【魔境生活31日目】
フォレストラットへのエサやりと、畑の水撒きを済ませ、沼に入る。
しっかりと準備運動をして服を脱ぐと、自分が以前より遥かに筋肉質な体になっていることに改めて気づく。娼館通いで自堕落な生活を送っていた男とは思えない。肌の色も日に焼けて黒い。水の中に入るので、朝飯は食べていない。準備運動をしてから沼へと入った。
深呼吸して光魔法を腕にまとわりつかせ、沼に潜る。
目立ってしまったせいで、魚の魔物がやたらと近づいてきた。基本的に害がない魔物に関しては何もせず、向かってくるものだけ、P・Jのナイフで倒していった。
沼の底に着くと早くも息が限界になった。
魔法で水流を生み出し一気に沼の水面へ。
「ぷはーっ!」
沼の底から、水面に出ると太陽がまぶしい。大きく息を吸い、水流を生み出して、一気に沼の底に向かう。水流を生み出してしまったせいで、底の泥が舞い上がり、視界を塞いでしまった。
しまったと思ったが、こういう時は逆転の発想をする。
もしかしたら泥の下に遺跡があるかもしれないので、どんどん水流を生み出し、底の泥を掘り進める。息が続かなくなったところで、沼から上がり、しばし休憩。
「ヤケに、ナッタカ?」
「遺跡があるかもしれないと思って、底を掘ってみたんだ。水がキレイになったら、また潜るよ」
身体が泥臭かったので、チェルが鼻をつまみながら水魔法をぶつけてきた。
自分を嗅いだら、なかなかの臭いだ。魔境の入り口の小川へ行って体を洗っていると、グリーンタイガーが地面の匂いを嗅ぎながら近寄ってきた。川の中にはスライムもいるが、今では特に脅威でもない。向こうが襲ってこなければ、こちらも襲わない。襲ってきたとしても、単純な腕力や魔力でどうにでもなる相手だ。
近づいてきたグリーンタイガーが急に前方の川向うを睨んだ。森の木々がざわめき、何かが来るのがわかる。
ワイルドベアか、それとも、ベスパホネット? とりあえずパンツだけ穿いた。
ぬぅっと現れたのは、大きなリュックを背負い、フードを目深に被った人だった。全身を覆うコートのような服に、マスクもしているため、男と女の区別もつかず、鋭い眼光だけが見えている。背は俺よりも高い。
グリーンタイガーが唸り声を上げ、威嚇している。
川の中のスライムもじっと動かずに、攻撃の機会を伺っているようだ。
「こんちは。魔境に何か用ですか?」
なるべく穏やかに聞いてみた。
「すすす、すまない! 魔境に住む者がいると聞いてやってきた。そそそ、そのトラの魔物は川を越えるのか?」
マスク越しに聞こえる声は中性的で、男か女かわからない。男だとしたら若く、女だとしたら枯れているような感じだ。
「たぶん、越えないと思います」
俺はグリーンタイガーに近づき顎をなでてやると、徐々に表情が柔らかくなり、魔境のジャングルへと帰っていった。
「すすす、すまない!」
そう言って、フードの人が小川に一歩踏み出した時、スライムが噛み付いていた。スライムはリュックごと川に引きずり込み、頭からかじりついていた。
助けを求める声が聞こえるが、完全に自業自得なので、少し成り行きを見守ってみた。
川の水面から飛び出した手が力を失ったので、スライムを引き剥がし、フードの人を森の岸の方に運んだ。魔境は危険だということをわかってくれればいい。
「ガハッ!」
マスクもフードも破けて顔を露わにしたフードの人は水を噴き出した。魔力をスライムに持って行かれたようで、かなり顔色が悪く、身体に力が入らないらしい。顔色は悪いが顔はかなりの美人だ。貴族だと言われても疑わない。ただ、髪型は横を刈り上げたモヒカン。眼光の鋭さもあり、悲壮感が漂っている。
