甘い雪解け
冬の朝の台所はとても冷え込んでいる。美琴がしゃかしゃかと小気味良く泡立てているのは砂糖と卵黄。暖房を付けていないが美琴の身体はほくほくと温かくなっていた。
小さく流れる音楽は傍らのラジオから。美琴は昔ながらのラジオを気に入っていた。充満するチョコレートの香りにゆるやかな音楽が重なって、それはもう甘い至福の空間だ。
「これでよし」
うん、と頷くと美琴はコンロの方から溶かしておいたチョコレートとバターを運び生クリームと共に卵黄に加える。
休日特有の緩んだ空気に白い息を吐くと、ほわりと散って消えた。お菓子を作ると寒さが吹き飛ぶのは動き回るから当然のことかもしれない。しかし美琴の身体が温かいのは決してそのせいだけだとは思えなかった。
にまにまと緩んだ顔をしたかと思えば無表情になり、そしてずんと沈んだかと思えば首を振って顔を上げる。忙しいほどに一人で百面相を繰り広げる美琴の心の中は近づくイベントに向けて激しく揺らいでいた。
「優希くん甘いもの好きだし」
鼓舞するように口に出すと粉を加えてまた混ぜる。
お菓子業界の策略なんかにはまってやるものかと思う反面、年間行事の中で一番好きなイベントにもなっている。美琴は甘いものが好きなのだ。もちろん作ることも。だから好きな人なんていなくても毎年作ってきた。
それでも今年は違う。お菓子を渡したいと思う相手がいる。イベントがこんなにもわくわくして、さらに怖いものになるだなんて美琴は初めて知った。
「ガトーショコラなんてシンプルすぎたかしら」
メレンゲを加えながら一人でぶつぶつと呟く。
同じクラスの優希くんはサッカー部の中でも人気がある。きっと明日はたくさんの女の子から同じようなものをもらうのだろう。
いやいや、と美琴は首を振る。同じようなものならまだいい。もっとずっと素敵なきらきらしたチョコレートをもらうのかもしれない。
先輩たちからもかっこいいと騒がれる優希くん。幼馴染である美琴は優希くんはかわいいのだと声を大にして言いたかった。
くしゃっと笑うあの天使のような笑顔。あれはもう反則だ。
生地を型に流してオーブンで焼く間、美琴はじっと立ち尽くしていた。
こんなものを受け取ってくれるわけがない。もっとずっと素敵なものでなきゃいけないと美琴は思う。でもチョコレートのお菓子で手作りとなると凝ったものは逆に引かれるのではないかと怖いのだ。
買った方がいいのかなと何度も考えた美琴だったが普段からお菓子を作るせいでどうにも気が進まない。優希にあげたことも何度もある。イベントに乗じて義理をあげたこともあるが本命としては初めてだ。
優希くんは優しいから美琴からのチョコレートを断ったりはしない。それを分かった上で手作りを渡すのはずるいだろうかとさらに迷う。しかし幼馴染の優希くんに想いを伝えるという難関に挑戦するのだから少し多めに見てほしい、というのが本音だ。
失敗したら何度でも作り直せるようにと早起きをした。漂う香りは甘く優しく美琴の心に染み渡り、うとうとと夢の淵に誘う。この先、チョコレートの香りを嗅ぐたびに焦がれる気持ちを思い出してしまうのだろうか。
時折ちちちとガスの入る音と、ぶうんというファンの音。ガスオーブンで焼く音は美琴にとって心地よい子守唄ならぬ子守音だ。重力に引きつけられるように座り込むとオーブン台に背中を預けてしまった。
「美琴、起きなさい」
母の声で美琴は初めて眠りに落ちていたことに気がつく。はっとして立ち上がりオーブンに手を当てると、それはすっかり冷めていた。扉をゆっくり開くとふわりと広がるチョコレートの香り。
「あら、いい香りね」
慰めのつもりだろうか、母の言葉に美琴は頬を膨らます。熱が通り過ぎてしまった。確かに甘い香りはしているが美琴が求めていたそれではない。
「こんなんじゃだめ」
目頭がじわりと熱くなる。深く項垂れて片付けを始めた美琴が再びガトーショコラを作り出したのは、お昼を過ぎてからだった。
「今度こそ」
一度失敗したせいで買ったチョコレートを渡すという選択肢は消えた。負けず嫌いの美琴のやる気に火をつけた。必ず成功したガトーショコラを渡すのだ、と。
