個人主義の逆転
個人。個人。
満員電車に在っても、CMでも見たことないようなアプリのゲーム遊ぶ人たち。すごい。何もせずぼーっと考える、あるいは何も考えない時間がない。
疑いを持たない人はいないだろうから、生きることへのクエスチョンはなくならない。そういったものを忘れようとしているのだろうか。
わたしは、さみしがり屋だから、ふとした時に家族のことや、友達のこと、むかしの恋人のこと、かつての名前も思い出せない同窓のことに想いを馳せたりする。
最近では、むかし「ポリタン」というあだ名(由来がまったくわからない)の男子がいたことをよく考える。SNSだってする。
日本人は昔から、姓を名乗り、名を名乗る。だから、家族や繋がりを一番に考えてきた。一方西洋では、ファーストネームから。家族よりも個を重んじている気がする。
常にさみしい私は、家族が好きで、恋しい。では、西洋の人々はさみしくならないのか。
そんなはずもなく。わたしもお世話になっている、四六時中の繋がっていたいを実現したTwitterもFacebookも向こうで誕生した。もしかすると今は西洋の方が繋がりを求めているのかもしれない。
グローバル化が進み、日本人もパスポートやFacebookでは、名前が前に来るようになった。こうなると反対に今度は西洋で、苗字から名乗るのが流行るのではないかしら。
スタローン・シルヴェスター、ステイサム・ジェイソン、ジョンソン・ドウェイン、スミス・ウィル、……
帰り道、生け花をやってそうなターコイズブルーの着物を纏った婦人が、お客さん?生徒さん?に、綺麗なお辞儀をしていた。婦人は、2人の客人を見送る。
婦人も向きを変えて歩き出すと、3メートルほど進んだところでもう一度、客人をちらと振り返る。そして客人の意識の外に自分がいることを確認した直後、婦人は全力で駆け出した。
裾を掴み上げ、前屈みで走る。あの2人にさえ見られていなければ無問題と言わんばかりに脚を動かす。赤の他人をまるで意に介さなかった。
わたしは呆気にとられて、口を開けながら眺めていた。頭が真っ白になった、いい時間だった。




