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鎌房無双の裏側の紹介


目が覚めた。反射的に、周囲を確認しようと首を……


「あにゃうらゃ?」


何処だと、呟いた筈だが、声が可笑しい。それに、俺の身体の感覚がおかしい。


「おっかぁ!茂吉が起きたべよ!」


何だ、この平たい顔の種族は!?此処は何処なのだ?大体、茂吉とは何の事だ?


「おやまぁ、泣かねぇ良い子だべぇ」


マルス・ラガこと俺が、百姓の赤ん坊として産まれた事を理解出来たのはそれから13年後であった。


それは、俺が住む村に在る寺で分かった事だ。

他にも、今が天文22年であり、更科八幡の戦いと呼ばれる戦いが遠い国であったらしい事を知った。長尾景虎が北信濃国人衆を支援して、武田晴信と戦ったものらしい。


俺は13歳の若造で有りながら、寺で学問を学ぶ内に神童として村の中では持て囃されている。


しかし、俺の暮らしは、否、この村の人々の暮らしは酷い。文明も余り発達して居らず、領主と呼ばれる者からの理不尽な圧政を受けている…………


俺の理想の社会を築く為の地盤は有りそうだ。



そう思った翌年、更に好都合な事が起こった。寺の和尚曰く、領主の荻野秋清が殺害され、黒井城に新たな領主が入った。上が変わるのはどうでも良い事であるが、戦争が起き、村人が死んだ事が大切なのだ。圧政を強いてくる領主からの徴兵による死因。一家の大黒柱である男性が死に、彼等の生活は成り立たなくなり、より領主に対して憎悪を抱くであろう。


まぁ、そんな他人の不幸話もどうでも良い。それよりと、俺は俺同様に徴兵された農民の次男坊や三男坊に社会主義の素晴らしさについて語り、同志を作った。


村で神童と呼ばれていた事は既に伝わっており、その噂のお陰で俺の話を聞いてくれる大人も居たのかも知れない。


だが、此奴等には教養というものがすっぽり抜けていた。

その為、高尚な事は伝わらなかったが、実利的な話を延々と聞かせれば直ぐに頷く。その為、以前とは要領がことなったが、経験を活かし、コツを掴み出してからは、同志の数は爆発的に増えたを


そして、俺に命を預けると言った者達を纏め、軍団が駐屯している寺を襲撃した。800人中、300人は俺の方に着いた時点で準備を整え、400を越えた時点で蜂起する事を決行したのだ。


400対400。兵数も装備もさほど大差が無い。


然しながら、士気と戦術に関しては格が違う。幸いながら、過去に俺は市街戦を行った経験が有り、今回の様に寺という複雑な構造の建物を利用する機会があったのだから、要領は掴んでいる。


そして、此方には、社会主義と云う素晴らしい思想の為にならば命を投げ打ってまで突撃する優秀な駒が居る。


一方、彼奴等は、上から命令するだけで士気ガか無い。しかも、自分の城と籠城する訳では無いので、それ程良い指揮は出来ていなかった。


まぁ、夜襲したが故に、情報も武将達も混乱していたからかも知れないが。



この様にクーデターを起こした俺は、情報が伝わらない様に寺の中の全ての人間を殺し、兵を纏めて加賀へ向かった。



翌年、年号が天文から弘治に変わった。厳島と云う場所で、一条鎌房と云うかなり高貴な身分の若い貴族が、陶晴賢に戦争を仕掛け、直後、上京したらしい。この時、それ程、この男を調べておかなかった事を後悔する事となるとは思いもしなかった。