朝と同じ作業をさらに丁寧に繰り返し、型に流した生地にしっかりと想いを込めてからオーブンに入れた。焼くというたった三十分ほどのことがひどく長く感じる。
あと少し、あと少し。そう思いながらうろうろと歩き回る美琴だったが、ふいにインターホンが鳴った。母は買い物に出ている。
「もう少しで焼けるのに、なによ」
少し苛ついた声でそれに出ると、
「よう、美琴」
訪ねてきたのは優希くんだった。美琴はばたばたと転げるように玄関に向かって扉を開ける。
「優希くん、どうしたの」
サッカーでもしていたのだろう、ジャージを着て大きなスポーツ鞄を持った優希くんが立っていた。
「これ」
優希くんは持っている紙袋を差し出す。美琴が首を傾げていると、
「誕生日おめでとう」
満足そうな顔をする優希くん。これだ、このせいで美琴は今まで本命チョコなるものを優希くんに渡せずにいた。前日が美琴の誕生日だから優希くんは律儀に贈り物をくれる。だから美琴がお菓子をあげてもお礼としか捉えられないのだ。
「ありがとう」
そろそろくれなくなってもおかしくないと思うのだが、今年も優希くんは律儀だった。美琴としては今年こそお礼ではなく気持ちを伝えるつもりなので、それとは別にお礼も考えておく方がいいかもしれない。
「チョコレート」
優希くんが一歩、美琴に近寄る。瞬間、その香りが二人を包む。
「あ、焼けてる」
しまった、と口に手を当てた美琴は優希くんへのお礼もそこそこに駆け戻りオーブンを開く。竹串を刺して焼け具合を確認するが今度は大成功だ。甘いだけでなくどこか胸をくすぐる香りがする。美琴が求めていたもの。
「よかった」
ほっとしたのも束の間、
「ケーキか」
優希くんが付いてきていた。兄妹のように育った幼馴染はこれだから恋愛に発展しにくい。その上、明日あげるつもりのガトーショコラを見られてしまった。せっかく成功したのにと美琴は悔しげにため息をつく。
「だめよ、これは明日のために焼いたんだから」
ええいどうにでもなれ、とにかくこれは明日あげるのだと投げやりになった美琴はテキパキと動く。
「明日のため?」
優希くんは壁にかかるカレンダーに目をやった。明日の日付に赤いハートマークを付けていることを思い出し、美琴は顔を熱くなるのを感じていた。
「バレンタインか」
そういえばそんなものもあったなと興味のないような雰囲気の優希くんに、美琴はやはりそうかと落ち込む。優希くんはいつもそうだった。他の女の子からのチョコレートも美琴からのお菓子も期待したことはないのだろう。くれるのならばもらうという程度。
「誰かにあげるのか」
毎年あげてきたのだし今の会話で分かりそうなものだが、優希くんはあえて尋ねた。そのことに美琴は違和感を持つ。
「誰にって」
優希くんにと言いかけて言い淀む。想いを伝えると決めているのだ。今ここでそれを言いたくはないし、あげるということだけをここで伝えてしまうのも美琴はいやだった。
「それは秘密だけど。喜んでもらえるかも分からないし」
違和感の理由を考えて美琴は、ああそうかとカレンダーに目を向ける。赤いハートマーク、あれのせいだ。優希くんは美琴のハートマークが自分に向くなどと予想だにしていないのだ。だから毎年もらっている自分ではなく、ハートマークが向かう別の誰かを尋ねている。
美琴は恋愛の対象ではないのだと突きつけられたようで肩を落とす。ガトーショコラがしぼんでいく。
「俺ならうれしいけどな」
美琴の後ろからガトーショコラを覗き込んで言った優希くんの声が優しく鼓膜を震わせる。
「優希くん、甘いもの好きだもんね」
どの女の子からのチョコレートも断らないのだろうと美琴は皮肉をこめたつもりだ。
「そういう意味じゃない」
不貞腐れたような声が珍しくて美琴は目を見開く。どういう意味かと聞く前に優希くんは玄関に向かい出した。美琴もガトーショコラを置いて後を追う。またしてもちらりと赤いハートマークが目に入った。
ハートマークと、俺ならうれしいという言葉を美琴は頭の中で重ねてみる。自惚れかもしれないが、しかし。
玄関で扉を開けて外に出た優希くんを美琴は呼び止めた。
「優希くん、明日なんだけど」