どうぞ病弱な王妃様を優先されて下さい ~最愛を「どうせ形だけの妻だ」と言い捨てた前王弟陛下の末路~
※構成上、視点が以下の順で切り替わります。
前半:王弟殿下(男性視点)
中盤:妻(女性視点)
後半:辺境伯(男性視点)
「どうせ形だけの妻だ」
そう言って、オレは妻を他国へ差し出した。
そしてその日、オレはすべてを失った。
恋なんてくだらない。
巷に溢れる『真実の愛』など、一時の劣情に、実に不釣り合いな名前をつけただけの紛い物だ。
愛とはもっと静謐で、ただ相手を思いやるもの。
そう信じていたオレは、在学中、婚約破棄を巡る騒動に身を置き、やがて破綻して社交界から姿を消していく下俗な連中を、冷ややかに見下してきた。
自分の感情を制御できず、愛という名の欲望を撒き散らす彼らとは違い、オレだけは『本当の愛』を知る理性的で高潔な人間であると、オレは実に傲慢にも、オレ自身のことをそのように思っていた。
そんなオレにとって、四つ下の甥である王太子の婚約者選びのパーティーで、甥に媚びるように笑う女性陣は、不快感以外の何物でもなかった。
彼女たちの笑顔の裏にあるのは、ただの自己顕示欲で、愛でも何でもない。
そうと決めつけ辟易していた時だ。
甥を取り合う輪から離れ、噴水の側で静かに本を読む一人の伯爵令嬢――セシルを見つけた。
こんな場所まで来て、いったい何の本を読んでいるのだろう。
そう思い、彼女の手の中にある本を思わず覗き込んだ瞬間、思いがけず勿忘草の瞳と至近距離で目が合った。
その澄んだ色に、しばらく目を奪われる。
「申し訳ございません!」
驚いた彼女がそう言って、パッと立ち上がりその場を離れようとしたので、慌てて呼び止めた。
叱られるとばかり思いこんでいる彼女に対し、自分も学生の頃に読んだ本だと告げれば、彼女は途端に破顔して、それどころか
「本当ですか!? 友人には誰もこの本の面白さを分かってくれる人がいなくて。あの、質問よろしいでしょうか!!」
と、パーティーに戻るどころか、オレに向かい実に小難しい質問を活き活きと矢継ぎ早に投げかけてきた。
暫く相手をしてやった後、ところでこんな場でこんな話をしていいのかと呆れて問えば、彼女は
「私は体が弱く、爵位も高くありませんから。もともと及びではありません」
と、あっけらかんと笑った。
聞けば、彼女の母は甥の乳母を務めており、甥とは幼なじみのような関係らしい。
彼女と過ごす時間は、気の置けない同性の友人と議論していた学生時代のような、そんな存外悪くない時間だった。
そして、そのような時間を過ごす内、彼女ほどの博識な人物を、体が弱いという理由だけでみすみす逃すのは、王家にとって損失でしかないと思った。
十八にもなって婚約者がいないところを見るに、彼女は相当な変わり者として周囲から持て余されてきたのだろう。
ならば、自分がもらい受けてやればいい。
幸い、オレにもまだ婚約者はいない。
身分差も、臣籍に下る自分とはそう問題にはならないだろう。
そうと決まれば、王太子妃が決まった後、伯爵家に婚約を申し入れよう。
そう、思っていたのだが――
王太子妃に選ばれたのは、彼女だった。
後で知ったところ、甥が彼女に長く懸想していたのは、周知の事実だったらしい。
うまくいくはずがない。
まして賢い彼女が王太子妃という重責を受け入れるはずがない。
そんなオレの予想に反して、結婚式で彼女は幸せそうに笑っていた。
それから八年――
独り身を通したのは、ただ他に選ぶに値する相手がいなかっただけだ。
そんなある日、侯爵令嬢ティエナとオレの政略結婚の話が持ち上がった。
ティエナは王妃となったセシルの従妹で、実家の伯爵家とは別の派閥に属するものの、二人は仲が良く、セシルの基盤を整えるに都合がよかったらしい。
ティエナと初めて会った時、オレは思わず言葉を失った。
従妹というだけあって、その美しい勿忘草の瞳が、あの日のセシルのものに、あまりによく似ていたのだ。
年頃も、初めて会った頃の彼女と同じ。
――その既視感に、不快感に似たざわつきを覚えたオレは、思わず反射的に目を眇めた。
「子供の頃、暴漢から助けていただきました。覚えていらっしゃいますか?」
そう言われて、そんなこともあったなと思い出す。
「その時より、ずっとお慕いしておりました」
無邪気なその言葉に面食らい、咄嗟に沸いて出たのは拒絶感だった。
