じょしょう
『アカシア』
静まり返った海底の深淵で、投光灯が照らせるのは、せいぜい三メートル先までだった。
十名の隊員が、闇の中をゆっくりと進んでいく。
彼らは訓練を受けていた。低温、水圧、極端に限られた視界の中で隊形を維持する方法も、通信に遅延が生じ、視界が奪われた状況で危険を判断する方法も知っている。
それでも、この海は彼らにとって未知だった。
地図に残された記録はあまりにも少ない。
まるで誰かが意図的に避けたかのように。
あるいは、ここに入った者たちが、誰一人として戻らなかったかのように。
隊長はマスク内に浮かぶ数値を確認した。
水圧、安定。
通信、安定。
生命反応、安定。
音だけが、深海に何層も押し潰されているように薄かった。
それ以外は、すべて正常だった。
最初、潮の流れはほんのわずかに変わっただけだった。
海中を漂う細かな粒子が、ゆっくりと向きを変える。投光灯の光の中を流れていく白い点が、見えない何かに引かれるように、一つの方向へ滑っていった。
隊長は動きを止め、片手を上げる。
隊は速度を落とした。
誰も声を出さない。
深海には、装備が駆動する低い振動音だけが残っていた。
三番は部隊のソナー担当だった。
隊列のやや前方を進み、安定した光で岩壁と海底をなぞっている。投光灯は短い距離だけ闇を切り裂き、すぐにさらに濃い暗黒へ呑み込まれていった。
次の瞬間、流れが速くなった。
粒子は同じ方向へ流され始め、光の筋さえも水中でわずかに傾く。
隊長は眉をひそめた。
「全員、停止」
その声が通信回線に流れた直後、三番の投光灯が不意に左へ逸れた。
光が闇の中で白い弧を描く。
まるで見えない手に、強く引きずられたようだった。
三番の姿は視界の端に一瞬だけ揺れた。
次の瞬間、彼は隊形から引き剥がされ、三メートル先の闇へ消えた。
通信には悲鳴が入らなかった。
短いノイズだけが鳴った。
隊長はすぐにその方向へ向き直る。
「三番、応答しろ」
返事はない。
「三番、ソナー状況を報告しろ」
それでも返事はなかった。
全員の投光灯が一斉に左側を照らす。
闇は、何も変わらないままそこにあった。
隊長は、自分の呼吸が重くなっていることに気づいた。
「隊形を縮めろ。散るな」
残った隊員たちは即座に寄った。
動きは速く、正確だった。
五番は隊列の最後尾で後方警戒に当たっていた。隣の隊員の安全具を固定しようと手を伸ばした瞬間、彼の身体が不意に後ろへ沈んだ。
次の瞬間、五番は闇の中へ引きずり込まれた。
彼は隣の隊員をつかもうと手を伸ばしたが、指先は相手の手袋の端をかすめただけだった。投光灯が水中で何度か回転し、漂う粒子を白く照らす。
そして、消えた。
「五番!」
またノイズが走った。
隊長はレーダーを確認する。
敵影はない。
ソナーの画面は、巨大な圧力に踏み潰されたように乱れていた。線はすべて歪み、意味を持たない波形に変わっている。
流れはさらに速くなった。
七番。
八番。
二番。
光が一つ、また一つと隊形から引き剥がされていく。
消える直前、それぞれの投光灯が海中の粒子を短く照らし、それから完全に闇へ沈んだ。
影はない。
輪郭もない。
咆哮もない。
隊長には、何も見えなかった。
通信回線に残る呼吸音だけが、少しずつ減っていく。
九番は彼の副官だった。
出発前、九番は全員の装備を確認し、この海域の地図を信用しすぎるなと釘を刺していた。その声は落ち着いていた。まるで、ただ一つの危険項目を共有しただけのように。
その九番の生命反応が、突然消えた。
隊長は振り返った。
投光灯が周囲を掃く。光は海水の中を短く切り開き、すぐに深海へ呑み戻された。
何だ。
誰だ。
どこにいる。
問いだけが頭の中に浮かぶ。
けれど、そのどれ一つとして口に出せなかった。
