十二月二十八日の雪 ver3.0
――久し振りに彼女を見た。
ずっと伸ばしていた髪を短く切り、俺の知らない服で着飾った彼女。
奥のテーブルで楽しそうに笑う彼女を見て、俺はフロアを離れた。
非常口を兼ねる通用口の重い扉を開けると、冷たい空気が流れ込んできた。
非常灯の弱い光だけが光源の薄暗い複合ビルの谷間。開けたドアはその二階の踊り場に繋がる。
両手にゴミの袋を持った俺は、錆びた非常階段を下りて、階段の裏に置かれたダストボックスの中にゴミ袋を押し込んだ。
そこでやっと少しだけいつもの自分が帰ってきた気がした。
暖冬の影響だろうか。クリスマスも過ぎ、今年も後三日で終わるというのに、この街にはまだ雪は降っていない。
ありがたくもあったが、雪が降らない程度に冷え込む生殺しにも似た中途半端な寒さが、鬱陶しくも思う。
凍える体を自覚して、手に白い息を吐きかけ擦った。硬くなった掌同士が擦れて小さな音が出る。
笛の音のような音を連れ、ビルの間を抜ける冬の風は冷たい。
居酒屋の薄い制服如きではこの寒さを到底凌げるはずも無く、俺は思わず身を縮ませていた。
すぐに職場に戻ろう、と階段に足を乗せるが、何故か一歩が重く苦しい。
理由は分かっていた。
自分の知らない今の彼女に、今の自分の姿を見せたくないのだ。
逡巡の末、結局そこに座り込んでしまう。
夜気に冷やされて氷のように冷たくなった階段は、容赦なく薄いズボンを突き抜けて尻を刺す。
空いた手に仕事を与えるように、ズボンのポケットから皺くちゃになったタバコを取り出し、火をつけた。
せめて、このタバコを吸い終わるまでここでこうしていようと思った。
精一杯の『甘え』を口に咥え、正面に目をやればコンクリートの狭間の向こう、色とりどりのイルミネーションに飾られた賑やかな夜の繁華街が覗いている。
ここはこんなに薄暗いのに。
「――湯浅さん?」
声がした。
「堀川さん」
すぐに後ろへ振り返ると、俺が腰掛けた階段の上、二階の踊り場に、俺と同じ居酒屋の女性用制服に身を包んだ女性――堀川絢子の姿があった。手にはやたらとストラップが付けられ重たくなった携帯が握られている。
「どうしたんですか? ボーっとしちゃって」
最近、バイトで入った彼女の声はいつも明るい。だから俺は笑って吸いかけのタバコを彼女に見せて言った。
「見て分かんない? サボってんだよ」
「うわ。悪い先輩だ」
「まあ、このタバコが吸い終わるまではね」
用は済んだのか携帯をエプロンの下に仕舞うと、笑って堀川さんは俺の横に座る。どうやら彼女も暫くここにいる気らしい。
狭い階段の同じ段に腰掛けたせいだ。何となく肩を寄せ合う形になった。
堀川さんは寒そうに手を擦ると、膝を抱えるように身を丸める。
黙って紫煙を吐き出す俺。
――そう言えば、何年か前にもこういう事があった。
冬の夜、バスを待つ彼女と並んで座ったバス停のベンチ。
『寒いねえ』
ほんのりと頬に朱が差した彼女が、少し笑いながら言った。
お気に入りの厚手のコートを着ていても寒がる彼女はウサギみたいに凍えながら俺のすぐ傍にいて、俺は石像みたいに黙ってタバコを吸っている。
電灯の灯りをほのかに白く返す雪が、ちらちらと降っていた。
彼女は寒がりなくせに妙に雪を好んでいたと思う。
バス停の小さな屋根から手を伸ばす彼女。
クリーム色の毛糸の手袋の上に、雪が薄く積もりはじめた。
闇に絡んですぐに溶ける白い息。
八重歯が覗く穏やかな笑顔。
『えいっ』
油断していると、小指の先ほどの大きさの雪玉が飛んできた。
顔を目がけて。
至近距離から投げられた雪玉は、寒さで引きつった頬にあたり、ペチンと情けない音をたてた。
『……冷たい』
『セイくんはこんな時でもクールですなあ。ちょっとは「やめりょー。やめちくりー」とか言ってみれば可愛げもありますぞ』
『……キャラじゃない』
『そだね。セイくんはそんなキャラじゃないよね』