「子供だな」
そう呟いた瞬間、その言葉が妙に腑に落ちて、胸のざわつきがようやく収まるのを感じた。
そうだ。
彼女は子供なのだ。
そう定義してしまえば、彼女をセシルの身代わりとして見る必要も、女として意識する必要もなくなって。
そこでようやく、十二も年の離れた男の元に嫁がされる彼女を哀れに思う余裕が出てきた。
彼女がいずれ本当に愛する相手を見つけた時、自分との婚姻が足かせにならぬよう、『白い結婚』を条件に挙げた。
周囲は実に不満げな様子だったが、オレに生涯独身を通されるよりはマシだと、渋々それを了承した。
容姿が似ているとはいえ、セシルとティエナの間に、もちろん違いは沢山あった。
その中でも、決定的に違っていたのは、オレに対する態度だった。
本の話以外はそっけなかったセシルとは違い、ティエナはどんな話題の時でも真っ直ぐこちらを見てくる。
オレは、その澱みのない眼差しが、どうにも苦手だった。
ティエナとの、どこかままごとのような結婚生活が始まってからも、オレの心は外を向き続けていた。
王妃となったセシルが発作を起こして床に伏せるたび、オレは公務を放り出し、彼女を見舞い、そんなオレに、セシルは冷ややかな困惑を隠さなくなった。
「何度も申しあげているように、このようにしていただく必要はありません」
甥である王太子も公務を優先するよう幾度となくオレを諫めたが、オレはそのすべてを無視した。
忠告も、拒絶も、オレの耳には届かない。
こうでもしていなければ、空っぽの部屋で一人オレだけを待つティエナの、あの真っ直ぐな瞳に全て見透かされ、焼き殺されてしまいそうだったからだ。
オレが本当に欲しかったのは、セシルと共に過ごす時間ではなく、あの汚れのない眼差しから逃げ出すための、もっともらしい口実だったのかもしれない。
そんな日々が三年も続いたある日――。
いつものようにセシルを見舞おうとするオレに、甥はついに、これまでで最も厳しい言葉で道を塞いだ。
苛立ちに任せ、
「そんなに言うのなら、お前が公務など放り出してセシルの側にいればいいだろう」
と吐き捨てたオレに、甥は激高した。
隣国が、平和の対価としてティエナを望んでいること。
その要求を退け、国を守るために、自分はセシルの側にいたくてもいられないのだと。
「なら、くれてやればいいだろう! どうせ、形だけの妻だ!!」
売り言葉に買い言葉だった。
その言葉を吐いた瞬間、自分でも驚くほどの激痛を伴い、心の一部が悲鳴を上げたのを今でもよく覚えている。
三年の月日は、オレの預かり知らぬところで、彼女の存在を日常に深く、深く刻み込んでいたのだ。
相変わらず白い結婚のままだったが、彼女を誰かに渡すなどという発想は、いつの間にかオレの中から、とっくの昔に消え失せていたというのに……。
「……叔父上は、本当に、それでよろしいのですか?」
一度振り上げたプライドを下ろす術を知らなかったオレは、そんな呆れ果てたような甥の言葉に、ただ癇癪を起こした子供のように。
「はなからそのつもりだ!」
そう言い捨てることしかできなかった。
甥は長いこと黙った後、静かにそれを受け入れた。
誰かが止めるかとも、ティエナが泣いて拒否するかとも思ったが、そうはならなかった。
そうして条約は結ばれ、ティエナがオレの元を去るのと引き換えに国は強い後ろ盾を得て、甥はようやくセシルの傍に戻った。
翌年、隣国主催の夜会で、オレはティエナを見つけた。
思わずその名を呼びかけようとした瞬間、彼女と目が合うよりも早く、一人の男がその視線を遮った。
リグランド辺境伯――今のティエナの夫だ。
仮面で目元を隠したその男は、無造作に、だが確固たる意志で彼女の視界を奪うと、オレから隠すようにその背へと彼女を誘い、あっという間にダンスの輪の中へ連れ去ってしまった。
彼の年の頃は、オレよりも少し上だろうか。
『実に悋気な男だ』
そう心の中で嘲笑おうとして、けれど、どうしても上手く出来なかった。
代わりにダンスの輪に目を向ければ、オレにはもう二度と入ることのかなわないその輪の中で、ティエナが実に楽しそうに笑っているのが見えた。
彼女はもう、オレの手の届かない、新しい幸福の中にいる。
そう理解した瞬間、声に出しかけていた彼女の名を飲み込んだ。
彼女の勿忘草の瞳が柔らかく細められるのを遠くに見て、胸がひどく痛んだ。