「魔境に来るなら、もう少し強くなってからの方がいいぞ。スライムにやられているようではどうにもならない」
「すすす、すまない。魔境産の杖が上質であることを知って、かかか、買い付けに来たんだ」
そういうことか。
「今のところ、軍の訓練施設にしか売ってないんだ」
そう言って断ると、ガシっと腕を掴んできた。
「たたた、頼む! 杖を、杖を売ってくれ!」
必死だな。スライムに負けるほどの人が、森を抜けて、魔境まで来るのは結構大変だ。前に来た奴らは数日かかっていた。それほどの価値を俺が適当に作った杖に見出すとは。
「まぁ、売るのは構わないけど、取引できるものはあるのか? はじめに言っておくけど、金銭はいらないよ」
「りゅりゅりゅ、リュックの中身を見てくれ。その中にあるもので、取引できるものはないか?」
自分の力ではリュックすら開けられないらしい。リュックの中には、女物の貴族が着るような服や短剣、本、食料などが入っていた。食料はフードの人が帰りに食べるものだろう。服も短剣も特に魔道具というわけではないらしい。本は歴史書のようだ。
「この本はどこの歴史書だ?」
「この辺りの歴史が書いているはずだ」
「はずっていうのは?」
「本当かどうかわからないことも多い。空飛ぶ島があるとか、山よりも高い魔物の話とか、作者の想像が結構入っている」
それはたぶん、事実だな。巨大魔獣って山より大きいのか。避難したほうがいいかな。
「この歴史書なら、杖10本と交換してやる」
「杖10本!!?? 本当か!?」
「ああ、他にも似たような本があれば、交換してやるが?」
「今は持ってきていないが、探せばあるかもしれない」
「なら、この本はもらっていく。次来た時に杖を10本用意しておく」
「待て! それではこちらがあまりに不利だ。いつまたここまで来られるかわからない」
確かにそうだ。だが、正直、腹も減ったし、いつまでもパンツ一丁でいたら風邪を引いてしまう。早いところ、家に帰りたい。
「お前、秘密は守れるか?」
「秘密?」
「魔境で見たことは、一切口外しないで欲しい。これが守れなければ、取引はなしだ」
「わわわ、わかった」
とりあえず、目隠しをさせて、リュックごとフードの人を背負った。素肌の背中に柔らかいものが当たった。かなり鍛えているようで、胸以外は筋肉質だった。
森を抜け、一気に我が家である洞窟へと帰る。
「ナンダソレ?」
チェルがパンを焼きながら聞いてきた。
「取引相手を拾ったんだ。杖が欲しいんだと」
「ままま、魔族!」
フードの人は目隠しを外していた。
「見ちゃったかぁ」
「ナンダ、ヤルカ?」
チェルが魔力を右手に集中させた。
「待て待て! 魔境で見たことは一切口外しないことになっている。そうだな?」
「そそそ、そうです」
ジェニファーが物音に気がついて、洞窟の外に出てきた。
「あら? その方はどなたですか?」
「商人だ。魔境産の杖を買い付けに来たらしい」
「そうですか。ん? どこかで見た顔ですね」
ジェニファーがフードの人を覗き込むように見た。
「よよよ、よくある顔だ」
そう言ってフードの人は顔をそらした。
「交換材料を持ってきたらしいから、ジェニファー見てやってくれるか。正直、俺には価値がよくわからないから」
「私が? 構いませんよ」
ジェニファーはフードの人からリュックを受け取って「ずいぶん濡れてますねぇ」とぼやいていた。
「ジェニファーと同じだよ。入り口のスライムにやられたんだ」
俺とも同じだけどな。
ジェニファーは「そうですか」と頷きながらリュックの中のものを取り出して、地面に並べていた。以前、パーティで消耗品の管理をしていたと言っていたのは本当らしく、手際がいい。意外に交渉事では役に立つのか?
