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第二話 松葉:激光 炸裂する火花

 東京ナンバーの右ハンドルのベンツに揺られながら式場までの道を行く。

「葬儀が始まる時間ぎりぎりに着く事になると思います」

彼はそう言ったきり何もしゃべらず、まるで慣れた道でもあるかのようにスムーズに運転を進めた。

 流れて行く景色。時々

「懐かしいわ」

そして

「変わったわね」

雅子が窓越しに呟く。なにしろここに帰ってくるのは離婚して以来初めての事だった。そんな母の気持ちを察し、夏子は何も言えないままバックミラー越しに男の顔を盗み見た。記憶の中にいる野々村清彦きよひこは果たしてこんな顔だったのか、と。そして予期していた事実をこうも早く突きつけられたはずなのに、彼に抱くと想像していた“怒り”や“恨み”の感情が湧き上がらない事に驚き、戸惑った。その密やかな、彼にとっては覚悟していた猜疑心の眼差しを、清彦は鏡の中で受け止めた。すると夏子はハッと目を反らし、自分の殻に閉じこもるかのように体を堅くした。

 仕方のない事だ、彼はそう思いながら用意していた言葉をきわめて冷静に聞こえるように吐き出した。

「私の母は、亡くなった小笠原隆敏たかとしさんの後妻に入った者です」

三人の頭の中に“妻を追い出して”の言葉が走り、重い沈黙が訪れた。誰もが、誰かに次の言葉を担って欲しいと思いながら、言うべき言葉を探し、唇を結んだ。そしてしばらく走り清彦は重い口を開いた。

「噂では聞いていると思いますが、あの時の子は死産でした」

と。

「えっ?」

夏子は反射的に母親の顔を見た。“あの時の子”が十年前の赤ちゃんの話だというのはすぐに分かった。なにしろ、二人が追い出される原因となったのがその子で、夏子にとっては決して罪のない子供を憎んではいけない、そう知りながらも恨みを抱いてしまう悲しい存在で。そのくせ実の弟がいるのだという淡い期待を持たせてくれる数少ない肉親だったのだ。一方の雅子は堅い表情のまま前方を見つめていた。

「母さん……!」

この時初めて、夏子は母がその事実を知っていて彼女には黙っていたという事を知った。母娘の間に緊張感が走り、夏子の頭は混乱した。子供が産まれなかったからって、また元の家庭に戻れるとは思わない。でも当事者として、夏子にだって知る権利は有ったはずなのだから。その張りつめた空気を感じながら、清彦は自分が打ち明けなければいけない話をあえて続ける事にした。

「あれから母は何回か妊娠した様ですがいずれも流産で、結局小笠原の子供を産む事はできませんでした。ですから、夏子さんが小笠原のたった一人の跡継ぎになります」

四十歳を過ぎてなお、産婦人科にかかり子供を授かろうとする母親の姿を見てきた息子だった。投げやりな態度を見せる義理の父親と共に車に乗せ、有名な不妊外来へと連れて行った事もある。三人共もう明美に子供が授かる事はないと知りながら、あえて口に出さず、

『今度こそ成功するに違いないわ。だって、そんな予感がするもの』

はしゃぐ女に男達は無言で笑いかけ、心にシャッターを下ろしていた。

 葬儀場にはすでに沢山の人が集まっていた。清彦の案内で二人が列をかき分け進んで行くと、ひときわ響く声が夏子の名を呼んだ。祖父だった。彼は抹香(不祝儀で使うお香)の立ちこめる場にそぐわない満面の笑顔で彼女を傍に引き寄せると、

「まぁ、まぁ、まぁ。大きくなって。お前は父親にそっくりで美人だな」

と言った。何が“まぁ、まぁ”で、何が“父親にそっくりで美人”なんだよ、そんな怒りが夏子の中で首をもたげる。彼女がこの場に来たのは、あくまで決別を意味しての事だから。だからこそあえて