勿忘草の花を見て思い出すのがセシルではなく、ティエナになっていたこと。
何かあった時、真っ先にその顔を見て、言葉を交わしたいと思う相手がティエナに変わっていたこと。
そんな変化に気づくのが、あまりに、あまりに遅すぎた。
それはすなわちオレが、救いようもなく愚かだったというだけのこと。
ただ、それだけ。
そう頭では分かっているのに。
それから何年経っても、どれほど戦場を彷徨っても、どうしても心が現実に追いつかない。
オレの心は、最後に彼女を見たあの夜会の会場に、あるいは彼女が去っていった静かな朝に、取り残されたままだった。
『もし――もしも再び彼女とやり直せたら、二度と彼女を粗末には扱わないのに』
泥にまみれ、死を目前にした薄れゆく意識の中で、オレはずっと、そんな叶うはずのない祈りばかりを繰り返していた。
******
エリアス王弟殿下に初めてお会いした日のことを、私は今でもよく覚えています。
暴漢に襲われ、震えていた私を、ご自身の危険など一切顧みることなく助けてくださったのが、あの方でした。
「屋敷まで送ろう」
そう言って差し出してくださった、手の大きさと包み込むような温かさ。
隙なく整っているのに、どこか冷ややかで他人を寄せつけない端正な顔立ち。
そのすべてを忘れられずにいた私は、
『あの方は王弟殿下で在らせられると同時に軍人だ。やめておきなさい。ましてあの方には、心に決めた方がいらっしゃるのだよ』
そう言って表情を曇らせる父の反対を押し切って、エリアス王弟殿下との婚姻を了承しました。
ただひたすら、あの方を思い尽くしていれば、いつかまたその大きく温かな手に、ほんの少しでも触れさせていただけるのではないか。
そんな浅はかな願いを抱いて始まった白い結婚生活は、けれど、何年経っても何も変わることはありませんでした。
あの方の瞳が私を映すことはなく、その心は、いつまで経っても別の方のもの。
私一人がどれほど背伸びをしても、そこに入り込む余地など、最初からどこにもなかったのです。
それでも、エリアス様のお傍にいられて、私は確かに幸せでした。
だからこそ、一方的に突きつけられた終わりも、あの方を恨むことなく、静かに受け入れられたのだと思います。
隣国へ嫁ぐことになった私を、新たな夫として国境まで出迎えに来てくださったのは、目元を仮面で隠した辺境伯――セヴェルス様でした。
セヴェルス様は以前、戦場で怪我を負い、それ以来仮面をつけていらっしゃるとのこと。
仮面で目元を隠していてなお、その整った容貌は隠しきれず、多くの人の視線を集めていらっしゃいました。
エリアス様より少し年上のセヴェルス様は、しかし私のことを『子供』として軽んじることは決してありませんでした。
それどころか、あの方は誰よりも私に言葉を尽くし、私の些細な変化にも気づいては、掌の上の宝物のように大切にしてくださいました。
あまりに甘やかされるあまり、私のような子供が妻で嫌ではないのかと、恐る恐る尋ねたことがありました。
するとセヴェルス様は、いかにも転生者らしい、どこか遠くを見つめるような眼差しでこう仰ったのです。
「前世から今日までを思えば、私にとってこの世の人間は皆、年下のようなものだ。君からすれば私は随分年かさかもしれないが、私からすれば十や二十の差など誤差に過ぎないよ」
そう笑って私を胸に抱いたまま髪を撫でてくださるセヴェルス様の手は、あの日、私を救ってくださったあの方の手と同じように、とても大きくて、温かくて。
あの方に恋い焦がれ、拒絶され続けて擦り切れていた私の心は、この優しい辺境伯の手によって、ゆっくりと、けれど確かに溶かされていったのでした。
不思議な人だと思うと同時に、どこかこの方を懐かしいと感じていた私は――
ある日、思い切ってその仮面に手をかけました。
仮面の下から現れた顔は、思わず息を呑むほど端正なものでした。
額を走る、かすかな白い線。確かに傷痕ではありましたが、それは決して、隠し通さねばならないほど醜いものではありません。
むしろ、なぜ隠す必要があったのかと首を傾げる私を見て、セヴェルス様はまるで見られてはいけない醜い痕を晒されたかのように、ひどく動揺していらっしゃいました。
非礼を詫びれば、
「君が不安に思うのも当然だ」
と許してくださったので、私は気分を変えるように楽しいおしゃべりをたくさんしました。
