パートナーの実用的な部分について
パートナーと暮らしていて、ふと「便利だな」と思った。
こんなこと口に出したら破局ものだけど、パートナーの実用的な部分について、私が価値を感じていることもまた事実だ。
例えば、ご飯を作ってくれたり、何かを買ってくれたり、あるいはセックスしてくれたり、させてくれたり。
外面的な魅力だって、私のモチベーションを高めてくれたり、愛おしいと思うスイッチになっていたり(愛おしいという感情が湧く時、私は硬くなった頭皮が柔らかく解れるような感覚になる。それは抱えているストレスを融解させ、私をリラックスさせる)みたいなことかもしれない。
「自分の不得手な部分を補ってくれる存在」といえば聞こえはいいかもしれないが、穿った見方をすれば、私はそれらの“機能”を他者と比較し、総合的な評価を下しているのだ。
そもそもパートナーに限らず、“機能”として便益を感じる他者というのは、手元に置いておきたいもの。
だから私は時々不安になる。
私はパートナーのことを機能として捉え、モジュール的に活用しているのではないかと。愛情などではないのかもしれないと。
もちろん私もパートナーにとって、重宝される機能をいくらか提供しているだろう。それぞれに必要な機能を供給し合うことでバランスが保てるなら関係は続けられる。
でも例えば、食器を洗うことに相手が価値を感じていたとして、家庭に食洗機が導入されたら、私の機能的価値は一つ失われる。もし金銭を相手が負担していたとしたら、むしろ相手方の提供価値となる。
代替可能な価値なんて、なんの意味があるだろう。
ただ一つ言えることは、どんな機能も動かすためにはコストがかかる。それは時間だったりお金だったり労力だったり。どれも「面倒なこと」で簡単に見返りもなく行えることではない。
でも、その面倒なことを相手のためにやってあげたいと思う、ひとつ「心意気」みたいなものがあって。それが愛情なのかもと思ったりもする。
暑い日が続きますね。私の家は駅から少し離れていて、歩いて帰ると汗で衣服が体に張り付きます。不快なのですぐにシャワーを浴びます。




