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下界  作者: Kou:A
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一章

風の無い夏の夜だった。商店街の様々な匂いが重たい空気に飽和して、隣の住宅街にまで建物の間をぬってどろどろと流れ込んだ。僕はそのどろを掻き分けて歩いていた。脚を踏み出すごとに舞い上がって移り変わる、昼間の商店街の残り香が鼻をかする。それを楽しんで歩いていた。点々と道を照らす街灯がこの街の空気を切り裂くもんだから、光に酔って集まる虫達はさながら傷口からこの世界に漏れ出した異世界の粒子であった。歩き慣れた道のはずなのに迷子になった気分になって妙にわくわくしてゆっくり進んだ。別の通りに出たくなかった。ずっとこの道が続けばいいと思った。10メートル先の闇がおいでと手招きした。ふと上を見上げると、彼方に正円の穴が空いていて、そこから神々しい薄明かりが漏れている。それが月であることに気づくのに少しばかり時間がかかった。この世界は閉鎖されたドームで、外界はまばゆい光に包まれているとでも思っていたのだろう。外界のやんちゃな天使の少年数人が、人の子がアリの巣にイタズラするように、上からあの天の穴に水を流し込んでしまう気がした。街の吹き溜まりに積もったこの世界の垢みたいな落ち葉も、この匂いも、薄汚れた人々も、全部、その上からの大洪水に流されて、何も残っていないこの土地を空想して少し怖くなったりもした。その恐怖はこれを予感したせいだったのだろうか。何か大きな塊が視界の横で鉛直に落下するとともに、どさりという鈍い音がして驚いた。なんだ天の穴からの落し物かと思ったのは刹那、現実的かつ真っ当な反応が僕の酔い痴れて原型をとどめていない脳に規則即ち衝撃を与えた。視線も、意識も、全神経が集中して一つの細く強固な槍となり、落ちてきた「もの」を突き刺していた。そして気づいた。人だ。人が倒れている。セメントのように重くなった空気の中、必死に手足を前へ前へと動かしそこに倒れている人との距離を縮めようとした。二人の間は永遠の闇で満たされていた。手招きしてくれない冷酷な視線の塊だった。月が弱っている。それがどうにか照らす純白と真紅の対比が目に痛かった。そこには白いバスローブに包まれ、頭から血を流す女性の体があった。うつ伏せになった体は繭から出てきたばかりのカイコガのような白さを纏ってこの世の全てに不釣り合いな眩しさを放った。手足は胴体に近すぎず離れすぎず、無造作に散らかった艶やかな黒髪と奇妙な黄金比の配置を取っていた。顔は水平に向き、美しく取り付けられた目、鼻、口のパーツは何も語るまいとしていた。ただただ整った不気味さがあった。鋭い目は全てを貫き地球を一周して自身の後頭部を見つめているのかと思うほど真っ直ぐであった。ただ、硬直した白さとは対照的に、こめかみから広がる血は生き生きと黒いアスファルト上にその赤の陣地をぐんぐん広げていた。天の穴の薄ぼけた光がその赤に反射して地面にも穴を開けた。それを見て思い出したように上を見上げたら、側の5階建のマンションに見下されただけだった。僕はこの女性があの天の穴から降ってきたのだと思い込みかけていた自分を馬鹿だと思えるほど冷静さを取り戻しつつあった。二人を中心に空間が収束しだした。天と地への穴も大きくなる。今度はその二つから漏れる光がこっちへおいでと手招きした。今なら天国に行くのも地獄に行くのも簡単だと思った。



高校に入って3度目の春が来た。勢いづいた木々が裏山を新緑に染め上げた。春の花々が散って通学路の脇に吹き溜まって茶色い山を作った。そこに積もることも叶わず希望の新学期に勇む生徒達の足の裏で踏みつけられた花びら共が、春の陽気で熱を持ち出したアスファルトをうっすら湿らせて冷やした。乾いた空気を燕が切り裂いている。そんな通学路を歩いている。こんなときも僕はあのときの情景を一つの動画として思い出すことができる。強烈な印象が僕の脳内にあの一連の出来事をフィルムとしておさめてしまっていた。商店街の横のあの通りを歩くのを避けた。あれから9ヶ月ほど経った今でも夜道で人に会うとシナプスが悲鳴をあげるのである。この先この神経過敏の脆弱を背負って生きて行くのかと思うと暗い未来を連想し、その度に脳内で冷酷の黒と侵食の赤と硬直の白を見てそれらに恐れをなすのである。