そうして、甘い眼差しを隠さぬまま、穏やかに耳を傾けてくださるセヴェルス様に
「殿下」
そう、小さく呼びかければ――
セヴェルス様はあまりに自然な動作ですぐさまこちらを向き、いつもと変わらぬ温かな眼差しを向けた後で、『しまった』とばかりに、石のように凍りついたのでした。
やはり、と思って、私はその仮面を再び奪い取りました。
露わになったその形の良い瞳が、また険しく眇められています。
伝えたい想いを自尊心によって飲み込むときの、エリアス王弟殿下の、どうしようもなく愛おしい悪癖。
それが変わっていないからすぐに分かったと、涙ながらに告げると、セヴェルス様改め、エリアス様は観念したように息を吐き、絞り出すようにおっしゃいました。
「……君は、ずっとオレを真っ直ぐ見ていてくれたから。君には分かってしまうと思って……だから、卑怯を承知で隠していた」
どうして早く教えてくださらなかったのかと、ずっと胸に秘め続けていた思慕を露わに、その首に縋りつきボロボロ涙をこぼしながら問いかければ、彼はこれまでのように私の髪に触れるのを止め、苦く笑って言いました。
「君を蔑ろにし続けた男の元に、二度も嫁ぐのは嫌だろう」
その言葉に、私は激しく首を横に振りました。
「違います。あなたはまるで、分かっていらっしゃらないままです。私は……私は……今でも、あなたをお慕いしております」
エリアス様は、まるで過去に戻ってしまったかのように、しばらく何も仰いませんでした。
その代わりに、かつてのように一見不機嫌そうに、けれどその実、今にも泣き出しそうに目を眇めて見せた後……、最後にはセヴェルス様らしく、迷いのない強さで私を抱き寄せて下さいました。
「つまらない意地を張って、ずっと君を傷つけた。……すまなかった。愛している、ティエナ。どうかこれからもずっと、オレの傍にいてくれないか」
そうして強く、強く抱きしめられながら私は、ようやく、あの日の温かな手の中に既に帰り着いたことを知ったのでした。
その後、セヴェルス様と二人で訪れた隣国の夜会で、私は懐かしい背を見つけました。
かつてあれほどまでに焦がれ、愛した方でしたから、あちらが振り返らなくてもすぐに分かりました。
動悸が早まり、どう振る舞えばよいのか戸惑った、その時です。
あの方が振り返るよりも早く、不意に私の視界が暗くなりました。
「見なくていい」
耳元で、低く、独占欲を孕んだ甘い甘い声が囁きます。
「……私は、君が思う以上に悋気なんだ」
そうして、セヴェルス様は片手で私の視界を優しく塞いだまま、反対の手で私の手を取り、強引に歩き出しました。
あの方は、私に気づいたでしょうか。
それとも、幸せそうな誰かの背中として、その目の端を霞めただけだったのでしょうか。
そんなことを思いながら、もう一度だけ、その背を探そうとした瞬間。
セヴェルス様にぎゅっと強く抱きしめられ、彼のシャツとジャケットの襟以外、何も見えなくなりました。
そのまま、導かれるままにステップを刻みながら、私は悟りました。
私があの方にしてあげられることは、もう何一つ残っていないのだと。
そうして私は、あの方をもう二度とこの瞳に映さぬよう、セヴェルス様の胸の中、静かに瞳を閉じたのでした。
******
この国には、転生者が多く生まれるのだという。
最初に思い出したのは、深く強い、身を切るような後悔だった。
過去から未来への転生について聞いたことはあったが、まさか、同じ時代に生まれ直すことができるなんて思わなかった。
もう二度と、同じ過ちは繰り返さない。
すべてを思い出した後、オレはそう心に決めた。
ティエナを再び妻に望むことを決めたオレは、軽い怪我を機に、目元に仮面をつけることにした。
そうでもしないと、彼女の真っ直ぐな眼差しに、すぐさまオレの嘘を見透かされてしまうような気がしたからだ。
それなのに――。
初めて彼女を迎えた日、彼女がオレを真っ直ぐ見ることはなかった。
彼女はもう、誰にもあの眼差しを向けない。
散々オレが傷つけ、踏みにじった結果だというのに、それに馬鹿みたいに胸が痛んで仕方がなかった。
そして、ある日突然、その時は来た。
仮面に触れるために伸ばされた彼女の指を、オレは止められなかった。
今のオレに、彼女の望みを拒む資格などないことを、嫌というほど知っていたからだ。
「……殿下」
