レッド・ポワゾン
はじめは鏡が古くなったのかと思った。老朽化し、力弱く、くもってしまったのかと。
よくよく見ると映っているのは自分の顔にさした影に違いなかった。くすみ、にぶくなった肌の輝き。触れてみるとふわりと柔らかく、それはみずみずしさを失ったのとイコールだった。
「世界で一番美しいのは誰?」
少し前まで、そう魔法の鏡に問うことは幸せでしかなかった。
〈貴方様です、女王陛下〉
約束された合言葉のように、十数年来耳にし続けた、心地よい響き。私は鏡を愛していた。そこに映る自らの美貌に見惚れた。世界は私のためにあり、私はそこに君臨する唯一無二のクイーンだった。
――まさかそれが脅かされる日が来るとは。
そもそも私はこれまで、段々自分に似てくる我が娘をかわいいものと思ってきた。
まるで私のミニチュア版。
完璧に着飾らせてコーディネートし、いつもそばにいさせる。連れて歩けばかならずほめられたし、人々は立派な母君と私を称えた。
いつからだろう、「姫の母」として認識されはじめたのは。
隣を歩けばうり二つ、まるで姉妹のようだと言われるようになり、だんだん順序が逆転していった。
主役は娘で、私はよく似た母親。そう民衆の目が言っていた。
私がいなければ、この子はいなかったのよ。
あっちはおまけで私が主役。そう決まっているはずなのに——。
鏡よ鏡……
世界で一番美しいのは——?
鏡はあの日割ってしまったままだ。過ぎたことを思っても仕方がない。私に今できることをやるべきではないか。
夕どきになり、召使いに持って来させた食事に薬をひとさじふりかける。膳を手に部屋のドアを開けると、ベッドで寝ている娘が見えた。
かつて黒々と輝いた髪は痩せ細り、薔薇色のくちびるは色を失い、白く透き通った肌は暗く沈んでいる。
これでいい。
「食事を持って来ましたよ」
「……食べたくないの」
「そんな。身体に悪いわ」
嘘をつくとき、私の口は鋭くとがる。紅の赤がくっきりときわだって、その姿もまた美しいはずだった。
「さあ、少しだけでもおあがりなさい」
目を細め形よい前歯を見せて、世界一と評された笑顔を浮かべる。愛情深い母親の演技は得意中の得意だ。
娘の顔には悩み迷うような表情が浮かんでいる。食え、食え、食らえ。そして病め。私を超える美など許さない。
いくら優しく勧めても、姫は全く膳に手をつけようとしなかった。私は段々苛立ちはじめる。
「ほら、温かいうちに。このままではやせてしまうわ」
料理はどんどん冷えて固まっていく。
沈黙が続いてどうしようかと思ったころ、姫が小さく声をあげた。
「おかあさま。わたし、りんごが食べたい」
一瞬、背筋が凍りついた。
私は試されているのだろうか?
娘の体を少しずつむしばんできたのは、ひどく苦い毒の薬だ。みずみずしい生のりんごにかければ、誰もがその味の異変に気付くだろう。
でももし今日だけ薬をもらずに、彼女の調子が良くなったら?
つやめく黒髪、赤いくちびる、白い肌が、あの子に戻ってしまったら——?
私は娘を憎んでいない。
私より醜くなってくれれば、それでいい。
世界一美しい女王と、かよわく病弱な姫。とても麗しい構図ではないか。
なぜ、うまくいかない?
姫のために、国で一番美味なりんごがすぐさま用意された。
目の前に、食べやすいよう切り分けられた果実が並ぶ。私の透明の薬瓶が、赤い皮と金の果肉のコントラストを透かしている。ガラスの蓋を開け、残り少ない中身を、外皮にほんの一滴……。
彼女は気づいてしまうだろうか。
それでも私には手を止めることができない。
私を突き動かし、地獄へと送り込む力。これは恐怖だ。強迫観念だ。強い魔力のような力に、人は抗うことなどできやしない。
それにしても皮肉なものね。
あの日私を眠らせたのも、こんな真っ赤なりんごだったっけ。
これから自分はどうなるだろう。お義母さまのように罰を受けるのだろうか。
「これを花雪姫のところへ」
手から皿が離れた瞬間、皮の赤がひときわ濃く輝いたように見えた。