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一条 鎌房(いちじょう かまふさ、1543年 - 1577年)は、戦国時代時代の戦国大名、土佐国司。従三位・一条房基の子。
先駆王や革命・発明王と呼ばれていた時期もあったが、最近は、変態王の渾名で親しまれている事が多い。
一条鎌房
Ichijō Kamahusa
時代
戦国時代
生誕
天文12年(1543年)
死没
天正5年(1577年)※諸説有り
改名
万千代(幼名)→鎌房
官位
正一位・左大臣(生前)
没後、太政大臣を追贈されている
氏族
土佐一条氏
父母
父:一条房基、母:大友義鑑の娘
兄弟
阿喜多(北畠具房室)、
峰子(黒田孝高室)
妻
正室:三条西実枝娘(二女)
子
長男 重房(幼名 千寿丸)
次男 内雅(幼名 歌麿)
長女 凛姫
生涯
天文12年(1543年)一条房基の嫡男として生まれる。天文18年(1549年)父・房基の暗殺を阻止し、家臣からの期待を集めた。10歳になった鎌房は、初陣の許可を願い出たが、房基が若くしてその才を失う事を惜しみ、以後、鎌房は2年間、自己の鍛錬に励んだと伝わる。
天文24年(1555年)に安芸国厳島で毛利元就と陶晴賢との間で行なわれた合戦に乱入する形で初陣を果たし、同年、上洛を果たしている。
朝廷には足を運んだものの、将軍家には見向きもせず、一条本家の従兄弟・内基と楽しく遊んだと伝わる。
その際、裏で、毛利元就を謀殺し、毛利家が献上する筈だった品物を売り捌く事もしている。
又、毛利家と元々仲が悪かった尼子家に、毛利元就の首を送り、罪を擦り付ける事までしている。
弘治3年(1557年)瀬戸内海を挟んだ先で土佐国の統一を成し遂げた父・房基に対して、長宗我部元親の暗殺を指示している。
長宗我部元親は、この事により、一条鎌房に恐れられた初めての人物として有名だが、実際に、鎌房と元親の間に何があったのかを示す資料は残されていない。
同年、陶晴賢親子を殺し、陶氏を滅亡させた鎌房は、6年前の大寧寺の変以前から匿っていた二条尹房や三条公頼を筆頭とする公家達から感謝状が送られた。
その後、三条公頼の紹介の元、三条西実枝の娘を
娶り、京の公家や朝廷との独自の関係を結んだ。
また、この二人は、日本で初めて結婚指輪と新婚旅行を行い、それを広めた。
永禄元年(1558年)には、四国の覇権を巡って、三好氏と争い、摂津に進出するが、房基の援軍が間に合わぬまま、機内の三好氏勢力と戦って、鎌房が総大将として率いた軍勢としては、最初で最後の大敗をした。
三好との争いは翌年の永禄2年(1559年)まで続いた。日本最後の幕府であり、将軍家である足利将軍家と、その要請を受けた本願寺勢力が、一条家と共闘し、翌年の永禄3年(1560年)に本願寺が三好と単独交渉を行い、それに続いて各勢力が和睦を結ぶまで、鎌房が率いる軍勢は快進撃を続けた。
この頃から尾張国において織田信長が台頭すると、北畠氏を織田氏への防壁とする事を考え、妹・阿喜多を北畠家に婿入りさせる様に、父・房基に進言している資料が残っている。
同年、妻である北の方が、父・三条西実枝に宛てた手紙の中に、鎌房からギターを教わったと、書かれていた事から、三線や三味線とは別のルートでギターが伝播したのでは無いかと、専門家の論争を呼んでいる。
永禄6年(1563年)鎌房は四国から船で紀伊に上陸し、奇襲を掛けた。これは、後に織田信長も実践し、発案者である鎌房に見抜かれ、全滅させられている奇襲作戦であり、鎌房自身もこれ以後、大型船による奇襲を行う事は殆ど無かった。
鎌房は、
「紀州討伐は剣豪の愛州宗通を獲得した事が最大の戦果」
と、言う程、個人の武勇にも興味を示しており、
「条約によって制限された戦争では数より質」