家を出て裏山を背にして坂を下ると大きな通りに出る。朝の通勤時間には大量の排気ガスを出す。そこを右に曲がってしばらく進むと高校がある。外装が簡素で灰色だから巨大で不気味な施設である。隣の家が結構でかいもんだから、その家側から歩くと校舎がそれにすっぽり隠れる。そのせいで巨大な施設が家の後ろから突然現れて毎回ビビる。施設内は新クラス発表で大にぎわいのようだ。障害物レースのつもりで騒ぐ生徒を避けてそそくさ歩き、速やかに自分のクラスと席を確認して席に座った。毎年周りの舞い上がりと自分の沈殿の差に嫌気がさすのである。校舎ごと全く壊れたエンジンである。

「あんたどこの組のもんだい?」

ヤクザかと思ったが平凡な男子である。♾人の男子の顔を足して♾で割ったような究極に平均的な顔であった。すぐ忘れられそうだがかえって僕の印象には残った。去年どのクラスだったのか聞いたものと解釈して答えた。

「1組ですが」

「なんや文系か」

この男は去年理系で文転したのだと言う。名を嘉山という。

「どの組のもんだって、ヤクザかと思った」

「はぁ、あーヤクザもんのゲームやっとったせいかもなぁ」

しまった、ぶっきらぼうな印象を与えかねない態度を取ってしまったと思ったが、すぐ嘉山が何も気にしてなさそうな返答をしたから安心した。すると嘉山は何か洞察を含んだ視線をこちらにさしてきた。ほんの一瞬であったが。またしてもしまったと思った。こちらが自分の印象を過度に意識していることを悟られた気がした。僕は彼を強い洞察力を持つ者とみた。

「ほな、席隣やし、何も気にせず気軽に接してくれよな」

「あぁ」

彼は瞳の奥の洞察の針をすぐさま引っ込めて微笑んだ。何も気にせずという言葉が過度に気になってしまって、尻すぼみの気の抜けた返事をしてしまった。しまったがこだましてきてしまった。

始業式やら何やらが午前中で済んだから午後は暇になった。不意に家にあるもの全て退屈に思えて帰るのが億劫になったから、街中を歩き回ることにした。いつもの帰り道から身を投げ出して知らない道に出た。雲一つない空が強い青で固まって落ちてきそうだった。カーブミラーがいつもより白々しい景色を写しながら見つめてきて、伏し目がちに歩くと表札もこうべをたれた。たくさんの歩行者の雑踏がこもって、視界が騒がしくなった。アーケード街に出たようだ。アーケード街は結構好きだ。両側にひしめく店の個性のそれぞれがアーケードに僕の気持ちも籠らせて逃がさなかった。自己主張の激しい個性達に目を泳がされて歩いた。すると、人は言われなくても周囲に合わせることである程度流れを作って歩く習性があることに気づいた。東西にのびるアーケード内では、中央の線を境に北側を歩く人は西に向かって、南側を歩く人は東に向かって列をなしている。これも同調圧力なのかなどと考えながら迎合して流れに加わると、前を幼い女の子と母親が手を繋いで歩いていた。

