第一話 牡丹:着火 ぷっくりと膨らむ赤い花
恋愛遊牧民様 http://g-nomad.com/
の短編企画参加作品です。
お題は ひと夏の想い出 お楽しみくださいね♪
予兆が有ったのは、梅雨に入りはじめの頃だった。いつもは明るく朗らかな夏子の母が、滅多にかかってくる事のない固定電話を受けた瞬間、声のトーンを変えたのだ。
「ご無沙汰しております」
それはとても慇懃で冷ややかな音だった。普段の母らしくもないと感じながら、彼女はアイロンがけの手を休め、46歳という年齢よりも若々しい、ほっそりとした背中を見つめた。
夏子の両親が離婚したのは、丁度彼女が中学二年の夏の終わり。蝉がジリジリと大地を揺さぶり、足下から陽炎が沸き上がる灼熱の午後だった。
「皆様、お元気で」
もう顔も忘れた父親とその両親に向かって母が深々と頭を下げ、彼女はその様子を一歩下がった場所から眺めていた。小笠原家の大きな門の内側に立つ三人は、返礼のお辞儀をすることもなくくるりときびすを返し、クーラーの効いた家の中へと帰ってゆき。
「じゃあ、行きましょう」
母は済まなそうに頭を垂れ、娘の手を引いたのだ。もう十年以上前の話だ。その瞬間の母親の異様なほど冷たい手の感触を夏子は今でもはっきりと覚えていた。
あれ以来、雅子は女手一つで夏子を育てたと言っても過言ではない。だからといって彼女は愚痴をこぼすでもなく笑顔を浮かべたまま必死に働き、それ故に夏子は母親の代わりになって、二人を捨てて他の女へと走った父親を、男の子を望み嬉々として二人を追い出した祖父母を、そして運良く父親の子供、しかも男の子を孕んだその女を、憎んだ。
だから今更、その父親が若くして末期がんにかかり余命数週間と告げられ
『娘に会いたがっているらしい』
と言われても、
「冗談じゃない」
夏子は首を振り、同時に湧き上がる
“罰が当たったんだ”
の言葉を喉元で堪えた。母親は受話器の送話口を手のひらで抑えながら困ったように言葉を探し、口を開きかけた。当の本人が、絶対会いたくないと思っているものを無理に行かせる事はできないから。
「仕事が忙しいから、そんな簡単に行く事なんかできないって伝えて」
夏子は困っている母に投げ捨てるように言った。それは間違いじゃない。この就職難の時代、身元の保証の不確かな母子家庭の子供がきちんとした仕事にありつけ暮らしていけるのは、運が良いとしか言いようがなかった。ムリに休暇をとるなんてできないのだ。
「だってそうでしょう、母さん。私達はあの人達と違って、働かないと食べていけないんだもの。“娘は普通の勤め人だから、休暇の申請には時間がかかります”って断って」
死んだからといって、あの父親の財産なんか要らないと思った。米すら買えず、小麦粉に刻んだキャベツと卵を加え焼いただけの食事を繰り返す日々はもう過去のもの。雅子と夏子の母子は自立し、プライドを支えに生きてきたのだから。そんな娘の気持ちを察し、母親はやんわりと、それでいてきっぱりとその話を断った。
受話器を置いた母に
「あんな男の事なんか気にしないのよ」
夏子は努めて明るく聞こえる声で話しかける。
「もう他人なんだから。それよりこの週末、広田さんと温泉に行くんでしょう?」
広田というのは母親の年下の恋人だ。彼はどちらかと言うと不器用なタイプの男で、夏子に対してもいつも微妙な敬語で話しかけてくる憎めない男だった。
「しっかり肌のお手入れして、気分はつらつでで出かけなくっちゃね」
父親につけられた心の傷が拭いきれず、いまだに男性不信を引きずる夏子と違い、雅子は少しつづ幸せをつかもうとしている。
「だから頑張って!」
微笑む返す母に夏子は心からのエールを送り、遺伝子上の父親の事はすっかり忘れ去っていた。
そのはずが、明日にはお盆休みに入ると喜んでいたその夕方に訃報は届いた。
「たった今、亡くなったんですって」
これと言って予定もなく、親子でお盆の人気のない東京の街で遊ぼうかと意気込んでいた矢先の事だった。
「昔から“村八分”って、言うでしょう?」
娘に向き直った雅子の口調には、密かな決意が有った。
「火事と葬式だけは別だって」
引き結んだ口元。
「まさか、母さんはあの男の葬式に行くって言うの?」
冗談じゃない。夏子は思った。朧に覚えている高くて威圧的な塀、迷子になりそうな長い廊下、湿った土間の臭い。広くて冷たい畳敷きの応接間。雅子や夏子に向かって
「これだから女は」
と罵声を浴びせる祖父と、それを見て見ぬ振りをする父親。頷く祖母の影。
「あんな家になんか、帰りたくなんかない」
言葉に出し、その瞬間自分がいかにあの家に縛られているかに気がつく。そう、夏子は確かに“帰る”そう言ったのだ。結局彼女の中で、あの忌まわしい家は自分が過ごした家に変わりはないのだ。うつむく娘に向かって、母は噛みしめるように語った。
