【魔境生活1日目】
目の前には、目印の川。不動産屋に貰った地図によると、この川から向こうが俺の土地だという。
川の向こう岸はジャングルで、明らかに生態系が違う。緑の密度が濃く、シダ植物の葉も鋭い。さらに、悲鳴のような魔物の鳴き声が断続的に聞こえてくる。
「ここで、妖精とか精霊とかが出てきて、『あなたに素晴らしい才能を授けましょう』とか言わねぇかな」
出てくるはずがないので、深呼吸をして、ジャブジャブと川の中に入っていく。
ガブルゥ!
踏み出した脛を何かに噛まれた。
「痛って!!」
噛み付いた物を蹴りあげると、柔らかいクッションのような感触があり、川面から透明のスライムが飛び出してきた。
「一応、聞いておくけど、お前、スライムだよな!?」
ぷるぷるぷるぷる。
岸辺に上げられたスライムは、口を開き、威嚇してくる。スライムには魔石の核があり、そこを攻撃するしか無い。原始的な魔物であり、核に魔力を供給するために他の魔物から魔力を吸収する。
本来は一番弱い魔物の一種であるが、ここのスライムは違うようだ。先程の一噛みで、俺の魔力は一気に削られて、頭痛がする。これ以上噛まれたら、魔力切れで気絶するだろう。
距離を取り、持っている武器で一番長い鍬で牽制する。振り下ろしても振り下ろしても、一向に攻撃は当たらない。逆に鍬の柄を噛まれ、ボロボロにされてしまった。このままでは、自分の土地に入ることさえままならないし、武器を消耗するだけだ。なにかないかと、俺はリュックの中を探った。
最初に手に触れたワイルドベアの毛皮を取り出し、スライムに向かって投げつけた。ワイルドベアの毛皮がスライムを覆うように被さり、俺は押さえつけるようにその上に乗っかる。水辺が近いとはいえ、岸に上がっているのだ。ずっとこのままだとスライムは干からびて死ぬだろう。
毛皮の中で動いているスライムを押さえつけながら、早くも作戦が失敗だったことを悟った。俺の体力の消耗が激しい。このまま、押さえ続けていたら、確実に逃げられてしまう。
試しにナイフで毛皮もろとも突き刺した。毛皮の裂け目から溢れるように水が噴き出してきて、俺の顔面を襲う。
毛皮の下のスライムは勢い良く縮んでいった。最後に核の魔石だけが残り、戦いに勝利。ワイルドベアの毛皮が一枚無駄になった。あまりにも割に合わない。
それでも、ようやく俺は自分の土地に入ることができた。
リュックの中身はスライムとの戦闘をする中で、ぶちまけられている。前途多難。
ひとまず、岸辺に今日のキャンプ地を作ることにした。
植物の葉を屋根にしようと、地面から放射状に伸びている葉の根元を切ってみると、切り口から粘着性の強い液体が溢れるように出てきた。寝てる時にネバネバな液体が天井から垂れてきたら最悪なので、この葉は使えない。この葉は勝手にヤシの葉と名付けることにした。
夢で見た、前世の記憶にある植物と、形が似ている植物の名前だ。
違う葉を切ろうと手を葉に触れると、トラバサミのように勢い良く閉じた。この葉はオジギ草と名付けた。とても固い葉なので、不用意に触れると指ごと無くなりそうだ。
そこから、慎重に慎重を重ね、丸い大きな葉と丈夫な蔓を見つけた。
丸い大きな葉の茎は、太かったので斧で切った。切り口から溢れるように水が出てきたが、無味無臭でとてもきれい。飲めそう。フキと名付けた。
魔境の植物は、他の地域と違って強力すぎる。もしかして、これが普通か?