「ママ、みんなみちをはずれてあるいてるけどいいの?」

「道?外れてないじゃない」

「はずれてるの。ほら、ななめいって、ねえ、ママ、あーあだっせんしちゃったじゃん」

少女は下を指差しては母親に不満の顔を向けた。ああ、そうかと思った。アーケードの地面には薄灰色のタイルが敷き詰めてあるが、黒のタイルがその上に正弦のグラフを描いていて、アーケードをずっと蛇行していた。少女はこの蛇の上しか踏んでいけないものと思い込んでいるらしい。幼い発想がその幼さに花を添えて、僕は無性にその子の頭を撫でてやりたくなった。その後も二人はぽつぽつ会話した。少女が母親にありったけの幼さを言霊にして母親に投げつけると、母親はその変化球を丁寧に受け取っては少女に優しく手渡すのだった。二人のやりとりから愛情がぽろぽろとこぼれて冷たいタイルを暖めていたから、僕はそれらを拾い集めながらしばらく後ろをついていった。二人がとあるカフェに入っていったので僕もつられて入った。

カフェの内装は温かみのある木を基調としていて店内のBGMをやわらかく響かせていた。平日だからなのか、席はほとんど空いていて人の真隣に座りたくない自分には非常にありがたかった。カフェラテを飲みながら今日はあと何をしようか、暗くならないうちには帰りたいなどと考えているとおいと呼ばれてギョッとした。振り向くと嘉山であった。

「おう、また会ったな」

「え、こんなとこで」

「ん?この辺は俺のシマやぞ。あんましょっちゅうぶらつかれても困るぜ」

ブラックコーヒーを片手に隣の席にぬるりと座った。無駄のない上品な動きであった。1つ席を飛ばして隣の隣に座ったりしてこなくて安心した。流石にそこまではなと思った。目の前を通り過ぎる虫を射殺しそうな眼差しで凛と前を向いてコーヒーを啜っている彼の姿が入り口のガラス戸に写って、外の景色と混じっても凛々しい。彼のコーヒーからふわりと逃げ出した湯気が凛と空気に溶けていった。僕のカフェラテから出た湯気はいそいそと空気に隠れていった。

「この辺はよく来るのか」

「アーケードは俺の庭や。いつも通りぶらぶらしてたらお前の姿が見えたもんで、カツアゲしにきたわけ。つーことで俺のコーヒー代半分出せ。お前のカフェラテ代出したるから」

「カツアゲになってないと思うけど」

「ん、細けえこと気にすんな」

僕はこの男に興味が湧いてきた。何か、相反する二つのもの、あるいはかけ離れた複数のものを同時に内面に収めていて、それが時折雰囲気に漂ってかすかに匂うのが興味深くて、彼を、彼のアイデンティティを構成している要素一つ一つを解きほぐしたくなってきた。何か聞こうと考えていると嘉山に先を越された。

「今年のクラスではどういうポジションに立つつもりなんや?」

1、2年生の時の僕の様子を知っているかのような口ぶりで、前戯的な会話をすっ飛ばしたことを聞いてきた。僕という人間を一つの質問で多角的に分析しようとしてきているようで、身構えてしまいそうになったが、それが表に出ないうちに素早く答えた。

「僕はいつも傍観者だけど」

「ふぅん。傍観者ね」

どうやら僕は彼の手のひらの上で既に転がされてしまっているらしい。またあの虫を射殺せそうな眼光でまだあまり減ってないコーヒーのしんと静まった水面を突き刺していた。砂糖を入れて首を振れば混ざりそうである。

