生ハム
びっちりと密閉されたフィルムを丁寧に剥がす。勢いよく開けると、縁のどこかで引っかかったときに、中身が宙を舞うことになるからである。
生ハムを食べている。
自分とは縁もゆかりもない土地に税金を納めると、返礼品として送られてきた代物だ。生ハムのほかにも腸詰めやらのバラエティ加工肉がいくつか入っていたが、調理を必要としないのがこの生ハムだけなのであった。
生ハムしかり、生牡蠣しかり、生がつくものというのは、たくさん食べられない。少しでいい。それもメインディッシュではなく、一番最初に食べたい。
正直なところ、生ハムしかり、生牡蠣しかり、生がつくものが、蒸したり焼いたりしたものよりも好ましく思っている。味も食感も、とりわけ悦びを感じる。
だが、いざ箸を持つと、時間が経つにつれて、どんどん火を通したものが食べたくなる。
蒸し物には、生とは違う優しい口当たりがある。内に閉じ込められた旨味の汁が、柔らかなスポンジを搾った時のようにじゅわっと広がり染み渡っていく。温かい気持ちが自分の身体に移るようである。
焼き物は、香ばしい香りが顔前に立ち上り、鼻の周りを漂う。その香りは、寄せては返す波のように鼻の奥を突く。届いては退いて届いては退いて、食欲を掻き立てる。目頭もなぜか熱くなる。
顔の輪郭でいうエラのところあたりから唾液が染み出して流れ込んでくる。こんがり焼いて凝縮された味は、口の中に入れると唾液と反応して、ちょうどいい濃度で口内を満たす。噛めば噛むほど繊維の隙間から旨味がどんどん出てくる。咀嚼もほどほどに喉の奥に当てると、飲み込むときに食道の入り口が広がり、脳に満足感が生まれる。
火を通すということを発見した先人に最敬礼。生物は冷酒でキリッといきたいが、焼き物は熱燗でちびちびやるのもまたいい。
進むにつれて奥行きを愛せるようになるのは、どこか生活と似ているし、周期の幅や大きさに違いはあれど、そういうメカニズムが身体に備わっていることは、私にとって一つ安心できる材料ことなのである。