どこを見ればいいのかさえ、分からなかった。
流れは四方から押し寄せているようでありながら、同時に一つの場所へ収束しているようでもあった。
海中の粒子。
気泡。
折れた装備の破片。
すべてが、同じ闇へ引き寄せられていく。
隊長は武器を握り締めた。
だが、狙う場所がない。
最後の隊員の光が、すぐそばで消えた。
通信回線には、彼自身の呼吸音だけが残った。
そして、流れが止まった。
いや。
正確には、海水そのものが動かなくなった。
すべての粒子がその場に留まり、気泡は押さえつけられたように浮かんでいる。装甲の外側をこする、わずかな水流の感触さえ消えていた。
隊長は深海に立っていた。
何も見えない。
それでもその瞬間、彼は思った。
もう前を見てはいけない。
本当に近づいているものは、最初から前方になどいなかったのかもしれない。
海水が止まった、その同じ頃。
海岸から遠く離れた感染樹林では、別の小隊が逃走を続けていた。
二十名の先駆者が、腐食した木々の間を駆け抜ける。足元の泥は粘ついた液体を吸い込んだように重く、一歩踏み込むたびに鈍い音を立てた。
木の幹には灰白色の脈がびっしりと走っている。
まるで皮膚の外側に血管が浮き出ているように、夜の中でかすかに脈打っていた。
背後から、卓越種の犬型核獣が追ってくる。
その四肢は長く、太く、走るたびに胴体が地面すれすれまで沈む。腐った木々を突き飛ばすたび、感染林全体が震えた。
遠くで、重い破砕音が響いた。
腐食した巨木が、途中からへし折れる。
「振り返るな!」
隊長の声が通信回線で弾けた。
誰も振り返らなかった。
全員が、その犬型核獣の息遣いを聞いていた。
低く、荒く、壊れた送風機を無理やり動かしているような音。
距離は近い。
おそらく、木々を数列挟んだ先にいる。
また、重い音が響いた。
隊列の前方が速度を上げる。後方の者たちは、恐怖に背中を押されるように走っていた。
やがて彼らは最も密集した林を抜け、少し高くなった腐木の斜面へ辿り着いた。
犬型核獣の音は木々に遮られたのか、少しだけ遠く聞こえる。
何人かが膝をつき、肩で息をした。
別の者は振り返り、人数を確認する。
「長く止まるな」
隊長は声を低くした。
「まだ近くにいる」
その言葉が終わる前に、一人の隊員が前のめりに倒れた。
悲鳴はなかった。
抵抗もなかった。
糸を切られた人形のように、ただ泥へ崩れ落ちた。
近くにいた隊員が一瞬固まり、すぐに手を伸ばす。
だが、その手が触れる前に気づいた。
倒れた隊員の首に、細長い裂け目が開いていた。
あまりにも綺麗だった。
犬型核獣の爪や牙でできる傷ではない。
「ここに何かいる!」
通信回線が一気に乱れた。
遠くで、また巨木の折れる音がした。
二人目が倒れた。
今度は全員が見ていた。
その隊員は警戒姿勢のまま立っていた。だが頭だけがわずかに傾き、首筋の傷口から、一拍遅れて血が滲み出す。
まるで身体が、自分が切り裂かれたことに遅れて気づいたかのようだった。
攻撃者の姿は見えなかった。
三人目。
四人目。
五人目。
倒れる位置はばらばらだった。
だが、傷口はどれも同じように整っていた。
犬型核獣は、まだ遠くで木々を破壊している。
人を殺しているものは、そこにはいなかった。
隊列は崩壊した。
左へ逃げる者。
斜面を下る者。
何もない樹林へ向かって発砲する者。
銃声、呼吸音、通信のノイズ、遠くの破砕音。
すべてが混ざり合った。
また一人、倒れた。
やがて、樹林の中で走り続けているのは二人だけになった。
男は女の手を引き、倒れた腐木を越えていく。
女の呼吸はすでに乱れていた。足取りもふらついている。男はもっと速く走れるはずだった。それでも、何度も足を止めて彼女を待った。
「もう少しだ」