彼の僕を分析するために目まぐるしく回っているであろう思考が目から溢れてコーヒーに滴ってまずくしてしまいそうである。僕のカフェラテを飲むとおいしくて安心した。

「嘉山君はどうなんだ」

「俺?俺ぁ盗めるもん持ってそうなやつとぼちぼちつるむ感じやな」

「窃盗か」

「なわけないやろ。内面や。内面。まあ鈍そうで金になりそうなもん持ち腐れてたらほんとに盗むかもな」

彼はにやけていた。初めて見た笑顔であった。どこか間抜けで見る人を油断させそうであった。

「傍観してなんかわかんのか?」

「何かわかるというより、クラスメイトの対人の構造を眺めて楽しんでるだけだけど」

「ほぉーん。人と話して得られるもん得とかないと勿体無いぜ。話さないとわからんことがほとんどやないか」

「あまり積極的になれないな。そこはわかってるつもりだけど」

「まあそんなとこだろうと思ったよ。今の環境も貴重だぜ。あんないろんな人間集まってるとこはさ。しかも成長途中の不安定な若葉供がわさわさいるってんだからよ」

「なるほどな」

嘉山は生徒として学校にどっぷりはまっているというより、自分が成長するための手段として客観的に認識して利用しているにすぎないというのはなんとなくわかった。

「そろそろ行くぞ、お前、名前聞いてなかったな」

「ん、佐藤」

「ほおん、これから世話になるぜ」

見るとコーヒーが無くなっている。自分のを飲み干してカフェを出た。財布の金は結局減らなかった。

「ちょっと付き合えよ」

嘉山が言うから後ろをついていった。日が傾き始めていて、街を薄いオレンジに照らしている。空が薄くなって消えてしまいそうだった。ただ濃い昼の抜け殻であった。

それから影がちょっと伸びたころ嘉山が足を止めた。

「ここや」

そこは大きな総合病院だった。

「え、なんで」

嘉山がどこか悪いのか、誰かの見舞いに行くのか、一瞬のうちにいろんなことが目まぐるしく脳裏をよぎった。気づくと立ち止まってしまっていたようで、嘉山は足早に先を歩いていたから小走りで追いついた。病院の中でも嘉山は何も話さなかった。ただつかつか早歩きするだけだった。僕はとても怖くなった。蛍光灯の光が白い壁を冷たく不気味に照らして、触ると生気を吸い取られそうなほどであった。出来るだけ廊下の真ん中を歩いた。少し前で看護師が二人立ち話をしている。僕の方をちらっと見たがその何気無い微笑みが僕に向けられた冷笑に思えてならず、

これ以上先に進みたくなくなった。

「ん、どうした?ここや」

嘉山の言葉にハッとした。彼の方を見ると心配そうな顔でこちらを見ている。

「ここ?」

「おう、そうや」

そこには個室のドアがあった。誰か入院しているのだろうか。「山本一葉」とある。嘉山がドアを開けて入っていったので後ろについて入った。ベットが四つ並んでいて、一番奥に誰か寝ている。あの人が部屋の入り口にあった名前の持ち主だろうか。入院する部屋は初めて見るもんだから設備をまじまじと観察してしまった。

「テレビがついてるのか」

僕のぼやきは完全にシカトして嘉山はそそくさと奥に行ってしまっている。

「おい、嘉山?」

奥のベットの前で立ちつくす嘉山の後ろ姿があった。道路で轢かれた自分の愛するのペットの前で心を落としてしまった少年のような、ふと目を離した隙に消えてしまいそうな虚しさがその背中からだけで見てとれた。さっき嘉山が僕にいったように、今度は僕が嘉山に聞いた。

「どうした?」

歩み寄ってベットに寝ている人を見るよりも先に嘉山の顔をのぞくと、俺はいいというようにベットに寝ている人の方を顎で指し示した。そこで初めてその人を見た。そこには僕の脳裏に焼き付いて消えないあの白が眠っていた。



魂が音も立てず落ちた。そこに冷酷の黒と侵食の赤は無かった。硬直の白が、9ヶ月前よりは強烈に、強烈というと語弊があるが、より静かに、ベッドの白いシーツと毛布に溶け込んでしまいそうなほど透き通っていた。それと対照的な艶やかな黒髪がそれをより一層引き立てていた。不気味なほど整った顔は安らかであったが、唇は水の底で死んで元の鮮やかさを失ってしまった蛭のように血の気が無かった。生きているのか疑って脈を確かめるために首に手を伸ばそうとしたら、

「生きてるよ」

嘉山に止められた。

「ほ、ほんと、なのか」

僕は浜に打ち上げられてすっかり弱った小魚のように口をパクパクさせてかすれた声で言った。その部屋の空気だけ酸素がなくなっているように感じた。嘉山が苦しそうにしてないのを見てそんなことはないと確認したほどだ。