小さく笑った彼女の横顔。少し俯いただけで、長い髪に遮られ、弱いバス停の灯りはもう届かなくなった。
『雪、なんだか蛍みたいだねえ』
透明な声に見上げた夜空。
雪が踊る夜は、どこまでも澄んでいた。
『雪は春になったら消えてしまうよね』
彼女は言った。
いつかは儚く消えていく雪も、そこにあった証が残る。たとえ春になり雪が溶けても、後に芽吹く草木は雪があった事を忘れはしない、と。
『……詩人だな』
俺は苦笑し。
『時に人は詩人になるのですよ』
彼女は笑い。
何の前触れもなく傾いてきた彼女の頭を肩で受け止めた。
小さな滴を幾つもつけた毛糸のマフラーから冬の匂いが香る。
『寒いねえ』
『そうだな』
『寒いねえ』
寄せられたのは身体と重さだけじゃない。
コート越しに伝わる温もりも。
白い吐息越しに伝わる心も。
彼女がくれる。彼女からくれる。
いつだってそうだった。
俺は受け身で、タバコをふかしながら、一歩離れて彼女の言動を眺めていた。それが常だった。
だからか。俺は彼女が抱いていた不安の正体に最後まで気付けなかった。
バカな俺は、このとりとめのない、他愛ないやり取りが、いつまでも続くものだと思っていたのだ。
「……ホント寒いな」
思わず口をついていた。
記憶の中、自分が彼女の隣で言った言葉。
それに答えたのは記憶の中の彼女ではない。
今、隣にいる堀川さんだ。
堀川さんは鼻水が出るのか、さっきからしきりに鼻を啜っている。
「本当に寒いですね。なんか今日か明日あたりに雪降るらしいですよ」
「そうなの」
俺は苦笑して頷く。
「雪、嫌いなんですか?」
「どうかな? 好き嫌いで考えた事ってないな。でも……積もればいいと思う」
「どうしてです?」
「そう言う気分だから、かな」
「それ変ですよ」と心底不思議そうにそう言った堀川さんの顔が、仰ぐように夜空へと向いた。
つられて顔を上げる。
半分程、非常階段の鉄骨に遮られてはいたが、コンクリートの灰色に挟まれた細く暗い空が見えた。
浮かぶのは、あの一瞬。
つい十数分前の出来事だ。
もしもあの時、彼女と目が合っていたら――。
自分は彼女に何か言う事が出来ただろうか?
あの日積もった記憶と言う名の雪が、今もまだ自分の内に思い出として残っている事を。
彼女が自分の心にいた『証』がある事を。
――と、
「――雪だ」
堀川さんが言うとおり、夜空から白い雪が降っている。
初雪だ。
いくつかが堀川さんの伸ばした手の上に落ち、彼女の温度に触れてすぐに溶けた。
「湯浅さん雪ですよ雪。凄い! 初雪の瞬間見ちゃった!」
堀川さんは寒さも忘れたようで、無邪気に笑って見せた。
その表情が、あまりにも記憶の底に閉じ込めた彼女の表情に似ていて――。
「湯浅さん、タバコ!」
ふと我に返る。
堀川さんの言うとおり、俺の口に咥えられたタバコは、灰の部分の方が長くなってしまって今にも落ちそうだ。
慌てて灰を落とす俺を見て、堀川さんはまた笑った。
俺もつられて笑った。
「タバコ、吸い終わっちゃいましたね」
堀川さんの声は少し残念そう。
「うん。体も冷えたし、そろそろお客さんも帰るだろうから中に入ろうか」
俺は弱々しいタバコの残り火をアスファルトに押し付けて消すと、立ち上がった。堀川さんも一緒に立ち上がる。
立ち上がり際、俺の耳元で、堀川さんが小さく呟く。
「何だか分かんないけど、雪……積もるといいですね」
俺は笑った。
通用口に入り際、雪が薄く積もっては溶けていく路地を見下ろす。
後に花咲く草木は雪があった事を忘れはしないと彼女は言った。
きっとどんな場所にも雪は降るのだろう。
そうしていつか春になって、等しく消えてしまえばいい。
それでも証が残ると言うのだから。
彼女の中に降った共有した時間。
俺と供にあったという記憶の雪は、もう溶けて消えてしまっただろうか。
それとも草木が芽吹く糧になったのか。
どちらでもいい。
自分は彼女の雪を糧にしている。
今、何かを咲かそうとして。
「雪、積もればいいな」
本当にそう思った。
おわり