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古代ギリシャの物語シリーズ一覧

古代オリンピック短編 『光る風のように ―オリュンピア第13歌によせて―』


 暗い通路を抜けた瞬間、彼はあまりのまばゆさに目を細めた。

 真正面から射す力強い朝の光に照らされ、競技場スタディオンが輝いて見える。

 天地をとよもさんばかりに響くのは、周囲をとりまく土手に集った人々の大歓声。

 このオリュンピアの競技場の土を己の足で踏みしめ、人々の喝采をその身に浴びることができる男は、ギリシャ全土ヘラスにほんの一握りしかいない。


「クセノポン、貴様には負けぬ」


 不意にそんな声が聞こえて、彼は振り向いた。

 黒髪のヒッポクレアスが、睨みつけるようにこちらを見ていた。

 一糸まとわぬ肉体に美しく陰影が浮き出たさま、特に逞しく盛り上がった大腿部の筋肉は、彼もまたクセノポンに勝るとも劣らぬ走者であることを示している。


五種競技ペンタスロンでは、不覚にも後れを取ったが……今度は、そうはいかぬぞ」


「いいや」


 クセノポンは、決勝地点を示す白い石の線に視線を据えながら言った。


「ゼウス神は、俺を選んでくださる」


 今は、オリュンピア競技祭の四日目。

 二日目に行われた五種競技の部で、クセノポンはすでに優勝を勝ち取り、勝者の証である赤いリボンタイニアを額に巻かれる栄誉を受けていた。

 敗れたヒッポクレアスは涙を流しながらその場を立ち去っていったが、一日かけて気力を高め直したとみえて、今日、ふたたびクセノポンの横に立っている。


「驕るなよ! たとえ貴様が名高きオリガイティダイ一族の男であろうとも、ゼウス神は、より努力した者に栄光を与えてくださるはずだ。クセノポンよ、俺は、貴様を破ってみせる!」


「驕る?」


 クセノポンは、ふしぎそうに呟いた。


「この俺が?」


 これまでに故郷コリントスで積んできた、厳しい鍛錬の日々。

 血反吐をはくような思いをしたことも、人に隠れて涙を流したことも数知れずあった。

 優しいクロカレと逢うこともできぬさびしさを堪えて、より速く、強くと、ひたすらに己を鍛え抜いてきた。

 すべては、故郷コリントスに名誉をもたらすため。

 そして、これまで幾多の競技祭で優勝者を輩出してきた、オリガイティダイ一族の名誉を守るため――


「努力、と言ったな。ならば、勝つのは俺だ」


「貴様!」


 そのとき、審判団によって朗々と選手の名が呼び上げられはじめた。


「テッサロスの子、クセノポン!」


 競技場をとりまく土手に隙間なく立ち並んだ人々が、ひときわ大きな歓声を発した。

 聖域中にどよめきわたるその声は、戦場の物音を思い出させた。


 クセノポンはゆっくりと進み出て審判団の前に立ち、最後の宣誓をすませ、東側の出走地点へと歩いていった。

 昇る陽を背に、白い石の線の上に立つ。

 目の前には、選手たちと走路とを隔ててぴんと張られた一本の紐がある。

 もし、出走前にこれに触れれば、鞭打ちの刑罰を受けなければならない。

 石に刻まれた二本の溝に、左右の足の指をかけ、両腕を前に突き出して身構える。

 眠りに落ちる男の耳から恵みの雨音がやわらかく遠ざかってゆくように、今、すべての声が遠ざかり、目に映るものはただ目の前の紐と走路、彼方に見える決勝地点のみとなった――


 審判の声がかすかに響き、同時、紐を張った棒が倒れた。

 クセノポンは飛び出した。

 腕を振り上げ、腿を高く上げて走る。

 軽やかに、飛ぶように、一陣の光の風と化したかのように。

 目の端にちらちらと見えるのはヒッポクレアスの手の指。

 色の渦に呑まれたような大観衆の姿があっという間に後方に流れ去り、決勝地点が近づいてくる――


 彼は全速力で1スタディオンの距離を駆け抜け、決勝地点をずっと通り過ぎてからようやく速度を緩め、立ち止まり、振り向いた。

 そして、怒涛のような歓声が自分の名を呼んでいることに気付いた。


 クセノポン! クセノポン! クセノポン!


 厳しく引き締まっていた男の顔に、はじめて、輝くような笑みが浮かんだ。

 ひとつの大会で二種目を制覇するという偉業を、彼は成し遂げたのだ。


「恵み深きゼウス神よ、感謝いたします!」


 右手を天に掲げ、彼は声高らかに祈りを捧げた。

 決勝地点にくずおれて、ヒッポクレアスが泣いている。

 クセノポンは、黙って目をそらした。

 男の敗北に、どのような言葉も、慰めの行為も意味がないことを彼は知っていた。

 もっと速く、もっと強く。

 神に祈り、ひたすらに己を鍛え、高めること。

 勝利の栄冠は、ただ、その先にしかない。


 紫の衣を揺らして審判団が近づいてきた。

 クセノポンは誇らかに胸をはり、人々の喝采を全身で受け止めながら、その額に赤いリボンタイニアを巻かれた。

 競技祭の五日目、このタイニアを持つ者は、聖なるオリーブの冠を与えられる。

 兄弟姉妹、父と母、一族の者たち、そして優しいクロカレの表情が心に浮かんできた。

 涙が浮かびそうになって、彼は慌てて目を閉じた。


 一族の誉れとして新たに書き加えられたこの勝利を、オリガイティダイの者たちは、この上なく喜んでくれるだろう。

 そしてきっと、あの名高い詩人ピンダロスに頼んで美しい祝勝歌をつくらせ、彼が勝ちとった誉れを、永遠のものとしてくれることだろう。



※史実とされていることにもとづいたフィクションです。


※「描写力アップを目指そう企画」においても、同作品を公開しております。


主な参考文献 

・ピンダロス(内田次信訳)『祝勝歌集/断片選』京都大学学術出版会 2001年

・パウサニアス(飯尾都人訳)『ギリシア記』龍渓書舎 1991年

・桜井万里子・橋場弦『古代オリンピック』岩波書店 2004年

・西川亮・後藤淳『オリンピックのルーツを訪ねて』共同出版 2004年

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― 新着の感想 ―
[良い点] 古代ギリシアの風習、雰囲気をよく伝えていて古代オリンピアの風景が見えるようである。 [気になる点] スタジオの観衆の描写が少ない気がします。 野郎だけで書いてても楽しくないかもしれませんが…
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