【隊長は休暇期間4日目】
「基礎は無視していいのでしょうか?」
朝の兵舎で訓練を見ていたら、兵士に尋ねられた。
「そんなことはないと思うぞ」
「しかし、魔境の辺境伯はほとんど戦闘の訓練をせずに魔境で生き残ったと聞きました」
「確かにそう見えたけど、実際のところはわからないぞ。キミー!」
ぼやっと立って剣を構えているだけのキミーに声をかけた。
「……なにか?」
ちょっと反応は鈍いが、ゆっくりこちらにやってきた。
「あまり立ちながら眠るのはよくないと思うぞ」
「いろいろと仕事が多いんですよ。これくらいは許してください」
「だからこそ、ベッドで眠ってくれ。それより、マキョーくんの実家や過去について調べていただろ? 彼はまるで戦闘の基礎を学ばなかったのか?」
「いえ、そんなことはないはずです。成績は悪かったのですが、一通りは学んでいましたよ。田舎の冒険者ギルドのことなので王都ほど高度なことはしていませんでしたが……」
「だそうだ。そんなに基礎は捨てたもんじゃないよ」
「そうですよね!」
兵士は納得して訓練に戻っていった。
「まぁ、魔法の才能は全くなかったんですけどね」
キミーがまだぼーっとしながら俺にだけ話した。
「基礎だとか応用だとかそういう分け方は意味のないことなのかもしれない」
「へ? どういうことですか?」
「結局のところ、基礎や応用を学んでも、どういう環境で何に気づくのかの方が大事な気がする。少なくとも魔境では、基礎も応用も全部使うということがわかっている」
「つまり環境が気づきを育てるということですか? つまり、学びの質が変わってくるという……? え? 眠い時に複雑なことを言わないでくださいよ」
「お茶でも飲みながら話すか」
「お願いします」
訓練場を出て、食堂でお茶を飲む。寝ぼけ眼のキミーのために厨房にいた料理人がわざわざ深入り茶を出してくれた。
「基礎訓練はどこでも学べるようになっているはずなんだ。例えば、ただ走るという動作一つにとっても、魔境の住人たちは全くスピードが違う。馬も追いつけないだろ?」
「確かに、特使のジェニファーさんも魔力と連動した動きを常にしていましたね」
「それは必要に応じて、生活の中で培ったものだ。王都の生活であれほど速いスピードは要らない。だから、速くする必要もなかったから、それだけ考えにも至らなかったんじゃないかな」
「ですが、日々冒険者は探索に出かけていますよ。魔境の住人と同じような考えに至ってもいいじゃないですか?」
「冒険者はそこまで深刻に考えてなかったんじゃないか。もちろん魔物の巣をつついて魔物に追われる経験はしたことがあると思うけれど、彼らは追いつかれると死んでしまうという経験を毎日している。それだけどうやったら追いつかれないのか、どうやったら速く走れるのかを考えていたんじゃないかな」
「深刻さが違うと、思考の幅も変わってくるということですかね?」
「そうだ。そうならざるを得ない状況というのはあるだろ? 盗賊ギルドなんかがあった時は家族を守るために盗みを働く者も多かった。誰から何を盗むのか、タイミングはいつなのかという実践的な思考になっていく。盗賊を捕まえる時はそこから逆算していけばよかった」
「そんなことをやったのは『野盗改め』くらいですよ」
「俺の場合は目的が違ったんだよな……辺境のためというか自分のためでもあるから……。そっちの方が強くなれるのかな?」
「聞かれてもわかりませんよ。私は王都周辺の裏側しか考えてこなかったんですから」
キミーはお茶を飲んで苦い顔をしていた。
「魔境に来なかったことを後悔しているのか?」
「誰かが残らないといけなかったのですから仕方がないことです。ですが、見てくださいよ! これ!」
キミーは手紙の束を見せてきた。どうやら魔境の訓練兵が書いた手紙のようだ。
「これを見せられて、行きたくないなんて嘘ですよ!」
ようやく目が覚めてきたらしい。昨夜は手紙を読んで夜更かしをしていたのか。
「いいですか! 『野盗改め』、いや、隊長さん! 軍の中でここまで格差が広がるというのは、組織として見逃せませんよ!」
「しかも新兵との差ではなく、熟練の兵士たちの差だろ?」
「そうです! しかも手紙を送ってきたほぼ全員が人間関係は複雑だろうなどとこちらをねぎらう始末。向こうはそんなにうまくいってるのですか?」
「まぁ、人間関係はシンプルだよ。ん~、それもあるよなぁ」
「何がですか?」
「だから、強さについてさ。王都にいるとコロシアムや冒険者ギルド、軍本部もあるから強さの指針みたいなものが自然とできるだろ? それが上限を決めてしまうんじゃないかな。その上で、それぞれの領域のトップに行くための人間関係に悩む。この時間がすべて、いかに自分を強くするのか、どうやって環境に対応するのか、という思考に使われるんだ」