「チェルは魔石を選んでやってくれ」
「ン~……イイヨ」
パンの焼き加減がうまくいったようで、チェルの機嫌はいい。
「少し座って待ってな」
俺は長い枝を選びながら、フードの人に切り株を勧めた。
「すすす、すまない!」
緊張しているフードの人は切り株に座り、周囲を見回している。「ギョエェエエエエ」というインプの声が遠くから聞こえてくると、フードの人は腰の小刀に手をかけて、立ち上がった。怪鳥の鳴き声だと思ったのだろう。
「大丈夫だ。小さい魔物で危険はない」
「そそそ、そうか」
フードの人は座ったものの、相変わらず周囲を警戒している。
「なぜ杖がほしいんだ?」
「こここ、この魔境から西に行った場所で賊が反乱を起こし、鎮圧のため強力な武器がいるのだ」
内乱か。フードの人は軍人のように話した。
「そりゃあ、儲け時だな」
「ななな、なんだと!?」
フードの人が怒ったように急に立ち上がった。
「商人だろ?」
「うっ! そそそ、そうだ」
そう言って落ち着いて座っていたが、顔は険しい。ただの商人ではなく、訳アリのようだ。
「マキョー、ちょっといいですか……?」
ジェニファーが、枝を削っている俺を呼んだ。
「なんだ?」
「おかしいです。品物の質が良すぎます。貴族の馬車でも襲わないと、ここまでのものは用意できないかと……」
ジェニファーが小声で俺に教えてくれた。
「盗賊か?」
俺はフードの人を見ながら、ジェニファーに聞いた。
「おそらく……。ただ、どこかで会った気がするんですよ」
「なら、高ランクの冒険者が盗賊に?」
俺の質問にジェニファーは頷いた。
高ランクの冒険者は依頼も多く稼げるはずだ。わざわざ盗賊になる必要なんてない。
「こちらもチェルを見せてしまっているからな。盗賊でも取引はするが……」
「ととと、盗賊ではない!」
俺の言葉が聞こえたようで、フードの人が立ち上がった。
「じゃあ聞くが、この商品はどこで手に入れたものだ?」
「わわわ、私は、イーストケニアの貴族だ。領主の叔父に武器の買い付けを命令されて、ここへ来た」
「あ~! なるほど! どうりで見たことがあると思った!」
ジェニファーが納得していた。
「どういうことだ?」
俺がジェニファーに聞いた。
「イーストケニアはこの魔境から一番近い場所です。というか、一般的にはこの魔境もイーストケニアの領地だと思われているはずですよ」
「その領地で内乱が起こったから、貴族の娘が武器を買い付けに来たのか……。いやいやいや、なんで? 逃げろよ」
「いいい、イーストケニアの民に逃げるという選択肢はない」
「エルフの国と近いイーストケニアはいい意味で好戦的、悪い意味で野蛮なんです。知りませんでした?」
ジェニファーが俺に言った。
「初めて聞いたな。でも、それって買い付けっていう理由でもないと家族を逃がせないってことだろ? 叔父さんが逃してくれたんじゃないか?」
「そそそ、そんなはずはない! 私がイーストケニアきっての女戦士だぞ!」
「そうなのか……。いや、人の家の事情はしらないからな。気を悪くしたのなら謝るよ。でも盗品じゃないなら、ちゃんと取引ができるな」
どうにか言い訳をして、ジェニファーと貴族の女戦士に商談をさせた。
チェルが選んだ魔石で、水魔法が出る杖や麻痺させる杖などを作った。殺傷能力がある杖ではなく、冒険者たちを鎮圧できればいいのだから、十分だろう。
「ん、出来たぞ」
貴族の女戦士に杖を20本渡し、向こうは歴史書や服などを渡して取引成立。
俺は貴族の女戦士を入り口まで送って行った。
「頑張ってくれ。それから魔族のことは誰にも言うなよ。話せば、魔境にいる魔物たちを差し向ける。いいな?」
と、釘を差しておいた。
貴族の女戦士は何度も頷いて、無事に小川を渡り帰っていった。スライムは俺が蹴散らせば襲ってこない。
洞窟に戻り、飯を食べた。
「ヒエテも、パンはウマい」
徐々にチェルの公用語がうまくなっている。
「うん。飯食ったら、また沼に行くからな」
そろそろ舞い上がった泥も落ち着いている頃だろう。
「ウン」
今度はチェルも潜るという。
「私は、オジギ草を刈り取って、少し道を作ります。人の往来がないとマキョーも家賃が取れないでしょうし、両替屋が来れば私の家賃も払えますからね」
ジェニファーは自分で仕事を見つけたようだ。
「好きにしてくれ」
日も傾いてきたので、早くしないといけない。
食器の後片付けをしてから沼に向かった。
下着姿になり、大きく息を吸って、ドボンっと沼の中へ。沼の底は白かった。巨大な骨が泥に埋まっていたのだ。
家と同じほどの大きさの大腿骨。チェルの身長と同じほどの犬歯。大きな魔物の死骸が何体も沼の底に眠っていた。大きすぎて、歯の一部と指先の一部の骨しか持って帰ることは出来ない。
完全に日が落ち、その日は小川で身体を洗って、洞窟へ帰る。
水の中にいたせいか、かなり体力を使っており、焚き火で身体を乾かしていたら眠ってしまった。