき激痛を与える。

決して美しい生物ではないが、美しくなった。この言葉が美しい波長でポンと投げ出された時、僕は誘われている気がしてならなかった。自分との会話を楽しめるよう仕向けているとしか思えなかった。自分の心を見透かされているのではないかという懸念は美しく確信に近づいた。だが、その透き通りそうな手に身を投げ出してその上で転がされてもいいやと思ってしまった。透明な固有振動数に放たれたアニサキスは、白銀のちりとなって僕の心に噛みついた。だがそれは痛みを伴わなかった。


「なんで知ってるんですか?」


「ふふ、秘密。もっと仲良くなったら教える

ね」


必ず秘密を残して行く。


「ほかに趣味ある?」


「いくつかありますけど…」


「え、多趣味なのね!じゃあ、1日に一つずつ聞いていくね、それじゃ」


発想が天才のそれであった。もう僕は綺麗な石ころになって手の上で転がされていたいと思った。足早に去っていったが、秘密のベールを剥がしに追いかけようとしてしまった。だが、圧倒的な感動の前に脚はそれを嫌がった。もっと浸っていたいと言われた。それがただの感動ではないと気付くことは時間のいることであった。







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