「王都にいると上限が決まってるってことですか!?」
「わかり難いか? コロシアムで言えば、例えば頂点にいるドラゴンを倒すことが目標になるんじゃないか」
「コロシアムに限らず、冒険者でもドラゴンは強さの象徴ですよ」
「でも、魔境では今、騎竜隊というドラゴンライダーを育成しているところだ。ドラゴンは保護対象であって倒すようなモンスターではないし、強くもなんともないそうだ」
「そうらしいですね。荷物を運ばせていると書いていました。どういうことですか?」
「どういうことかは俺にもわからないが、事実だから受け入れよう」
「いや、我々は受け入れられるように努力はできますが、エルフにとっては秘宝中の秘宝なわけですよ。竜骨の交易について、何度も交渉の場についてほしいと嘆願書が送られてきてますから」
「魔境には関係のないことだ。魔力の伝導率についての報告書は送っただろ?」
「ええ、王都でもかなりセンセーショナルでしたよ。魔女の組合と軍の魔道士たちの話し合いが今でも続いています」
キミーは上階を指さした。俺は呆れて笑ってしまう。
「それだけでも差は歴然だろ? 基礎理論化しようとする者たちと、実戦の中で試行錯誤を繰り返す者たちとでは、応用の幅が出来てしまうよ。むしろ、魔境では次々とイレギュラーなことが常態化している」
「じゃ、その差は埋めようがないってことじゃないですか!」
「ああ、いつか俺とキミーが話していても、全く意味が通じない日が来るかもしれない。同じお茶を飲んでいても、どこの地域から取り寄せた茶なのか考えるものと、この茶によってどういう毒が治癒できるのか考えるものとは別の業種だろ?」
「そうですね。行商人と薬師は別です」
「竜骨についても同じだ。エルフはどうやって流通させるのか、エスティニアが取引してくれるのかを考えている。だが、魔境ではドラゴンはそう簡単には死なないし、火も吐けて飛べるこのモンスターをどうやって有効活用するのかを考えているだろ?」
「見方の違いが、強さの格差を広げているということですよね?」
「そうだ。それがそのまま実力となって表れているんだよ」
「だとしたら、隊長さんは両方の見方が出来るんですから、強いはずでは?」
「俺の強みはバランスを取って強さの違いを伝えるだけだ。マキョーくんたちはドラゴンの強さも知っているし、エルフの国で竜骨がどう扱われているのかも知っている。知った上で保護を選択している。魔境に得がないのにわざわざドラゴンを殺すこともしない」
「ですが、エスティニア王国としてはエルフの国に交渉のカードを持てますよ」
「エルフの国と交渉して、生産性が上がるか?」
「それは……、人の交流が始まれば……」
「残念だが、エルフの国からの亡命者も出ているし、中心部にある白亜の塔にある図書館侵攻も問題になっている。平和的でもなければ対等でもない関係なのに、わざわざこちら側が譲歩する必要もないだろ? 付け上がるだけさ。特にエルフはプライドが高い」
「しかし、それはエスティニアと魔境の関係でも同じでは……?」
「その通り。ミッドガードが現世に戻ってきたことで、魔境はこちらに気を遣う必要もなくなった。ミッドガードに送る食糧も必要がなくなり、王都で得られる情報はほとんどないと言える。歴史ぐらいだ」
「でも、魔境開拓当初、支援していたのでは?」
「いや、その関係は早々に崩壊しているよ。むしろ魔境産の杖を流出させたことでイーストケニアで内乱まで起こっているからね。あとはマキョーくんの優しさにすがるだけ。訓練兵を送り込み、どうにか関係は続くだろうが、魔境の家族が増えていけば独立してしまうかもしれないな」
「そんな……!?」
「でも、その方がエスティニア王国としては、格差もなくなり安定するぞ?」
「辺境伯はそんなにあっさり故郷を捨てますか?」
「故郷の方はあっさり捨てたじゃないか。まさに気持ち一つさ」
「やはり行ってみないことにはわかりません! すぐに移動願を出しますから、よろしくお願いしますよ。隊長!」
「俺に言っても上が何というかわからん。ウォーレンに直接交渉してみてくれ」
俺はグイッと冷めたお茶を飲んで、厨房に「ありがとう」と一声かけてから兵舎を出た。
今日は、キミーに話した内容と同じことを王にも話さないといけない。気が重い。
俺はせっかくなので町の様子を見て回ることにした。魔境にとって利益になる文化はないか探す。できることと言えばそれくらいか。
王都の空には今にも雨が降りそうな雲が広がっている。