権謀術数(満面の笑み)
明けましておめでとうございます。今年も宜しゅう御願い致します。
1556年、正月。
「父上。本山氏討伐と新年明けましておめでとうございます。今年も宜しゅう御願い致します。
土井宗珊にも宜しく言っておいて下さい。
さて、私は今、京都におります。此処、京の都は、素晴らしい。感無量で御座いますね。
帝も一条本家の女子衆も良しなにして頂きました。勿論、官位は受け取っておりませんし、父上の官位を強請っておきました。
父上も、いい加減、土佐・伊予の権守を受け取って下さい。
毛利元就を殺したので毛利は弱体化しました。
尼子に首を渡した後、三好氏と尼子氏は同盟を組んでいると嘯いておきました。
両者は否定していますが、実際に毛利元就の首がある故、尼子も三好氏も同盟を組まざる得なくなって両者の間に緊張が走っております。
双方、共に身の覚えが無いのにも関わらず、襲撃をしたと、京で揶揄されております故。
ですが、先日お伝えした毛利本家の子、三本の矢は皆生きておるので、私の想定したいた程、毛利は弱体化しておりません。
引き続き、陶晴賢と尼子氏の東西挟み撃ちにあってボロボロになって貰うつもりです。
私も来年から、逆賊陶晴賢の討伐連合を率いる総大将として表向きは毛利氏と河野氏と共闘します。北は私にお任せ下さい。事実、小早川隆景も吉川元春も気付いているとは思うので、暗殺なり粛清なり致します。
ですから父上には、陶晴賢討伐が終わる前に、朝廷に手回しして、毛利元就の敵討ちを許可する勅令を毛利氏に出して頂きとう御座います。
勅令となれば毛利も戦わざる得ないですし、瀬戸内海側の三好勢力は毛利に任せて、父上は四国の南側から三好家を追い出して欲しいのです。
南については、基本的に父上にお任せしますが、一つだけ私のお願いを聞き入れて下さいませんか?
今年、齢十八の長宗我部元親の殺害。
大切な事なので二度記します。
長宗我部元親の殺害。
これだけは必ず行って下さい。どんな手を使ってでも構いません。毒殺なり火縄銃による狙撃なり、難癖付けて斬首刑なり。兎も角、長宗我部元親だけは、どうか殺して下さい。
今は姫若子と貶されて呼ばれておりますが、何れ、奴は一条家を滅ぼす蛮族と成ります。禍根は残さぬ様に。源頼朝を生かした平家と同じ過ちを犯さぬ様にお願い致します。
その長宗我部に攻め入る為の大義でありますが、長宗我部氏が、香宗我部秀通に実子が居るのにも関わらず、長宗我部国親の三男、親泰を養子に入れて、香宗我部氏を乗っ取ろうと画策しております。
香宗我部秀通とその実子を此方側に手引きし、彼等の正当性を掲げて、長宗我部氏を滅亡させて下さい。出来るのであれば、断絶も宜しく御願い致します。
先々代の事等を考えて手を緩めては成りませんぞ!今は戦国乱世、過去の事など忘れてこの土佐一条家の為にご英断宜しく御願い致します。
ヴァイ 貴方の愛する息子より……じゃと。なんじゃ、この言葉遣いは。舐めおって」
房基様は御立腹の御様子である。これはいかんと、儂、土井宗珊は、声を掛けた。
「ですが殿、若様は敢えて傾奇者を演じる事によって、殿からの……」
言い切る前に、殿から怒鳴られた。
「分かっておるわ!それに、彼奴が、"絶対"とここまで念押しに殺してくれと、具体的に名前を挙げてまで頼み込む事は相当珍しく、我等に危惧せよと言っておる事もじゃ!じゃが、和歌はあれ程まで良う出来る癖に、文になれば言葉が荒れるのだ。よう分からんぞ」
確かに殿の仰る通りだ。若様は、それだけでなく、茶器や舞踊にも教養を示され、笙の演奏も中央の者に負けないくらい御上手だ。其れなのに何故なのだろう。
「それは……此方が素なのでしょう」
「尚悪いわ!」
我ながら名推理だとは思ったのだが怒られてしまった。
それは兎も角、殿の仰る通り長宗我部氏に対してどう当たるか決めなければならない。恐らく、若様は我々に期待はしておられぬであろうから、影丸とやらに長宗我部元親殿の暗殺を命じているだろうが。
「殿、如何されますか?」
「うむ。彼奴の言う事ばかりに従うのは癪だが、香宗我部氏は元は我等一条家の家臣の家。救ってやらねば成らぬだろう。無論、彼奴が恐れている長宗我部国親・元親親子は討つ。先祖からは疎まれるであろうが、この一条家と我が子の為じゃ。あの世で儂から説明すれば祖父も分かってくれる筈じゃ。彼奴の陰陽道は先見の明じゃとな」
「はっ!それでは」
「うむ。戦の支度をせい!」
「はっ!」
子や孫の代への憂いを断つ。
その為にはどれだけ恨まれようとも、鬼になって国親の首を取ると、房基は呟いたのであった。
一方、その頃。
毛利元清を初めとする毛利元就の側室の子供達は、一条鎌房からの支持を得て、毛利隆元と対立していた。
未だ4歳である元清にそんな政治的反乱の意味は分からず、一条家の調略の手が罹った家臣達に良い様に使われていた。
毛利にとっては逆臣にあたる彼等の中には、毛利元就によって強制的に隠居させられ、挙句に養子の元春に家督を奪われた吉川興経やその忠臣、小早川繁平や田坂義詮等が居る。
歴史を知って居る俺は、1550年に毛利元就によって一斉に粛清される筈の彼等を、土井宗珊の名で文を書き、一条家で匿うからと、土佐に逃がしたのだ。
もう、これが土井さんが怒る怒る。俺が何とか説得出来たから良かったけどさ。本当に大変だったんだぜ。
それでも、5年の年月を経て、漸く彼等が役立つ時が来た。
俺達を大阪湾で降ろした毛呂智舟は、何故、俺が帰るまでそのまま停泊しなかったのかって?
それは、再び堺で商いをする為に土佐で商品を再調達したり、後奈良天皇の崩御と、新たに皇位を継承された正親町天皇に挨拶をする為の贈り物を運んだり、途中で安芸に寄って匿っていた彼等を元の土地に帰す為に彼等を運ばねばならなかったからだ。無論、1557年に崩御なさる事は知っていたので、無理矢理、瀬戸内海に戻るのを長引かせたのだ。
毛利元就と同じタイミングに乗っていないのは、見つかると困るからである。
つまり、何事にも訳が有るのだ。
伴天連の船と帝にとやかく言われるのも嫌だったからな。
まぁ、元就亡き後、彼等が何処まで内乱を発展させてくれるかは、俺に対する恩義がものを言うだろう。毛利元就亡き毛利家は、尼子晴久や陶晴賢等の外敵に含め、内部にも危険を孕んでいる。出来るだけ早く没落してくれ。そう思いながら、逆賊陶晴賢討伐連合軍を率いる俺であった。