「お前、知ってんだろ。一葉のこと」

たしかに目の前で眠っているのは9ヶ月前月から落ちてきたあの女性である。僕の脳はその時の記憶に取り憑かれてしまっているようで嘉山の言葉は遠くにしか聞こえなかった。

我に帰ろうとしても視界にはあの夜道と闇と月が写されて、その時の感情が闇へと僕の正常な意識を引きずりおろして帰してくれなかった。そのあと嘉山がすぐに僕の肩を揺さぶって意識を引き戻してくれたが、それまでの刹那が何時間もの長さに感じられた。

嘉山が僕の肩に手を置いたままこう言った。

「一葉はマンションの4階から飛び降りて、かろうじて一命をとりとめたが出血多量による脳へのダメージで植物状態になっちまった。お前がすぐ救急車を呼んで応急処置をしてなかったら死んでた」

「は、あ、僕が?」

嘉山は僕の魂の抜けた顔をしばらく見つめて何か悟ったようにこう言った。

「そうか…」

嘉山の顔には少し残念がる表情があったが、

心の中でやっぱりなと言ったのがわかった。

その時の僕にはなぜ嘉山がやっぱりなと思ったのかまで考える余裕は無かった。目の前に眠る女を見るための視覚野と記憶をフラッシュバックさせる海馬が前頭葉を占領してしまったようである。もはや心臓が血液を持ち上げる気力を失ったようで、血液が立っている僕の下半身に溜まって重みを増して足を地面にはりつけてしまい、血の気のない上半身は抜け殻と化したようであった。血液を失って薄ぼけた意識の中で僕は、あのあと救急車を呼んだのが本当に自分だったのかということと、嘉山がなぜこの女と、僕が彼女の自殺現場に出くわしたことを知っているのかを考え出した。だが走り始めた思考にそれを上回る勢いの闇が覆い被さり跡形もなく消し去って、考えようとしていたという記憶さえ無くそうとするのである。そしてその闇は、僕が、僕の全細胞が恐れてやまないあの時の冷酷の闇なのであった。また嘉山の声が遠くで聞こえた。

「ほんとに忘れちまったのか…」

動かない身体のかわりにかろうじて動く眼球を動かして嘉山の方を見た。嘉山は僕を見てはいなかった。その視線は一葉の顔に向かっていたが、カフェで見たあの強烈さとは程遠い、彼女の顔に届く前に薄れて消えてしまいそうなものであった。そしてあの凛々しさは見る影もなかった。

「この女について知ってること、ありったけはなしてみろ」

「し、知ってること?名前ぐらいしか、さ、さっき知ったけど」

「そうか」

この時の僕は本当に彼女については名前しか知らなかった。

「こいつは山本一葉。俺らと同い年や。そして同じクラスってことになってる。もう教室に戻ることもないかもしれんが」

悲しいほど優しい声であった。穏やかな響きが周りにあるすべてのものの心に干渉して鎮めてしまって、静寂をもたらしそうだった。

「同い年なのか…」

大人びた顔つきを見て、勝手に年上だと思っていた。

「何で、この、一葉さんは、自殺なんて」

僕が語尾まで言い切る前に嘉山が口を開いた。

「それがわからないんや」

優しい響きの奥に、自分のやるせなさなのか、悔しさなのかわからないが、怒りに近いものが確かにあった。彼の言葉にこれほど感情を感じたのは初めてだった。夕日が窓から差し込んで部屋全体を橙に染めている。彼女の白く透き通る肌がすっかり鮮やかに染まってしまっている。彼の声は光にまで干渉するのかと思った。

「わからないんや…」

今度の声には何も感じなかった。嘉山はすべての力を吸い取られたようにその場に膝から崩れ落ちてしまった。沈みかけた太陽が突然山の端にストンと落ちてしまいそうであった。





それからというものの、僕の意識は浮つき出した。躾されてない子犬のように、気をつけていないとちょろちょろと何処かへ行って見失ってしまいそうになる。僕は学校の授業に集中できなくなっていた。同じ教室で受けていても教師の声と周りでまじめに取り組む生徒達は膜一枚隔てた外にあった。はたから見ればいたって普通に授業を受けているように見えるかもしれないが、僕が見ているのは黒板ではなく、一葉であった。病院で彼女をみてから、僕はよく眠りから覚めた彼女と歓談するのを空想した。頭の中の彼女は美しく笑っていた。生き生きとした白であった。白い絵の具が水に一滴垂れて溶けていくようにふわりと笑うのであった。黒い汚水に垂らしても負けずに美しく白に染め上げるのだろうと確信できるほどであった。