男は言った。
「もう少しだけ進む」
女は答えない。
ただ、彼の手を強く握り返した。
背後の音は少し遠ざかっていた。
だが、男は止まれなかった。
二人が低い感染枝の群れを抜けようとした時、女が突然転んだ。
男はすぐに振り返る。
泥の中から伸びた根が、女の足首に絡みついていた。表面には灰白色の脈が走り、生き物のように何重にも締めつけている。
女は歯を食いしばり、足を引き抜こうとした。
抜けない。
男はナイフを抜き、根に叩きつけた。
刃は木質に食い込んだ。
だが、それは植物というより、強靭な筋肉を斬っているようだった。根はわずかに震えただけで、さらに強く締まる。
遠くから、低い息遣いが聞こえた。
犬型核獣が近づいている。
男は元素兵装に持ち替え、根を狙って連射した。焦げた裂け目が表面に走る。だが次の瞬間、さらに細い根が泥から這い出し、女の脚を絡め取った。
「行って」
女が言った。
男は聞こえていないかのように動き続けた。
斬る。
引く。
手袋が根の棘に裂かれ、指の関節が硬い木質にぶつかる。血が泥に混じった。
「行ってって言ってるの!」
女の声が震えた。
男は顔を上げた。
女の目には涙が溜まっていた。
彼女は男を見つめていた。
その言葉を口にするために、全身の力を使っているようだった。
「切って」
男は凍りついた。
「無理だ」
「切って」
女は言った。
「じゃないと、二人とも死ぬ」
遠くで、また重い破砕音が響いた。
男はナイフを握った。
手が震えて、刃先が定まらない。
彼は女を見た。
それから、根に呑まれた脚を見た。
女は彼の襟をつかんだ。
「私を見て」
彼女は言った。
「やって」
男は目を閉じた。
しばらくして、彼は従った。
男は女の傷口を処置した。止血剤を押し込み、戦闘服の緊急封鎖帯で断面を固定する。
すべてを終えたあと、彼は女を背負い、さらに樹林の奥へ走った。
彼は彼女を置いていかなかった。
一歩ごとに砕けた骨を踏んでいるような痛みがあっても。
背後に犬型核獣がいるかもしれなくても。
小隊の生き残りが、もう二人だけになっていたとしても。
彼は彼女を置いていかなかった。
二人は長い時間、逃げ続けた。
長すぎて、男は自分が走っているのか、それとも恐怖に押されて前へ倒れ続けているだけなのか、分からなくなっていた。
背中の女の呼吸は浅かった。
あまりにも浅い。
ふと、男は違和感を覚えた。
彼女は泣き叫んでいない。
暴れてもいない。
たった今、片脚を失った人間が、こんなに静かでいられるはずがない。
だが、考える時間はなかった。
夜はさらに深くなり、感染樹林の光は腐葉に吸い込まれていく。
背後の追跡音が完全に消えてから、男はようやく倒れた巨木のそばで足を止めた。
彼は女を木の根元に下ろした。
女は腐木にもたれ、顔色は蒼白だった。額には汗が浮かび、呼吸は途切れ途切れだった。一息吸うたびに、喉を何かで削られているような音が混じる。
男は彼女の前に膝をつき、封鎖帯を確認し直した。
「もう少し耐えろ」
彼は言った。
「血は止まってる」
女は小さく頷いた。
けれど、言葉は返さなかった。
ただ、男の手を握っていた。
強く。
指先は震えていた。
長い沈黙のあと、男はどうにか立ち上がった。
「周囲を確認してくる」
彼は言った。
「すぐ戻る」
女は顔を上げた。
目にはまだ涙が残り、唇は痛みで白くなっていた。
「遠くに行かないで」
男は頷いた。
彼は少しの間、その場を離れた。
樹林に虫の声はない。
風の音もない。
遠くで聞こえていた犬型核獣の息遣いさえ、夜の中から拭い去られたように消えていた。
男が戻ってきたとき、女はまだ同じ場所に座っていた。
背を向け、うつむいたまま、痛みに耐えるように肩を震わせている。
男は足を止めた。