と、云う言葉も残している。これは、鎌房が何を思って言ったのかは不明であるが、この事が証明されるのはつい最近になってからである。
なお、この際に、松永久秀を処刑し、平蜘蛛茶釜と九十九髪茄子を自身のコレクションに加えていたが、後に、千利休に贈与している。玉椿は、妹・峰子に渡した後、黒田孝高を通じて、これもまた千利休に贈与されている。
同年、妹・阿喜多が北畠具房と結婚し、北畠氏と正式な婚姻同盟を結ぶが両者の仲は険悪であった。その理由の一つとして、具房の容姿が醜く、阿喜多が嫌っていたからと伝わる。
阿喜多の具房へ対する嫌悪感が最高潮に達した、翌年永禄7年(1564年)阿喜多騒動と呼ばれる畿内・美濃国・尾張国を巻き込んだ夫婦喧嘩が起こった。
阿喜多が兄・鎌房の元へ逃げ出すと、
その時、美濃攻めを行い最盛期を迎えつつあった織田氏への、防壁である北畠氏との婚姻同盟が、破棄されるのを恐れた鎌房は怒りに狂い、阿喜多の首元に刀を突き付けたと伝わる。
鎌房は剣豪達を引き連れ、尾張から北畠領内である伊勢の港へ進軍していた織田氏の船を打ち破ると、織田信長に宛てて苦情の手紙を送ったと伝わる。
又、この年に、鎌房は、京極氏とも急接近を行い、独自の関係を深めている。
阿喜多騒動も翌年の永禄8年(1565年)には、一条鎌房から北畠具房への謝罪により終わりを迎え、阿喜多もそれ以後、多少は大人しい性格へと変わったと伝わるが、北畠氏と上杉氏との合戦では薙刀を持って城を死守する等、男勝りの性格は変わらなかったそうだ。
同年、鎌房は、北畠具房と万里小路輔房と共に、
後醍醐天皇の忠臣であった万里小路宣房・吉田定房・北畠親房の後の三房を真似て、三房の再来を自称した。後に、彼等は、時の帝である正親町天皇からの厚い信頼を得て、正親町三房と呼ばれる様になった。
又、この年に、大友宗麟とも対談をしており、この対談を切っ掛けに、キリスト教に対してもかなりの危機感を抱いたと伝わる。この会談で不戦条約を取り付ける事に成功したのかは不明であるが、傾国の美女・小少将を父・房基の元に送り込み、クーデターを成功させている。この際、山城一条家と名乗るが、世間からは認められず、直ぐに忘れ去られた家名となった。
永禄9年(1566年)鎌房が大政奉還を行い、全ての政治的権力を朝廷に返還した事により、正親町天皇は一条鎌房を忠臣と称した。
当時の朝廷は財力が乏しかった為、一時的に、鎌房とその同盟者である大友氏・京極氏・北畠氏に、彼等の領地を朝廷に変わって治める権限を与える事にした。この為、既に1566年の時点で、関西圏は日本帝国と名目上は化していた事が伺える。これは、鎌房が、日本を一つに纏めたいと願っていたが故に成し遂げられた、一つの奇跡である。
同年、北の方の日記によると、鎌房は、北の方を何らかの衣装に包ませる事を至福としていた事が分かる。
「当時の女性の服装から遥か掛け離れた異形な絹」とのみ記されている事から、鎌房が新たなファッションを流行らせようとして、北の方から猛反対を受けた事が伺える。
永禄10年(1567年)清水寺にて、鎌房が北の方の盾となり、狙撃される事件が起こった。犯人は、甲賀忍者の杉谷善住坊で、竹鋸で拷問を受けながら処刑された。
その後、竹中半兵衛の独断により、善住坊の死体は串刺しにされ晒し者となった後、一ヶ月の間、陰陽師達により呪いを掛けられながら、腐敗したと伝わる。この頃から既に、謀神・竹中半兵衛の暗黒面を伺う事が出来る。
因みに、狙撃後の北の方は、狩野派の絵師を呼び付け、当時の風景を屏風にさせた後に、惚気半分の和歌をその絵に書き加えている。
その屏風は現存しており、次男・内雅を通じて、清水寺に納められた後、国の重要文化財としてそのまま清水寺に保管されている。
この狙撃事件を切っ掛けに、甲賀・伊賀の支配権を確立した一条家は、伊賀忍者に対して、当時では格別の待遇で傘下に入れ、これを恩に感じた百地三太夫は関ヶ原の戦いで一族玉砕しながら、竹中半兵衛の陣から4000もの敵を追い返す事に成功している。