今まで生まれ育った村と近くの町くらいしか行ったことがないので、この世界についてあまり知らない。
「そう言えば、これが初の遠出か」
我ながら、冒険者なのに生活環境が狭かった。
日が陰り、岸辺の砂利の上で火をおこし、枯れ枝を放り込んでいった。枯れ枝は地面を見ればいくらでもある。
ワイルドベアの肉に木の枝を刺し、火で炙っていると、後ろから視線を感じた。振り返ると、緑色の目が草叢の陰からこちらを窺っているのが見えた。
緑の目の肉食獣と言えば、グリーンタイガーだ。
武器を持たずに出会ったら、生命を諦めろと冒険者ギルドの講習会で教わったほどの魔物。ベスパホネットの毒針を炙っていたワイルドベアの肉に埋め込み、グリーンタイガーの方に放り投げた。
うまく行けば、グリーンタイガーの喉に毒針が刺さって、死んでくれるかもしれない。
俺は斧を構えて、後退り。黄緑色の体毛をしたグリーンタイガーが草叢から姿を現した。
体長は3メートルほどで、肩から足にかけて、毛に覆われている。しなやかな動きで、こちらに近づいてきた。
グリーンタイガーは俺が放り投げた肉の臭いを嗅ぎ、すぐに興味がなくなったのか、こちらを向いて唸り声を上げた。新鮮な肉のほうが美味しいということだろう。
ヤシの葉の根元を切り、ネバネバの樹液を垂らし、なるべくオジギ草がありそうな草むらに走りだした。俺が走りだしたことで、グリーンタイガーも追いかけてきた。グリーンタイガーの一歩は俺の十歩ほどに相当する。
次の瞬間、ヤシの樹液で、足を取られたグリーンタイガーが前のめりで、倒れた。その隙に、オジギ草に触れないように、草むらを進む。
暗い草むらの中、月明かりだけが頼りだった。ジャングルの奥に進めばさらに、暗くなるだろう。
後ろから、オジギ草が閉じる音が近づいてくる。グリーンタイガーが迫ってきているが、まだ距離はある。
どうにか追いつかれる前に草むらを抜けると、小さな白い花が咲き乱れる花畑。
ジャングルにお花畑? と訝しがりながら、見渡すと、前方に腐敗した魔物が花に覆われているのが見えた。
「ここはヤバイ!」
口と鼻をふさぎ、草むらに戻る。前方には死のお花畑、後方からはグリーンタイガー。
慌てて木の上に避難。
グリーンタイガーが花畑に現れた。月明かりに照らされた身体にはオジギ草に噛まれた傷から血が流れている。
息も絶え絶えになって周囲の草むらを睨み続けている。
俺は黙って、じっと音を立てないようにグリーンタイガーを見ていた。
グリーンタイガーは小さな白い花を踏みながら、俺の臭いを辿るように鼻を白い花に近づけた。
グリーンタイガーは、ぐらりと揺れたかと思うと倒れた。
「ググオ……ググオ……」
グリーンタイガーはいびきをかいて眠っている。このまま眠り続け、前方にある腐敗した魔物のように死んでいくだろう。
俺はその小さな白い花にスイミン花と名付け、川岸へ戻った。
「生き延びた」
川岸に戻る途中、ベトベトしていたヤシの葉を踏んでしまった。靴に粘着性の樹液がこびりついたが、すぐに剥がれた。
触ってみると、固まってきている。ヤシの樹液はツルツルと手触りの良い素材に替わっていた。
固まった樹液を斧で切りつけて見たが非常に固い。鉄の斧で切りつけても、まったく傷がついていない。型を作って、樹液を流せば、良い道具が作れるだろう。
早くも自分の土地から特産品が出てしまったか。
川岸に戻ると、カバンは荒らされ、毒針入りの肉が消えていた。周囲には大きな何かを引きずったような跡。グリーンタイガーの他に魔物がいたようだ。
周囲を警戒しながら、カバンの中身を確認。魔石も道具も無事だが、ワイルドベアの肉や食べ物は食い荒らされていた。
ギョェエエ!!
ジャングルの中から雄叫びが聞える。
散らばった荷物をカバンに詰め、少し離れた川岸で、再び焚き火をして周囲を警戒。斧を片手に、いつでも逃げられる体勢で座っていると急に睡魔が襲ってきた。
「スイミン花の影響か……」
頬をつねろうとするが、手が持ち上がらない。
「限界だ。仕方がない。ここをキャンプ地とする……」
誰に言うわけでもなく、自分自身に向けて宣言した。丸い小さい石が敷き詰められた小川の岸辺。暗い森からは魔物の声が聞こえ、いつ襲われるかもわからない。
全財産はない。もしかしたら、一生このままこの岸辺をキャンプ地にして死んでいくのかもしれない。恐怖が一気に押し寄せてきているのに、身体の垂直を保てない。
石畳に倒れてしまうと、あらゆることに抵抗できなくなった。
結局、俺は瞼の重さに耐えきれず、眠ってしまった。