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信長公記


某は大永七年に生まれ、寺に入った。そして、十七の時に還俗し、柴田勝家様に仕え、安食の戦いで弓の腕前を褒められた。

その十年後の永禄七年、美濃斎藤氏の堂洞城攻略では、二の丸の門近くの建物の高い屋根から弓を射た所を、信長様に褒められ知行を増やして頂けた。

丁度、その頃から、某は書記の仕事を与えられ、後に、一条鎌房様から、信長公記と呼ばれる書物を書き記す様になった。


この書物を書き始めた頃、信長様は、当時、波多野氏や赤松氏を従属させている一条家の跡取りである鎌房様を覇王と呼び、


「ならば、信長殿は孫伯符だな」


と、小覇王渾名を呼びあっていた。直後に起こった阿喜多騒動では、一杯食わされたと、烈火の如く御怒りになられていらっしゃいましたが、その後、無事に美濃を取れると、織田家内のピリピリした雰囲気も大分緩和された。


阿喜多騒動の翌年、信長様の北畠奇襲作戦を最大限利用し、北畠家からの厚い支持を得た一条鎌房様は、御自身の父上に当たる一条房基様を隠居に追い込み、実権を掌握すると、足利幕府が滅びた為、日ノ本で群を抜いた朝廷と云う最高権威からの後押しを得て、代替わりの大改革と称した、これ迄日ノ本で形成されていた文化や思想を根本的に覆す様な暴挙に走った。今川仮名目録とは比べ物にならない程の完全に整備の行き届いた法の発布を初め、一条鎌房様は、内政面では歯車の歯の形すら干渉した程の徹底である。最近、飯屋の殆どの畳が固くなり、滞在する時間が自ずと短くなってしまっている気がする。これも、鎌房様が関係しているに違いない。


又、一条鎌房様は、戦の常識も尽く覆された。陸では、とても頑強な建築物や大筒を利用した、最早、戦とは呼べぬ破壊活動を行い、海戦では、巨大な毛呂智船から、此方の攻撃等届かぬ遠距離からの一方的な砲撃により港町を焦土にした。

それに、刀狩り令で百姓と武士との身分差を区別させるのかと思いきや、天皇陛下を頂点とする帝国軍と云った制度により、武家の血縁的な身分制を実質的に廃止した。まぁ、四民平等とは云え、御所へ上がれる殿上人と、それが出来ない地下との明確な身分制度は以前以上に格差が開いた。一条家の権威の源が血筋所以があるが故であろうな。


巷ではと、云うと、特権階級が跋扈する朝廷まで巷になってしまい、流石に無礼千万ではある為、敢えて、その表現を避けるが、一条鎌房様は、我々にとって壁の向こう側の世界では、英雄だの、名君だの叫ばれているが、実際は、鎌房様を英雄視する者でなければ、生きる価値が無いと、鎌房様の認知外の領域で次々と処分されてしまう。一族連座所か、村ごと炭と化した事もあるらしい。この思想統制を強行しているのは、一条鎌房様から絶大な信頼を得ている竹中半兵衛が有している秘書官及び彼等の配下である秘密警察と云われている。秘密警察とは、絶対的な一条鎌房様の信奉者で、日ノ本の各地に点在し、普段は、村人なら村人らしく、町人ならば町人らしく、軍人ならば軍人らしく生活している為、実際に豹変するまで、正体が不明で規模すら掴めない者達だ。監視される恐怖だ。この監視される恐怖に気が狂い、武力をもって逆らった者は、数多く存在した。彼等は、血筋や武功関係無く、尽く排除された。有名な所では、荒木村重が一族郎党暗殺された事件だろう。これが有名なのは、影で一条鎌房様自身が指示した等の暗躍していた可能性があるからだ。荒木村重が暗殺された直後に、わざわざ犯行声明を出す山賊等聞いた事がなく、国家規模で創り上げられた架空の山賊と、それに対する大規模な戦争だ。曖昧なまま時間が過ぎてゆき、荒木村重の死から一年経つと、元々荒木村重が治めていた土地は全て、秘書官である黒田官兵衛の直轄地と化した。某は、きっと黒田官兵衛がこの事件の裏側で何らかの策略を施し、功を立てたが故だと睨んでいる。この様に、へいせーのきょうかしょで、一条鎌房様の虚構を刷り込まれた者達を量産し、日ノ出新聞とやらで世論を操作する一条家が天下を治め続けると思っていた。


その未来から遠ざかったのは、永禄九年のとある出来事が起こってからだ。しかも、これは、壁のこちら側、つまり、東で起こった。


軍神の下に、後の暴君が突如として現れ、松田康郷とやら云う若武者の首と大和田城を手土産に、傘下に入ったのだ。


その後の上杉氏は、余りにも一方的な勝利を収め続けた。


五年後には、いつの間にか、北条氏を滅ぼし、佐竹氏や蘆名氏を初めとする諸大名達を傘下に加えた。


その翌年には、武田氏と本格的な対立をし、次の年には、武田氏は滅びた。


確かに、騎馬は強い。

馬は人や物資をより遠くに、より速く届けられる。加えて、突撃の威力は大いに恐れるべきものである。


しかし、弾丸が飛び交う戦場では、近づく事すら困難だと、云う事を、武田氏は連敗の中で気付く事が出来なかった。


某は、信長様が、一条鎌房様に、信玄公の死を聞いたと云う事を、お聞きするまで、上杉氏の銃弾へ向かって、騎馬隊で突撃する命令を出しているのは信玄公であり、戦法の時代が変わった事を理解出来ない位、耄碌されたと思っていた。


しかし、無謀で無能な命令を下しているのは、信玄公の跡取りである、武田勝頼殿であると聞いた頃には、その情報は織田家にとって遅過ぎた。


その頃には、織田家の本拠地である岐阜城は勿論、尾張国すらも上杉氏に奪われ、信長様が一条鎌房様にお世話になっている状況で、尾張の織田家は滅びたと言っても過言では無かったのだ。


岐阜城の決戦は、信玄公の亡くなり、武田氏が滅びた、僅か二年後の出来事である。


その翌年には、万里の長城と、京極氏と北畠氏の二家を掛けて、双璧と呼ばれたの巨星の一人、北畠具教殿がお亡くなりになった為、北畠氏も弱体化してしまった。その影響も有り、共産主義と呼ばれる思想も壁の内部へ侵食して行き、北畠氏・京極氏連合軍と、上杉氏との間で緊張が走った。


信長様や某も、壁の崩壊と共に、畿内へ侵入した者である。憎き上杉氏のお蔭で、一条鎌房様の庇護を受けれたのは、一生の不覚である。


この御恩は必ず…………と、思っていた、その翌年、信長様の御言葉をお借りすると、


「この世界から笑顔が消えた」



一条鎌房様が、日ノ本を去ったのである。




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