又、鎌房は、この年に、日本史上最大の建築物である万里の長城の建設に着手している。
永禄11年(1568年)刀鑑定士である本阿弥光刹を鎌房に紹介した明智光秀が大出世する。この事に感じ入った光秀は、崩れゆく一条家を最後まで支え続けた忠臣として、手厚く葬られたと、伝わる。
北の方の日記には、この頃から急ピッチで、中国攻めの準備が行われており、黒田孝高が過労で倒れると、孝高の妻であり、鎌房の妹・峰子が鎌房の元へ、夫の休養を懇願したと、書かれている。
永禄12年(1569年)鎌房の長男である重房を総大将とした中国攻めが始まる。
その7年の間に、重房の乳母一族が次々と病死しており、裏で半兵衛か鎌房が関わっているのでは無いかと囁かれている。
天正5年(1577年)冬、生涯を懸けて愛した唯一の妻と、唯一の娘を亡くした鎌房は、直ぐ様、二人の遺体を氷漬けにし、船に載せて、現在のロシア帝国へと向かった。余りにも速過ぎる鎌房の行動に周囲は戸惑うばかりであったが、忍者衆と呼ばれる者達は、率先して鎌房の命令に従ったと云う。
その約500年後の2040年にロシア帝国のマガダン州内で発見された、氷漬けになった鎌房親子と忍者衆の姿は、世界の人々の記憶に新しい。
人物
戦国大名としての一条鎌房の評価は賛否両論があるが、何れにしても、高く評価されている。
3歳にして兵法書を読み漁り、4歳にして独自の戦法を編み出したと言われる。ただこれらは時代が下ってから記されたものであるので信用性に疑問が残る。
房基の隠居については、鎌房と、何らかの取引があったとされたが、房基は己の死後、屋敷を焼く事を命じた為、何があったのかがハッキリと分かる資料が無い。
農業・軽工業・建設業・漁業等の画期的なシステムや道具の発明と、数多もの銀山・銅山の所持により、莫大な金を得た鎌房は、鉄砲・大砲の改良にも多大なる成果を上げており、これらを上手く受け継いぐ事が出来たが故に、伊達政宗は日本だけでなく、朝鮮までもを手中に入れられたと、言われる。
因みに、伊達政宗が天下を取る事は、鎌房と半兵衛率いる秘書官達の間では決定事項となっていたらしく、九州仕置きにて島津氏を打ち破った後にその事を知った片倉小十郎は、後に、一条内雅に対して莫大な金銭的支援を行っている。
一方、夫としての一条鎌房としての評価は古今東西、満場一致で変態と評されている。
此処での、古今とは、伊達政宗によって惣無事令が出されれ、日本政府が成立した後から現代に至るまでである。
しかし、鎌房の草案を元にし、次男・内雅の主導によって作成された日本政府の憲法には、世界でも類を見ない程早くから、男女平等や基本的人権の尊重が書かれており、鎌房が如何に、北の方に対して深い愛情を抱いていたかが伺える。
最近の研究によると、鎌房個人は、知識の偏りが激しく、又、余り国の統治は上手く無かったと云う事が分かっている。一条家が巨大勢力として十年以上もその勢力を保てた理由は、ひとえに、竹中半兵衛率いる秘書官達の過労死寸前の努力の賜物であり、具体的には、鎌房が編み出した軍事国家的な統治システムを何とか運用段階にまで持っていった事だと、専門家の中では言われている。
上記の説が主流になり出してから、発明王や革命王から変態王へ落ちぶれた鎌房ではあるが、彼が現代の日本の枠組みを作った事は変わりがない。
登場作品
編集
小説
姫小路暁斗『 一条兼定に転生したので、御家を滅ぼさない様に頑張ります』
関連ページ
『どうせなら知将になりたかったんだが』
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ロシアで氷漬けになった一条鎌房。
キャプテンアメリカの様に復活する事は有るのか…………
書きたくなったら書くかもです。