「この問題、わかるかー?」

気づくと教師がこちらを見ている。僕が当てられているようだ。どの問題か分からず戸惑っていると隣の嘉山がすぐ察してここだと教科書に指を指して教えてくれた。昔予習したところだったので困らずさっさと解答を黒板に書き上げて席に戻ってくると嘉山が微笑んでこっちを見ていた。僕は小声でありがとうと行って座った。隣が嘉山で本当に良かった。

嘉山は、何故山本一葉が自殺未遂したのかを突き止めるべく奔走しているようで、僕も付き合わされた。だが、彼女に友達は多くなかったようで情報を聞き出せず調査は難航していた。2か月ほど経ったが彼女の人物像は一向に見えてこなかった。ある日嘉山が一葉の机に詰まった配布物やら何やらを整理していた。

「何で一葉の机整理してるの?」

「大事な書類とかあるやろうから、まとめて家に届けたろうと思ってさ」

「彼女の家を知ってるのか?」

「おう、知ってるぞ」

何故知ってるのか気にはなったが聞かない方がいい気がした。眼光にまたあの強烈さがあったからだ。

「ちょっと手伝え」

プリントはかなりの量があった。それを嘉山と二人で黙々と整理するのは奇妙な新鮮さがあった。

「にしても、学校は誰も読んでない下らないプリントを無駄に配っている気がする」

僕が手に持ってるのは明らかに要らないであろうプリントの束だった。

「誰かは読んでんやろ。あとプリント製作する人にちっとは敬意あってもいいだろ」

必要なプリントを丁寧にファイルにまとめながら嘉山が言った。

「まず見舞い行くぞ」

何故か心拍数があがった。僕は深呼吸して嘉山についていった。

夏に迫る強い日差しに病院の白い壁は眩しく照り映えていた。僕は初めてここに来た時ひどく動揺したのを思い出していた。今回は嘉山に置いていかれないようについていった。病院の中に前回の不気味さは無かった。

看護師の微笑みは微笑みのまんまで安心した。自分の精神も落ち着いたのか、これも嘉山のおかげかとも思った。一葉の部屋のドアを開けると嘉山があっと言った。一葉によく似た女性がいた。僕たちの姿を見てすっと立ち上がった。一葉を少し幼くしたような顔つきで、瞳の黒さは底が無いような一様さだった。肌は一葉に似て白く、髪も同様で、だが生き生きとして健康的であった。

「一葉?」

あんまり似ているからそんなはずはないとわかっていながらもそう呟いてしまった。馬鹿言うなと嘉山が目配せしてきた。一葉は変わらずベッドの上である。目が合って、何か挨拶せねばと思った瞬間や嘉山が口を開いた。

「俺ら同じクラスのもので」

嘉山が言い切る前に女性が喋り出した。

「一葉の姉の優花です。お見舞いに来てくれたのね。ありがとう」

そう言って微笑んだ。一葉から大人びた部分を少し抜き取ったようであった。この人が姉なのかと僕は少し不思議に思った。だがその幼い笑顔の中に妹を失うかもしれないという終わりの見えない不安が滲み出ていた。それが瞳にも表れているのだと納得した。

「名前をきいていい?」

「嘉山です。あ、コイツは佐藤」

僕はペコリとお辞儀した。

「あの、この後プリントをご自宅に届けようと思ってたところで」

嘉山は少しどぎまぎしていて珍しいな、この男も緊張するのかと思った。

「あら、わざわざありがとう」

一葉の方は、全く変わっていなかった。4階から飛び降りたあの時から時が止まってしまっているのだ。

「じゃあ、帰りにうちによって行きなさい。

いろいろ聞きたいことがあるの」

「はい」

彼女の家は病院から10分ほど歩いたところにあった。ここで僕の中で一つ疑問が生じていた。ここは一葉が飛び降りたところではないということはである。てっきり僕が避けて来たあの通りにあるマンションに行かなければならないのかとビクビクしていたら、病院を出てすぐ商店街とは真逆の方向にお姉さんが歩き出したもんだからどういうことだと思った。家を知っていると言っていたから嘉山もこのことは疑問に思っているはずである。そこは簡素なアパートであった。ここよとお姉さんが言った。

