傘立てに百合の花
友だちが整形をするらしい。
この前連絡をとったときに、ご飯に行こうと言う話になり、「来月はどう」と訊くと、「再来月でもいいかな」ときた。
わたしはどちらでもよかったのだけど、その後の会話に窮したこともあり理由を尋ねたところ、どうやらそういうことらしいのだ。
しばらくは腫れが引かないから気になってしまうのだという。容姿にことさら気を使う、彼女らしい答えだと思った。
「全員整形すればいいのにね」
秋葉原で、イベントのコンパニオンをみて、通りすがった男がなんとなしに発した言葉だ。
「容姿だって商品価値なんだから、同じ給料もらってるならその分ブスは整えないと割にあってない」
と言い、そのあとは聴こえなかった。
整形に関しては、自由だと思う。けれど、線引きがどんどん曖昧になっていくのは恐ろしい。
人の身体にメスを入れる理由は、元来医療上の、病を治すことだった。それが、「自分の身体の気になる部分を"治す"こと」になっていった。
これを医療と呼び始めると、たちまち倫理観は揺らいでいく。ゲノム研究の多くを容認してしまうことになる。障害を持って生まれてくるのは不幸だ。容姿悪く生まれてくるのは不幸だ。運動能力に恵まれないのは不幸だ。凡ゆる能力を最高値まで高めた画一サイボーグが量産されることになる。幸せってこういうことなのか。
むしろ、いま持っているものをお互いが認め合う、魅力を発見し合うことこそが、ヒトという多様性に富んだ生き物が豊かになっていく秘訣なのではないか。
これはきれいごとだ。
わかっているけれど、それでもきれいごとを持って生きていたいと思う。秋葉原の帰り、高架沿いのコインパーキング隣の中華食堂の傘立てに、一輪の百合の花が刺さっているのを見つけて、なぜかそう思った。