「お久しぶりです、おじい様」

お前は他人だ、の意を込めて見せかけだけの作り笑いを浮かべる。続いて夏子の後ろで雅子が丁寧に頭を下げた。しかし長い間地元の大将として君臨している老人には、自分がさげすまれているという事実に考えが及ばない。

「お前の席はこっちだ」

強い腕が夏子をつかむ。そして

「雅子さん、あなたは夏子の隣で」

二人はあっという間に周りの人を押し退け最前列まで連れて行かれ、喪主となる年寄りの横で

「これで式が始められる」

の言葉を聞いた。

「えっ、でも、ちょっと」

夏子は激しく動揺した。まさか親族席で参列する事になるとは思いもよらなかったのだ。その上、彼女にあてがわれた場所は祖父の隣。祖母すらも雅子の末席で。何よりも、青白い肌に炎の様な目をした中年の女が二人を食い入るように見つめているのだ。その瞳は見開かれ、首筋に血管が浮かんだ。引き倒された椅子の音が響き、

「ふざけないでよ!」

人々のざわめきは彼女の一言でかき消され、場内は水を打ったように静まり返った。

「何で今更この女が出てくるのよ、いい加減にして! 隆敏の妻は私なの! それなのになんで私が家を追い出された女に席を譲らないといけないの?」

上座につれてこられた瞬間、この展開が起こる危険を察した夏子だったが、いざとなるとそれはまるでテレビドラマの中での出来事の様だった。

「確かに私は小笠原の子供を産まなかったかもしれないけど、でも、隆敏の妻であった事には変わりはないんだからね!」

髪振り乱し、詰め寄る女。この時夏子は、綺麗な人は狂気の人になっても綺麗なんだ、と、どこか上の空でその情景を眺め、傍観者になろうとしていた。しかし女の手が母親に伸びようとした瞬間、あの夏の日の冷たい手の感触が甦り、シャボン玉が弾ける様に目が覚めた。私が守らないといけない。夏子は怯える母の前に素早く立ちはだかり、鋭い爪を顔に浴びながら馬鹿力を振り回す女を押し退けた。痛みを感じる事はない。誰もが狼狽え木偶の坊のように突っ立ってる中で、自分だけが母親を守れる存在だと感じたのだ。

「母さん、止めてくれ!」

がたがたと椅子が引き倒され、むしり取った夏子の髪を指に絡ませながら、自分を押さえつける男に向かって女が叫んだ

「こいつ等はね、私をあの家から追い出す魂胆なんだよ! 血も涙もない人間なんだ! 畜生なんだ!!」

の甲高い声は、目の前にいる夏子を鋭く貫いた。彼女の体の中で、本来ならば亡くなった父に向かうはずの怒りや自分達を追い出した祖父母への憤り、初めて知った母の隠し事に対する行き場のなかった感情が膨れ上がる。

「このっ……!」

拳を固めたその時、間髪を入れず

「母さん、止めてくれ!」

明美をつかんでいる息子の悲壮な声が葬儀場に響いた。

「母さんがそれを言っちゃいけないんだ!」

この場にいる誰もが知っている事だった。妻から夫を奪い、子供を捨てるように仕向けた彼女こそが家を追い出されるべきなのだと。そして

『天罰』

の一言を、いつかどこかで彼女に言ってやりたいと思っている観衆がそれぞれの肩越しに未亡人の動向を見つめていた。

 いっそこのまま絞め殺せたら、自分も母親も、そして全ての人間が幸せになれるかもしれない、そんな危うい妄想を胸に抱きながら彼は母親を外へと連れ出す。

「落ち着こう、な、母さん」

彼は歯を食いしばり、力の抜けかかった女の体を自分の車の中に押し込んだ。車中には夏子のものと思われるほのかに甘酸っぱい香りが漂っていて、二人がまとっていた線香の香と混じり合い

「俺だって、泣きたいよ」

彼さえも肩を落とし、親子は互いに抱き合い身を寄せた。


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