加賀は農民が治めていると聞いては居たが、実質的な支配者は坊主共であった。


「クソが……」


巫山戯るな。一向宗とか云う糞野郎共が俺の駒を扇動しやがる。それに、本願寺とやらの高僧とほざく坊主による間接支配だ。この国は駄目だ。


仏など良くわからん存在を盾に傍若無人な行動が目立つ。モラルだけで無く政治も坊主も腐ってやがる。この国は駄目だ。


そもそも、民衆自体が教養が無く、宗教とかいう非効率且つ非生産的なものを信じている事自体が問題なのだ。国民がここまで腐っていれば、自ずと国も腐るであろう。


故に、この国は駄目だ。駄目だ。駄目だ。駄目だ。駄目だ。駄目だ。


「駄目だ駄目だ駄目だ駄目だ駄目だ駄目だ駄目だ駄目だ駄目だ駄目だ駄目だ駄目だ駄目だ駄目だ駄目だッッ!!!」


もう良い。民衆を扇動するのは辞めだ。此奴等には、素晴らしい社会を享受する権利は無い。


だが、此処には兵が居る。


そして、この俺が居る。




我が国の革命を経て、急進的な革命ではなく、「社会主義のバツェレン教化」を標榜するとともに、現世を肯定的に捉える受肉に基づくバツェラン教社会主義運動を始めた馬鹿が帝国に居た。


実質的な指導者は人間精神の内面を「掘る」ことを重視した結果、労働者のための教育に傾倒した為、宗教と社会主義を混ぜ合わせる事に失敗したが。


だが、俺が、例の一向宗とやら云う神か仏か分からん存在を崇める宗教と、至高なる社会主義を掛け合わせ、この兵を操る事が出来れば、この国は俺のモノだ。




そして、四年後。


唯一、加賀で幸いであった事は、農民と云う平民である俺でも、武士や貴族等に匹敵する高水準な教育を受ける事が出来た事だ。流石、寺だ。腐っても鯛と云う言葉も有るが、どちらかと言えば、腐っても寺の方がしっくりくるな。


勉学に励む事は当たり前であると、真面目に学び続けていたお陰か、若いながら戦争を指揮する最下層の立場に食い込めた。


が、コレは罠だった。加賀に居る上の奴等が戦場に出て死にたくないが故に、本願寺の高僧とやらから、摂津に呼ばれた。理由は、三好に仏罰を与えよとの事らしいが、要は戦争だ。


摂津に着くまでの間に、本願寺の高僧から話を聞いた。


その内容は、加賀は本願寺の支部的な役割でしか無い事。


その大元の本願寺自体は将軍家と仲が良い事。


今の将軍が三好の討伐令の檄文を各地の大名に対して放っており、それを受け取った土佐一条家に加勢すべしとの事だ。


そう、加勢すべしとの事だ。



命令は、加勢であるのにも関わらず、戦場に赴いた他の坊主共は馬鹿なのだろうか、一条家に乗せられて敵の実質的な正面に布陣した。それもほぼ毎回、何処の戦場でもだ。


一条家の方は次々と戦果を上げている。そりゃそうだ。三好が寡兵で伏兵している場所に、逆に強襲を仕掛けているのであるから、三好もたまったものでは無いだろう。


一方、一条家の口車に乗せられた本願寺は、敵の本隊に正面衝突し、延々と膠着状態である。それ故に、華麗な戦果は上げれない。更に、一条家ばかりが戦果を上げ、将軍家からよく見られている事に対して焦って、俺の忠告も聞かずに悪戯に兵を消耗するから、悪循環だ。挙句の果てには、俺の指揮が悪いとまで言い出した。


更に四年後、西三河に行くように言われ、松平家康と対立した。一年間、よく持ったものだ。真宗高田派の桑子明眼寺を焼き打ちし、菅生満性寺を占領する等、それなりの功績を上げた俺は、本多正信、正重兄弟から慕われた為、彼等を支配下に置いて、二年後の永禄9年には伊勢長島へ赴いた。この地を治める大名は実質的には、名君・北畠具教であり、潜伏する事すら中々難しい。しかし、陰で織田から支援を得ている我等は、着々と蜂起の準備を整えている。



