親父は本山氏攻め。俺はお留守番
1555年、正月。
俺は12歳になった。
昨年、一条本家の方では、一条兼冬が死去し、19歳年下の一条内基が僅か6歳で家督を継いだ。
来年には彼等の親父である一条房道も死ぬから、当分の間は本家からとやかく言われる心配は無いな。
因みに、史実での一条内基は、俺の子供の元服の際、わざわざ土佐まで足を運んで"内"の字をくれている藤原長者である。
藤原長者ってのは、ありとあらゆる藤原家の一番のトップであると云う事。
左右中大臣だけで無く、関白や太政大臣ですら収まりきれない者が成る感じの地位だ。
兎に角、史実の彼は出世街道を爆速で進んで行くと云う事を知っているので、俺は最大限、知識系スキルと金に物を云わせて、朝廷でも見劣りしない、否、羨ましがられる様な煌びやかな贈り物に、俺様の教養溢れる和歌を添えて送っておいた。
是非とも仲良くしたいものだ。唯一の従兄弟だからな。
二年前に始まった西園寺攻めは、親父の予想以上に上手くいき、僅か一年で宇和郡と喜多郡の全域を支配下に置いた。
何故、二つの郡の全域なのかって?
宇都宮氏が一条家に従属したからだよ。
西園寺氏との決戦で、前線には宇都宮氏の主力と、なるべく機動力のある部隊を置き、乱戦になる直前に部隊を引き返す様にと、出立最後の評定で提案し、認可されたんだ。
宇都宮氏も、一条家が最終決戦までとても協力的だったもんだから、いきなり自分達を置いて戦線から離脱するなんて思いもよらなかったんだろう。
その後の戦況を簡単に説明すると、西園寺氏は、宇都宮氏の主君、宇都宮豊綱を討ち取り、勢い付いて追撃するも、一条家の野伏した鉄砲隊に強襲され壊滅された。
宇都宮氏を利用した釣り野伏です。マンマと引っ掛かってくれました。
ありがたやー。結果、我々一条家は漁夫の利を得れた。西園寺家は降伏し、我等一条家に恭順を示している。
伊予宇都宮家は、史実通り、宇都宮豊綱に跡継ぎが居らず滅亡した。
これで四国の四分の一は取ったんじゃないか?
厳島の戦いの事もあるので、伊予の河野氏とは同盟を結び、本山氏攻めを次の目標に掲げている。
鉄砲や棒火矢の有効性をあれだけ説いていた俺の理論が、素晴らしい結果で証明されたのだから、特に武断派の家臣からの支持が滅茶高い。
味方側の兵士の消耗率が圧倒的に低く、一方的な勝利を得られたお陰で、戦場での死亡率が見直され、もし、"大内氏が毛利氏と厳島で戦争するのであれば"、俺はそれを初陣としても良いと認められたのだ。
元服は普通に許可が降りました。既に領地貰ってるからね。
「始祖であられる教房様、曾祖父上の房家様、祖父の房冬様、そして、房基こと、父上。全てに於いて共通している"房"の文字を頂きとう御座います」
「当たり前じゃな。しかし、房だけを名乗る訳ではなかろう。希望を言ってみるが良い」
親父のネーミングセンスの無さは、毛呂智舟で証明されているから、自分の名前は自分で決めたい。
「それでは、鎌房で」
「ほう、そのこころは?」
「我等一条家は元を辿れば藤原北家。更に其れを遡ると中臣鎌足様にあたります。只、その"鎌"を頂きました」
家臣達がどよめく。親父も、
「大きくでたのぅ……天晴れじゃ!」
と、御機嫌の御様子。
皆の顔を見る限り、成功かな?
だとしたら、今夜は宴会だ。
出来るだけ酒を飲まない様に逃げる努力をしよう。
俺が、
「本山茂宗は2月24日に死ぬから、その時に、本山氏に縁ある朝倉城、本拠地である本山城に攻め込める様に」
と、新年早々から戦争する事を推奨した為、今日の宴会の数日後から戦支度に追われる日々が続く。
俺も、内政面の裏側から支援するつもりだ。
しっかり裏方の勉強をして、文官家臣の苦労を知り、又、彼等からの忠誠心を向上させる算段である。
どうせ俺の初陣は、10月16日なのだから。学ぶ時間はたっぷり有るのだ。