戦国大名・一条房基
父としてでは無く、戦国大名として。
1566年、正月。
正親町天皇は歓喜した。
今三房を自称する忠臣の内の一人、一条鎌房が目出度く土佐一条家の家督を継ぎ、代替わりの大改革と呼ばれるものを行ったのだ。
足利尊氏から続く室町幕府は滅亡し、一条房基を初代とする土佐一条幕府が開かれたのも束の間、二代将軍・一条鎌房は、大政奉還を行ったのだ。
此にて日ノ本の権力は朝廷に集中し、以後、武家政権である幕府は成立しない事を、全ての武士の代表として帝に誓ったのだ。
これは、棚を作った織田信長、餅をついた豊臣秀吉、棚から牡丹餅の恩恵を受け、江戸幕府を作った徳川家康の登場を阻止し、武家の数を源平合戦の時代並に減らそうと画策した鎌房の拙い思想が表現されているが、帝はそんな事は知らない為、ただただ忠義と評されている。
代替わりの大改革はまだまだ続く。
鎌房自身が商人と非常に付き合いが深い故に、定番の"代替わりの徳政令"は行わなかったものの、御所の増築や貨幣改鋳、貴賤問わず参加可能の大茶会やライブと云う世にも奇妙な音楽祭が行われた。
鎌房は、自身の商人に対するコネを用いて、二週間前から京や堺で、貴賤問わずと云う事を宣伝していた為、当日の祇園社には、数万人規模の人だかりが出来た。
因みに、祗園社は、鎌房が復興させたから、存在するのだ。
鎌房は、知り合いの堺の商人に一枚噛ませて、屋台と云う簡易的な露店を大量に並ばせた。
庶民にも良心的な値段で食べ物だけでなく、菓子や玩具が揃っていた華やかな屋台通りに、人々は驚き、唖然とし、そして奮発したらしい。
鎌房に対する民衆の求心力は凄まじいものとなった。
と、同時に鎌房が崇拝している正親町天皇及び、朝廷に対する民の信仰心と尊敬の念は益々強まったと云う。
結局、親父は隠居した。と、云うか無理矢理させた。だが、俺には大きな痛手だった。何故なら、
「ほう……これは!」
「日本地図です」
俺の時代のな!
智力が吹っ飛んでいるので、高一の地理の授業中、ボーッと見ていた日本地図の記憶が、超絶繊細に思い出せるのだ。
それを長い年月を掛けて、書類に纏めた物だ。これは物凄く使える。
なんと言っても、敵の地形や隠し道等を封じ込め、地の利を相殺させる事が出来るからだ。
若気の至りで、調子に乗って摂津に攻め込んだ、三好討伐の時の反省を活かして書いたんだよな。
あの時、俺の準備不足のせいで死んでいった者達の事を考えると、飽きた等とはほざく事など、余りに失礼で申し訳無くて、出来なかった。
その経験をしていない父上にこの地図を渡すのは、些か違和感と、云うか抵抗がある。
「父上がもし、どうしても我慢ならない事があれば、この地図を使えば、日本の何処かに居る俺を、草の根を掻き分けてでも探し出せます。その時に殺すか、否かは任せます」
「ふん!」
親父は鼻を鳴らした。気に食わないらしい。俺も気に食わねぇよ。
「どうやって作った」
「それは秘密ですが、ほぼ完璧な筈です」
親父の問いは続く。
「沢山持っているのか?」
「これ取られたら危ないので、父上に渡した物だけです。俺は、頭の中には入っているので不要ですし」
うんうんと、頷いた親父は、
「しっかり危機管理をするのだ」
と、言って、隠居宣言を下した。
最後に素直になって、俺の事を認めてくれたのだろう。良かったと、少し気が抜けた俺に、親父は爆弾発言を投下した。
「宗麟殿と争うのは何時じゃ?」
「……ッッ!!!龍造寺氏に勝ち、島津に負けて、弱体化した後です。伊東の弱体化を俺が塞いでしまった事もあり、どう転ぶかは分かりませんが」
予め考えていた事を口走る。変な事は言ってなかったよな?本当に、最後まで気が抜けない、危ない戦国大名だよ。
阿喜多を北畠家に送ったから、史実の伊東崩れは起こるかどうか不明だ。
多分、起こらないであろうし、そこは島津が何とかするんじゃないだろうか。
まぁ、島津の事だ。
阿喜多如きでは比べ物にならない位、大惨事を起こして、俺に史実の方がマシだっただろうなと、島津に恐怖を抱かせる事をするだろう。
某戦国シュミレーションゲームでも、ほっとけば九州統一してたからな。島津には期待大ですよ。
あの大陸に上陸する気はサラサラないがな!怖過ぎて!戦うのは親父に任せるよ。俺は京都でのんびりしておく。でも、その頃、親父生きてるかな?