「クソが……」



この年、久々に一条鎌房と云う名を聞いた。それまでは、一条房基と云う無しか聞かなかった為、鎌房と云う人物が親を上手く隠れ蓑として使っていたとは思いもしなかった。成程、ここまで一条家が大きく発展したのは鎌房の存在が大きいからであろう。


調べていく内に、一条鎌房と他の大名と呼ばれる者には、圧倒的な差がある事を理解した。


まず、一条鎌房は大砲を主軸とした戦争をしており、馬の殆どを兵糧や火薬などの物資の輸送に利用している。そして、歩兵部隊に鉄砲を所持させている割合が物凄く高い。更に、相当優秀な参謀将校が複数居るのであろう。大まかなかな優れた戦略を一条鎌房が決めれば、その手足の如く、ほぼ完璧な戦術的勝利を各地域で収めている。武士に産まれてさえいれば、その一員として一条鎌房に近づく事が出来たのであるが。


一方、他の大名達は、未だ槍を担いで騎馬隊による突撃を主軸とした戦術を採用しており、鉄砲の普及率は低い。唯一、我々の支援者である織田信長は中途半端な発展途上の状況だ。


で、その一条鎌房だが、万里の長城計画と呼ばれる壁を建築し始めた。これは、一条鎌房が織田信長と結ぶ事を恐れた事を切っ掛けに発生した阿喜多騒動への反省の意味も兼ねて、一条鎌房が率先して計画を立て、北畠具房が実行している物で、東国からの侵略を阻むだけで無く、此方からの東国へ発信する情報や、連絡を遮断し、東国の諸大名が朝廷に介入する事を阻む役割や、一条家が北畠家を見限り織田と手を組む事を防ぐ役割も果たす。


2年前ならば、阿喜多騒動が起こり、北畠家と土佐一条家の仲は険悪となっており、工作する事は容易であったが、例の一条鎌房が即座に和解し、以前より更に頑強な同盟関係を結んだ故に、全く動けなくなってしまったのだ。


噂によれば、祇園社にて、一条鎌房と北畠具教の会談が行われたとか。お陰で、我々の動きがほぼ丸裸にされ、長島からは撤退せざる得なくなってしまった。何故なら、壁を壊そうとしても、その前の塹壕に阻まれるからである。一条鎌房はコレを思い付いたのか、それとも、俺の様に…………


兎も角、俺達は壁が出来上がる前に越中に逃げ帰った。俺が何故、故郷とも言える加賀では無く、越中を選んだのかと言うと、大小一揆よって加賀を初めとする北陸地方の門徒は本願寺派遣の代官による直接支配下に置かれる事となったが、顕誓の兄で安養寺御坊住持実玄は大一揆に与したために越中は本願寺の直接統治とはならず、本願寺法主を頂点とする支配体制ではあるものの、ある程度の独立性を保っているからである。とは言え、勝興寺と瑞泉寺の二大巨頭による支配が行われているが。

それと、雑賀衆の存在も大きい。永禄6年に一条鎌房が本願寺焼き打ちし、根来衆は一条家へ帰順したが、鉄砲を扱う雑賀衆は一時的に加賀へ逃げ、そして、丁度、俺と同じく越中へやって来たのだ。


「……………………です」


本多正信は物凄く使える秘書官だな。上杉輝虎が小田氏治を攻めたらしい。


「行くぞ」


城内の人間の売買がされていると聞き付けた俺は、駒を得るべく越後の坊主共から掠め取った金を叩いて、奴隷共を買い取った。


一ヶ月後には、上杉輝虎の後を追い、一部の雑賀衆と越前・加賀の共産主義者達の軍勢を引き連れ、下総の大和田城に向かった。松田康郷とか云う若武者が率いる二個中隊(100騎程)の騎馬隊に尽く銃弾の雨を降り注ぎ、大和田城を占領した。勿論、義に厚いと言われる上杉輝虎に会う為だ。上杉輝虎に俺の考えている義を説けば、必ず共感してくれる筈だ。




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