一葉の手記
7月2日
それはそれは悪魔のようでした。街路樹の枝が道路に亀裂を写して、そこにあなたの影が重なると、魔界へ飛び立つためにおどろおどろしい翼を広げ今に空気を切らんとしているようでした。隣を歩いているはずなのに、あなたはいつも遠いところにいました。あなたからは私の姿ははっきりと見えているでしょうが、私にその姿をはっきり見せてくれたことはただの一度もなかったように思います。いつも、私が下から呼べば上から見下ろして、存在を確認するだけ。ああ、今日もいるなと。下からでは雲に掠れてはっきりと見えないではないですか。少しばかり降りてきてはくれないでしょうか。本当に少しでいいのです。そうすれば、私は安心できます。ああ、私の声は届くのだと。いつまでこの鼠と鷲の関係を続けることになるのでしょうか。私は気が気でなりません。ふと目を離した隙にあなたはどこか私の目の完全に届かないところにいってしまうのではないか。見失ってしまったらもう終わりな気がしてならないのです。私は地面で餌を蓄えて待っています。腐らないうちに。早く。
7月5日
初夏の日差しは影を一層暗くして、陰鬱とした考えの端々をそこから逃すまいと、肌を刺します。あなたはその醸す圧で日差しを屈折させて周りにばらばらと撒き散らして、暑さなどあるものかと、私の一歩前を悠々と進みますが、斥力を生み出してしまっているのも確かです。あなたならそれに気付くはずですが、気にしない程私には興味がないということでしょうか。そのことが私の前により一層、N極同士を近づける時のもどかしさに似た、指数関数的上り坂を立ちはだかせるのです。ただ、それに相互性はなく、私を虚しくさせる片方だけに伸びる矢印です。そもそも私達は異符号の電荷であったはずです。あなたのスピンは不安定過ぎた。私の知らない安定へと引き込まれていっています。私の不安定さとの和は一定でしょうか。明後日に期待することしかできません、今の非力な私には。
7月7日
彦星は机に向かっている。織姫に会う日でさえ、手元の紙から目を離さず、かつての私の手の座をペンに明け渡して。紙には難解な文字の羅列、数学?文学?哲学か。浮いた思考を持つ者達と終電までたむろして、飯も食わず、前も見ず、思考とは何か、生きるとは何かとか、どうしようもないことをあれこれ議論して、笑いもせず、楽しくないのかと聞けば、楽しいとは何だと、本当にどうしようもない日々を普段は過ごして、今日ぐらいは、という思いすら、今日、打ち砕かれた。二人で七夕を見にきたのではなかったのですか。今日は。あなたは七夕を見ていません。視線だけ向けて、本当に見ているのは自分の思考でしょう。私は悟っていますよ。咎めるのは諦めました。天の川に諦めさせられました。
ドス黒い汚水を轟々と運ぶ天の川が白いのは、生活排水の洗剤が混じって泡立っているからです。これでは、向こう岸にあなたが立っていても、渡れそうにありません。排水の藻屑となりましょうか。あなたが、それ、と言えば私はためらい一つなくこと濁流に身を抱かせるのですが、あなたが軽く首を振るもんだから。
7月8日
2日連続で会うのは滅多にないことですね。馬鹿な私はこんなことを嬉しがって生きるしかありません。今日も会えた。それだけで良いのだと、私に優しく声をかけてください、私よ。本当の愚かな私は潜在意識がそれで満足していないのを知ってしまっています。今日もあなたは何も見ず、思考を凝視して、生返事、生返事、生返事。何なのですか。あなたの思考を占領しているのは一体何なのですか。検討もつきません。少しだけ、ほんの端だけでも明かしてくれれば、私は、疲れ切った日に睡眠薬を飲んでベッドに倒れこむような安心感を得られます。彦一で、パフェを不味そうに、味覚がないのか、ゴミ処理ロボットのごとく頬張るあなたを横目に、私は涙が止まりませんでした。それを見て、あなたは、無感情に「何だ。」それだけ。中庭の池の水の音だけが、虚しく鳴り響く。店の外にあるししおどしの音に頭を殴られた。空っぽになった頭にじんと響いて痛かった。「行くぞ、金は出してきた。」冷たい言葉に、私はついていった。ししおどしが、また、ガンと鳴り響く。いっそのことそれで気絶させてほしい。いっそのことその勢いであなたの思考も飛ばしてほしい。目が覚めたとき、あなたがあなたに戻っているのを空想する。
7月11日
全ては溶けていった。夏には雀の羽は薄し、呆然と立ち尽くすカラーコーンの憂鬱、その中の空洞の篭った空気の解放への渇望、乾いたアスファルトの匂い、今年の夏へ勇足。それら全て溶けてしまえば、私の心が溶けて側溝から川へ、気温とともに高ぶった魚の餌食にならないことはないでしょうか。川底の土になりますか?いいえ。内臓を損傷させて殺した。さあ、行けよ。できる限り遠い海へ流れ出て行けよ。あなたの考えと心中して行けよ。これは強い日差しが作った影。いずれ消える影、太陽、いずこへ。ただ、それだけ。そんな、影。いずれ光にならない影は有りましょうか。諸行無常、これを復唱する日々が来るとは、過去の刻一刻の私の誰が想像出来たでしょうか。あさましや。あさましや。声が聞こえる。過去の私どもだ!屈辱以外の何者でもありませんでした。私が憎んでやまない過去に笑われるとは!ですが、許します。
あなたが生きていてくれる限り、許します。
曇天に一縷の光を刺すのはあなただけです。
7月15日
早い猛暑への人々の苛立ちは、熱されたアスファルトに屈折して全て私に刺さってくる。
行く道を惑わせた蜃気楼。
憧れを狂わせた馬鹿野郎。
バカではない馬鹿野郎か、私もよくそんなことを言えるもんだ。本当のバカはあんただろ
私は何も変えることができなかった。本当に無力で、蛇を前にした蛙は、呆然の中に夢を見た。成し得ない夢を見た。死にゆく鼓動を聞いた。地球との関係を断ち切って飛んで行こうとする月は、空に血の雨を降らした。欠けて小さくなりながら、輝きを増した。地球からでは眺めていることしかできないその輝きは、空に虚無感だけを残してくだろう。
空の虚無 そらみろとわらう あなた虚無
すら望む 句は死をとさらう わたし虚無
あなたの思考はあなたには宝であったのかも
でも私には心に穴を穿つ虚無でしかなかった
ああ、大切な人を忘れてまで自分を考えるのは罪ですか。愛したはずの人を疑ってまで人生を考えるのは罪ですか。
7月20日
月のかけらはきらきらと
空に憂鬱も残さず
あらぬあなたは白々と
私に安寧をよこさず
天界から下界を見下ろして
下からの姿ははちらちらと
よぎる決心は堂々と
勘違いはただ一つにして大きな欠陥
思考は思考で翼にあらず
下界への道を開いた
あなたについていきます
ここだけならついていけそうな気がするのです。生きろよというのですか。ここまでにした犯人はあなたであります。もう後戻りはできまい。一緒に下界にに降りましょう。私は天界にいたわけではないけれども。なんだついてきたのかと言われるかもしれないけれど。天界にいたような気分になりたいのです。あなたと一緒でいたいのです。一緒に行きます。あなたの開いた下界への門をくぐります。あなたを愛しているから。