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第三話 柳:火滴 消え細る赤く長い糸

 男が母親を尋ねてくるようになったのは、確か小学校五年生の頃だったと彼は記憶している。反抗期が始まる直前で、少年は母親に対して甘えと反発の波を繰り出すようになっていた。元々が母子家庭、しかも母親は水商売で、安定した生活ではなかった。しかしそこに他の男が加わる事で、三人の関係は不思議な均衡を保っていた。

 隆敏おじさんは今まで母親のところに来たどの男とも違っていた。清彦に向かって普通に声をかけてくれ、母親の見ていない所で腹を殴ったり威しをかけてきたり、金を渡し

『お小遣いをあげるから、二三時間外で遊んでいなさい』

と命じる事もなかった。指に指輪もなく、だから少年は素直に

「おじさんが父さんだったら良いのにな」

そう口にした。彼はふふふっと笑い、

「ああ、そうだな。俺も君みたいな男の子の父親になるのが夢だった」

と少年の頭を撫でた。それはとても穏やかな日々の様だった。その男が、自分が密に想いを抱いている夏子の父親だと知った時、彼は愕然とした。小笠原という名前は心のどこかで引っかかってはいたものの、まさかここでつながりが有るとは思いもよらなかったのだ。

 セーラー服のリボンを翻しながら、六月の晴れ間をぬって校庭で練習する陸上部の集団に手を振る夏子。

「これから父さんの車で歯医者に行かなきゃいけないから、先帰るね。じゃ、みんな、頑張ってね〜」

こぼれんばかりの笑顔に、

「お〜、ナッツ。歯医者で泣くなよ〜!」

と返事をする同級生。彼は夏子が自分だけに手を振ってくれているのではないのだと自覚しながら、自分の気持ちが下手に伝わってしまう事がないように肩をすくめ、小さな笑顔で応えた。そして彼女が歩き出し背中を向けた瞬間、やっと

「また明日」

そう語りかけた。練習に戻った仲間達を尻目に、彼女が校門を抜け迎えの車に乗り込む姿を追い、もしかしたら彼女も自分の事を気にしてくれているかもしれない、などと一瞬の甘い余韻に浸りながら。そのはずが、

「嘘だろう?」

彼は体を凍らせた。運転しているのは、そう、母親の恋人でもうすぐ産まれるはずの子供の父親だ。彼は助手席に座った夏子の頭をポンポンと撫で、彼女のためにシートベルトをかけてあげようと身を乗り出していた。清彦はきびすを返し、校庭の裏にある雑木林に駆け込み、気がついた時には胃の中のもの全てを吐き出していた。

『赤ちゃんができたのよ』

満面の笑みを浮かべた母親に、照れ笑いを浮かべる男。窓の外では八重桜が舞っていた。

『おめでとう』

心からそう思い、祝福をする自分。……何もかもが欺瞞ぎまんだった。彼の家族が、彼女の家庭を壊そうとしていた。

「止めてくれ」

その夜、彼は母親に懇願していた。なぜか母親はあの男が妻帯者だと知っていてつき合っていたという確信は有ったのだ。

「人のもの、盗っちゃ駄目だよ」

彼だって、父親が欲しかった。でも

「こんなの、上手くいかない。自分だけ幸せになろうとしちゃ、いけないんだよ」

他人を踏みにじってまでもつかみたい幸せじゃない。しかし勝者になる事を望んでいた明美は、痛む良心を抱える息子を鼻で笑った。

「お前は偉そうにそんな事言うけどね、じゃあお腹の子供に父親は要らないって言うの? この子には幸せになる権利がないって、そう言いたいの? たいした稼ぎはないくせに、言う事だけはご立派な所なんか、お前は実の父親そっくりだね。口先ばっかりで偉そうに。お前が正しいって思っている事は、上っ面だけの綺麗事だから。あたし達が生きていくためにはね、必要なものってのが有るの」

それが“愛情”ではなかった事は確かだった。そして彼には、母親を思いとどまらせるほどの力はなかった。

 その晩、葬儀場から連れ出された明美が他の人達の前に再び姿を現す事はなかった。しかし、会場をかえての振る舞い(通夜や告別式に参列してくれた人と会食をし、故人を偲ぶこと)には清彦が末席で座し、喪主が頭を下げるごとに同じ様な仕草で礼をする姿が有った。