「おじゃまします」

「どうぞ」

二人で住むには少し狭いと思われる部屋だった。洋風の部屋に明らかに不釣り合いな古い小さなちゃぶ台の前に二人で並んで正座して、向かいにお姉さんが座った。お茶と少しのお菓子が出された。嘉山はまたお馴染みの目つきで、お茶のつがれたコップを割りそうである。

「そんなに怖い顔しないでよ。何も変なこと聞くわけじゃないんだから」

「すみません」

お姉さんがふふっと笑った。嘉山はちくしょうといった表情だ。

「一葉とは、どういう関係?」

嘉山が明らかにどう答えるか迷っている。少し間が空いた後に嘉山が答えた。

「友達です」

この時から、嘉山は一葉と友達ではない何かしらの深い関係があったのではないかと僕は疑い始めた。お茶がまずくなった。

「あなたは?」

そう言ってお姉さんが空の瞳を向けてきた。

空という表現が実にしっくりくるほどのからっぽの黒であった。すべてを突き通す視線とすべてを吸い込む空の瞳がぶつかったらどうなるのだろう、嘉山とお姉さんの目が合ったらどうなるのだろうと思った。

「僕はまあ、第一発見者というか」

お姉さんが目を見開いた。

「あ、あなただったのね。一葉を救ってくれたの。救急車を呼んでくれた人が分からなくて、ずっと探していたの。なんとお礼をしたらいいのか、本当に、本当にありがとう」

お姉さんが僕の手を握って頭を下げてきた。

「あぁ、いえ」

本当は自分がしたか思い出せないなんて言えるはずもなく、どうしたらいいか全くわからなくなってしまった。深く頭を下げるお姉さんの艶やか黒髪は原油のようにどろどろと溶けて床に落ちてしまいそうだった。嘉山は自分でまずくしたであろうお茶を不味そうに飲んでいる。その後もいくつか質問に答えたが、明らかなのはお姉さんが妹のことを知らなすぎるということであった。

「なんで飛び降り自殺なんてしようとしたのかしら」

お姉さんがこう呟いた時二人で大いに驚いた。嘉山はこのことを聞きたがっていたが、お姉さんも知らなかったのだ。

「あなた達は何か知らない?」

僕たちは首を振るばかりであった。お姉さんの瞳の空虚さも増していくばかりだった。両親を早くに亡くし、姉妹でこのアパートに住んでいたらしい。お姉さんは働いているが、親戚の仕送りがないと経済的に厳しいのだそうだ。お姉さんも仕事で忙しくて一葉のことは二の次になっていたのかもしれない。

「俺、プリント部屋に置いてきますんで」

嘉山が入っていったのは一葉の部屋だろうか。ちょっとして戻ってきた。

「じゃ、俺らそろそろおいとまします」

「本当にありがとうね」

妹の自殺未遂について何も明らかにできなかった悲しみをたたえたお姉さんの表情を見ていると来ない方が良かったような気がしてしまう。家を出た後もその瞳が瞼に焼き付いていて、目を閉じると目が合った。帰り道、嘉山がポケットから小さなノートを取り出した。

「なんだそれ」

「プリントを置きに一葉の部屋に入った時、

机の棚にあった。日記っぽいぞ。取り出しやすいとこにあったから、ちゃんと書いてあるはず。何かわかるかもしれない」

なるほど家を出る時嘉山に残念そうな表情が全くなかったのはこれを入手していたからかと納得した。僕らはそれを読み始めた。そして彼の勘は想像以上に当たっていた。日記には一葉の行き場のない苦しみが記されてあった。彼女の悲痛な呻きが聞こえてきた。


































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