遠くの樹林で、何かが腐木を踏み砕くような重い音がした。
彼は反射的に闇の奥へ目を向ける。
何も見えない。
揺れる木の影だけがあった。
女が、かすれた声で彼の名を呼んだ。
男は振り返った。
彼女はまだそこに座っていた。
うつむき、痛みに耐えるように肩を震わせている。
その光景に、分かりやすい異常はなかった。
声は彼女のものだった。
姿勢も彼女のものだった。
痛みに息を詰まらせる、かすかな呼吸音でさえ、男の記憶にある彼女と同じだった。
だが、その瞬間。
男の背筋が、急に冷えた。
何かを見たわけではない。
もっと原始的な感覚が、理性より先に身体の奥から這い上がってきた。
指がこわばる。
喉が締まる。
心臓を、氷のように冷たい手で押さえつけられた気がした。
どこがおかしいのか、言葉にできない。
顔に破綻はない。
声にも破綻はない。
むしろ、彼女は彼女に似すぎていた。
あらゆる細部が正しい位置に戻されている。
それなのに、生きている人間から決して抜け落ちるはずのない何かが、そこにはなかった。
男は一歩、後ずさった。
女が顔を上げる。
「どうしたの?」
男は答えなかった。
理性はまだ理解しようとしている。
だが身体は、すでに判断を下していた。
逃げろ。
今すぐ逃げろ。
女の声が震えた。
「何を感じたの?」
その一言で、男の顔色が変わった。
彼は背を向け、走り出した。
「やめて!」
女の声が夜を裂いた。
「置いていかないで!」
男は振り返らなかった。
背後で、女が彼の名を呼び続ける。
一声ごとに鋭く。
一声ごとに悲痛に。
それは責める声ではなかった。
恐怖に完全に押し潰された人間の声だった。
男はさらに速度を上げた。
背後から、女が身体を引きずる音が聞こえた。
追おうとしているのか。
それとも、両手だけで泥の上を這うことしかできないのか。
腐葉が掻き分けられ、泥水が跳ね、途切れ途切れの泣き声が荒い呼吸に混ざる。
「戻って!」
女は泣き叫んだ。
「お願い、戻って!」
男の足が乱れた。
ほんの一瞬、止まりかける。
もしかしたら、自分の感覚が間違っていたのかもしれない。
暗すぎただけかもしれない。
恐怖が、理性より先に身体を裏切らせただけかもしれない。
次の瞬間、女の泣き声がぷつりと途切れた。
樹林が、一瞬だけ静まり返る。
数秒後。
苦痛で歪みきった悲鳴が、男の背後で爆ぜた。
人間が出せる声とは思えなかった。
骨が噛み砕かれるような。
肉が裂かれるような。
生きた何かが、見えない闇の奥へ引きずり込まれていくような声だった。
女は男の名を叫んだ。
そして、その声は唐突に途切れた。
男は立ち止まった。
呼吸が喉で詰まる。
振り返らない。
振り返れない。
背後には、泥水がゆっくり滴る音だけが残っていた。
男はその場に立ち尽くし、全身を震わせた。
自分がさっき感じたものが何だったのか、分からなかった。
逃げた相手が、本当に彼女ではなかったのかどうかも分からなかった。
もし感覚が間違っていたのなら。
自分は今、彼女を闇の中へ置き去りにしたことになる。
その思考が、氷の針のように脳へ突き刺さった。
男は歯を食いしばり、無理やり足を動かした。
腐食した巨木の陰へ走り込み、ほとんど転がるように泥の中へ倒れ込む。
彼は通信端末を開いた。
指が震え、何度も入力を間違えた。
何かを残さなければならなかった。
自分を証明する何かを。
画面が灯る。
彼は入力した。
「俺は彼女を見捨てたんじゃない……感じたんだ……」
その先を打つ前に。
遠くから、ごくかすかな風切り音がした。
次の瞬間、通信端末が男の手から滑り落ち、泥の中へ落ちた。
画面のメッセージは、送信されていない。
感染樹林は、再び沈黙した。
未送信の文字だけが、泥水の中でかすかに光っていた。