 夏子と雅子は誰かに挨拶をして回るでもなく沈黙を守り、跡継ぎだとかいつこちらに帰ってくるのだとかという言葉には耳を貸さず、曖昧な微笑みでお茶を濁した。そのつましさが人々の同情を買っていた。二人が、注がれる度に酒を飲み干し、上機嫌とさえ見える小笠原本家の強い要望でこの席に着いた事は誰の目にも明らかで、この場においてはみすぼらしいとさえ思える身なりからは、家を追い出された後の仕打ちが伺えた。

 それでも夜がふけ、それぞれが各々の役目を終え、眠りの床につく。夏子と雅子は異を唱える事なく小笠原の実家に泊まった。もともと大きな屋敷で部屋は幾つも有り、その中で昔は夏子の部屋だった一室に母娘は体を横たえた。ほどなくし、夏子は母親の規則的な寝息を聞いていた。会いたくもない人間に囲まれ、娘を守るために平気を装う母親は、どれほどまでに疲れた事だろう。ため息と共に、結局はこれまで自分を育ててくれた母に感謝した。ぐるりと部屋を見渡すと、彼女の持ち物だった机や本棚は一切片付けられているものの、所々ポスターを貼ったりした跡やお気に入りだったカーテンはそのまま残っていて、過ぎた時間を感じさせてくれ−−−眠れなかった。突然左頬の引っ掻き傷がひりりと疼きだし、奇妙な興奮と共に微かな頭痛がこめかみに押し寄せ、気がつくと時計は午前二時を指していている。田舎の街では車の音も聞こえず、セミ以外の全てが寝静まってしまった様な夜だった。

「コンビニ、有ったよね」

来る途中で目にした見慣れた青い看板を思い出し、夏子は財布をつかんだ。この日を限りに“過去と決別をするのだ”という強い意気込みが空回りしている事を自覚し、無性に喉が乾き、何か飲みたい気分だったのだ。

 同じ時刻、離れの一室で夏子と同じようにまんじりともできずに過ごしている男がいた。清彦だ。彼は隣室で睡眠薬を飲みだらしなく口を開けながら寝る母親の顔を思いながら、彼女がつかもうとした幸せとはなんだったんだろう、と、そう思い巡らせた。明美は隆敏が亡くなる前、いまだ旧姓を名乗る清彦に向かって何度も彼の養子になれるよう、全ての決定権を握る隆敏の父を説得するように説得したものだった。

『お前にだって、ちゃんとした父親が必要なんだから』

それが財産目当てである事は、周知の事実だった。隆敏は確かに金持ちの息子では有ったが、資産の持ち主は結局彼の父親なのだ。つまり、夫を亡くなった瞬間、明美が全てを失う事は目に見えていた。こうなると、彼女自身の将来のためにも、どうしても清彦にこの家の人間になってもらう必要が有った。

「それは都合が良すぎるよ、母さん。この家の嫡子は夏子さんだ」

彼は頑にそれを拒んだ。血吸いひるの様にこの家に寄生して生きようとする考え方が嫌いだった。隆敏が気前よく金を出し、彼を東京の金がかかる事で有名な大学に進学させてくれた時も、彼は手放しで喜ぶ事はできなかった。夏子親子の事を思い出す度胸が苦しく、彼女から奪ってしまった幸せを悔やんだ。こんな夜を彼は何度過ごした事だろう。清彦達が越してきた後、新しい家族のためにと離れが増築される事になったのだが、出来上がるまでの一ヶ月、彼はとりあえずとあてがわれた夏子の部屋で暮らしていた。彼女の十二年間の記憶の染み付いた天井を見上げながら、夜毎彼女の事を想った。記憶の中の夏子は一片の翳りも見せず、いつも生き生きと笑っていた。放課後のテニスコートの片隅で

「下級生はいつも球拾いばかりなんだよね」

と言いながら、友人とふざけながら拾った球の数を競い合っていたり。体育館を掃除しながら壇上に立ち、校長先生のモノマネも披露してくれみんなを笑いの渦に誘った。彼女はまるで夏の日差しの下に咲くひまわりのようだった。そして夏子の太陽を曇らせてしまったのが自分なのだ、と夜毎目が覚める思いに駆られた。しかし彼にはどうする事もできない事だった。結局、子供は大人の事情に振り回されるものなのだ。もしかしたら反抗し、家を飛び出すという選択肢が有ったかもしれない。だがそんな事をしたからと言って現状はくつがえる事なく、むしろ悪くなるしかないという事を、彼は理解していた。清彦は水商売の母を持つ子供特有の道理の良さを身に付けていた。そして