「だから、最後のお別れをしに行きましょう」
と。
帰省ラッシュで込み合う電車に揺られながら、夏子は考えた。確かに、あの家には嫌な思い出が沢山有った。しかし一歩外に出て学校に行けば、楽しい思い出が山のようにちりばめられていた。両親が離婚し現実を知らされるその瞬間まで、確かに夏子の青春は生きていたのだ。だが、それがいけない。頭に浮かぶ友達の笑顔と笑い声。ふざけ合い、名前を呼び合いながら他愛もない事に喜ぶごく普通の日々。数々のシーンが胸の中をよぎり、あの頃の自分がまるで完璧な幸せに包まれていたかのように感じてしまうのだ。そして甦る、ひょろりとした少年のシルエット。小さく肩をすくめながら、そっと手を振る見慣れた仕草。眩しげな瞳と、じわりと浮かぶ、はにかんだ様な表情。あの彼に再び会う事になる。夏子はそんな、確信にも満ちた予感を胸に抱いていた。
ようやっと辿り着いた郷里の駅は、沢山の紙袋を抱えた人達で溢れかえっていた。人が多くいる所為なのか猛暑の所為なのか分からないむっとする空気に包まれ、二人は思わず足を止めてしまい、
「嫌なとこ、来ちゃったね」
呟く夏子に
「そこを乗り越えるって事が、大人になるって事なのかもよ」
母親は案外明るい口調でそう言った。そのけなげさに
「うん、そうだね」
唇だけの笑顔を見せながら、夏子は頷いた。
駅に降り立った彼女が着ていたのは、昨日の夜にユニケロに駆け込み買ってきた“とりあえず黒”のワンピースとレギンス。電車の中で着替えた。今の彼女の生活では、電車代を出すのが精一杯。こんな日だというのに、きちんとしたフォーマルスーツさえ用意する事ができないのだ。その全て元凶とも言いえる父親の葬儀に出るなんて。爽快感に辿り着くにはほど遠い、噛み砕く事のできない気持ちが踊った。
父の浮気相手は、繁華街の外れにある“クラブ”と言われる類いのお店で雇われママをしていた。と言っても本当なのかどうかは分からない。それはまだ中学生の夏子に、あまり耳に入れないように気をつけながら母方の親族が囁いていた言葉だった。
『随分なべっぴんさんで、夏ちゃんと同じ歳の子供がいるとは到底思えない』
『それにしても男に困った事のないような女だから、腹の子が、本当に本家の息子の子供かどうか、怪しいもんだ』
ひそひそと伝わる響きと、聞かれている事を意識しているこっそりと盗み見する目つき。それは日頃夏子に良くしてくれていると感じていた親族からあてがわれた、見て見ぬ振りを学ぶと言う大人独特の通過儀礼の様だった。
「こっちよ」
そんな奇妙な思い出に浸っていた夏子に母親が声をかけ、新しくなって様変わりした駅の案内を指差した。
葬儀が始まるのは十一時からだと連絡をくれたのは、祖母の妹を名のる女性からだった。遠方から行くのでギリギリに着く事になると言う二人に、先方は車を向かわせると上品な猫なで声で言った。タクシーで行くからと渋る夏子に、相手はどうしてもと食い下がり、その上最後は
「ごめんなさいね、これから打ち合わせが有るものですから、ごめんくださいまし」
と電話は切られてしまっていた。耳元で繰り返される通話終了のトーンは、是が非でも葬式に来いと言う無言のプレッシャー。だからこそ彼女は
「行ってやろうじゃないの」
と腹をくくった。かといっておとなしく迎えの車に乗ってやる事はないのだ。きょろきょろと周りを見渡して人を捜す仕草さえしてやるものかと思い、足早に改札を抜け、タクシー待ちの列に並ぼうとした。とその時、二つある出口の片端で、見るからに品の良いブラックスーツの男が動いた。歳の頃は夏子と同じ位だろうか。社会人というには髪は少し長めで、この季節だというのにパリっと糊の利いた長袖のワイシャツを着ていた。その彼は夏子が気づくよりも早く彼女の目の前に姿を現し、戸惑う女二人組の前でほんの少し背筋を伸ばした後、夏子の瞳をじっと見つめた。
「あっ!」
“もしかして……”
彼女の顔に驚きが浮かぶ。彼はそれを振り払うように
「お待ちしていました」
躊躇わずにしっかりと頭を下げた。
「野々村と申します。小笠原の家からたまわって、道下雅子さんと夏子さんのお迎えに参りました」
声は深くて鮮明。あげたその顔は、ハンサムと言えばハンサムで、韓流が好きな雅子にとっては120点の顔立ちだった。しかし男はにこりともせず、イケ面などという軽い言葉はけっして寄せ付けることのない雰囲気を醸し出していた。
続く
* タイトル“花火線香” は “線香花火” の間違いでは? と思われた方もいらっしゃると思います。いえいえ、あえて、“花火線香”です。
語感、とでも言いましょうか。このお話では、花火という言葉が持つ艶やかさより、線香という言葉が持つ重たさが漂っていると感じています。
とはいえ、ラストに後味の悪さを残す予定はないので ♪ その点に関しては安心してお進みくださいね♡