『叶わなかった初戀はつこいほど、想い引きずるものはない』

そんな言葉を清彦は思い出す。中一の一学期の終わり頃、彼女と二人で初めて担当していた図書室の整理の時に棚の後ろで発見したイタズラ書き。その時はお互い

「なんだよ、これ」

とか言いながら古めかしい“戀”の文字を笑ったものだった。そして丁度一年後、清彦はその言葉の意味を知る事になる。夏休みを直前にした教室で

「今度花火大会しよう!」

クラスメイトの誰かが提案し、次々にやろうと声があがる。しかし大体においてこういった盛り上がりは勝手な方向に話がそれ、どこか遠くへ流れて行くものだ。彼は友達と別れ水飲み場へと向かった彼女の後をさりげなく追ってゆき、ばくばくと唸る心臓を抱えながら何気ない顔つきで声をかけた。

「さっきの花火の事だけど、本当にやらない? ナッツと俺の二人で」

彼の母親は、妊娠五ヶ月の身重。引き返す事のできない道を歩く。少女が現実を知るまであと少し。いや。もしかしたら薄々気がついているかもしれない。彼はつながるはずがないと分かっているはずの赤い糸をたぐる。

「スタンド・バィ・ミーって映画、知ってる? 友達どうして家を抜け出し冒険する話。俺さ、ああいうのに憧れていてさ」

疑う事を知らない夏子の顔にキラキラとした輝きが灯る。

「映画は知らないけど、いいね、そういうの。清彦、グッドアイデア」

「二人きりで」

「二人きりで」

いたずらっ子の面持ちでくすくすと笑い合った。

「他の奴らには内緒。真夜中にさ、家抜け出して神明社の裏に集合」

清彦は彼女の家の近くにある神社の名前を挙げ、ぎりぎりで有り得る空想を広げる。

「凄い、楽しみ。満点の星空の下でさ、大人に隠れて花火しちゃうのね」

叶わない夢だと知っている少年と、無邪気に信じる少女。

「約束だよ、絶対」

夏子は彼に向かって小指を差し出した。

「ああ、絶対。約束するから」

誰にも聞かれないよう、とっておきの秘密を打ち明ける様なひそひそ声、片頬のえくぼ。清彦は夏子の事を誰よりも綺麗だと思い、醜悪な大人の世界に足を突っ込んでしまっている自分を対極だと感じながら、何も知らない顔で果たせるはずのない約束に頷く。恨まれる事を覚悟し、むしろその事で夏子の記憶に残れるなら本望とばかり。

 あの夏から十四年が経ち、その頃の倍の年齢を生きるほど時間が過ぎた事を知りながら、清彦は想いを越えられずにいた。過ぎ行く時間の中で幾つかの恋をしたはずで、それなりにときめいて、大事にしたいと思う女性と巡り会うチャンスも有ったのだが、と、彼は振り返る。しかし、夏子への気持ちは特別なのだ。それは罪悪感がもたらす影かもしれないと感じる事もある。初恋の甘さより、彼女に対する後ろめたさが忘れられない存在にしているだけだという事だ。

 不謹慎なようだが、夏子がこの次にこの田舎へ帰ってくるのは、小笠原の最後の一人、祖父母の両方が死に絶え縁が切れる日だと清彦は感じていた。彼女にこの家や土地に対する執着はないのだ。というか、むしろこの家から相続するあらゆる全てをきっぱりと否定する事だろう。名前さえも、金さえも。振る舞いの席で酔った祖父が媚びる様に口にした

「二十八にもなって結婚していないってんだから、わしが小笠原に相応しい良い婿を迎えてやるぞ」

の言葉に、

「その話はいずれ改めて」

といかにも大人の模範解答を口にした夏子。しかしその口調はきっぱりと自分の意志を現していた。

『小笠原に頼る気は無い』

と。彼女は自立し、その上で恨みをも捨て去る事ができるのだ。そして彼の気持ちだけが永遠に取り残される。———起き上がった清彦は、何を考えるでもなく縁側に出て下駄を履いていた。林を抜けて行く夜風は心地よく、こうやって、時間と共に何もかもが風化し、あれ程強くいきおどっていた気持ちや後悔や羞恥心までもがやせ細ってくれるかもしれない、そう彼に思わせてくれた。


             続く 

今回一カ所、余分なスペースが有る所が有ります。


『『おめでとう』

心からそう思い、祝福をする自分。』


の部分なのですが、どうしても行を詰める事ができませんでした。

多分システムの都合だとは思うのですが、お許しくださいね。

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