その呼び方に、抗いきれず応えてしまった時、すべてが終わったと思った。
それなのに――
彼女がオレに向けたものは、拒絶ではなく、あの頃よりもずっと深く、真っ直ぐな眼差しだった。
許されていいなんて、そんなふうに思い上がりはしない。
だが、もう二度と、彼女が傷つくことのないよう、この命を賭して守らせてほしい。
そう切に、切に願った。
夜会の場で、一人の男を見つけた。
前世の自分が、あの時と同じように、一人立っていたのだ。
その背に気づいた彼女の視線が一瞬揺れたから、オレは二人の目が合う前に、咄嗟に彼女の目を覆った。
「見なくていい……私は、君が思う以上に悋気なのだ」
我ながら、情けない告白だった。
かつて『愛とは静かに相手を思い尽くすものだ』とうそぶいていた男の、成れの果ての台詞。
だが、取り繕う余裕などなかった。
彼女の手を取ったまま、決して視線をこちらから離させないように、音楽に合わせてステップを踏む。
ダンスの輪から離れた場所で、かつてのオレ――現世の前王弟が、呆然とこちらを注視しているのが分かった。
酷い嫌悪感を覚えながら、オレはティエナを抱き寄せる手に力を込める。
あの男はこれからも、嫌という程思い知ることとなるだろう。
ティエナのいない、あの吐き気がするほど空虚な静寂の中で、かつてオレが味わった地獄のような後悔を。
あの男はこれからそれを、一歩ずつなぞっていくのだ。
そんなことを考えていると、
「セヴェルス様? どうかなさいましたか?」
また、悪い癖が出ていたのだろう。
ティエナが首を傾げ、オレを見上げてそう言ったので
「いや……あまりに君が美しいので、他の男に見られるのが惜しくなっただけだ」
そう言って、それ以上あの男のことを考えるのはもうやめることにした。
すると、彼女は他にも言いたいことはあったようだが、それ以上に赤面してしまったようで
「……今のあなたは本当に口がお上手ですね」
そう言って、オレの胸に再び顔を埋めた。
かつてのオレなら、こんな台詞、『低俗だ』と唾棄しただろう。
だが、今のオレは知っている。
本当に愛するとは、こうした言葉を、喉を焼くような切実さで伝え続ける、泥臭い営みが伴ってのことなのだと。
「愛している、ティエナ」
何度でも、飽きるまで、いや彼女が飽きてなお。
かつてのオレが彼女に与えなかった言葉のすべてを、オレはこの一生をかけて、彼女に捧げ続ける。
その覚悟で、そんな言葉を耳元で囁けば、彼女の白い頬が赤らんだ。
その愛おしい色彩を独占しながら、オレもまた、もう二度と、あの孤独な男の方を振り返ることはなかった。
夜会の喧騒が遠ざかっていく馬車の中で――
「エリアス様は、その後……どなたかと再婚されたのですか?」
ふとした合間に、ティエナがそう問いかけてきた。
かつての自分の、その後。
彼女の中に残る、小さなしこり。
「さあ、どうだったかな。興味がなくて覚えていない」
知っていてオレは、意識して曖昧な返事を返した。
あの男は、ティエナと離婚した後一度も誰かを娶ることもなく、ただ仕事に憑かれたように国を守り続け、数年後の国境紛争で、若くして戦死した。
自暴自棄な死だったのか、あるいは、せめて国を守ることで彼女の家族が生きる場所を守ろうとした、彼なりの贖罪だったのか。
今のオレには、その答えがわかる気がするが、それを彼女に教えるつもりは毛頭なかった。
心優しい彼女のことだ。
そんな話を聞けば、自分を蔑ろにした男の最期を憐れみ、意識を、眼差しを再びあの男へと向けてしまうだろう。
死んだ男なんかに、彼女を渡したくなかった。
たとえそれが、かつての自分自身であったとしても。
今のオレにとって、あの男は、彼女を泣かせた許しがたい不届き者でしかないのだから。
だから――
「そんなことより、ティエナ」
オレはそういうなり、彼女の細い指を絡め、少しだけ強引に引き寄せた。
そうして
「明日の朝は、今日より少し遅く起きてもいいだろうか。……君を、一秒でも長く離したくないんだ」
わざとらしく甘えた言葉を吐けば、彼女は案の定、過去への追想を解いて、また熟れたリンゴのように頬を染めた。
それが可愛らしくて、思わず声を出して笑うと、オレの言葉を冗談だと安心したらしい彼女がオレをキッと睨むようにして説教をし始めたので、別に冗談でもないのだが、今はそれでいいと甘んじて受け入れる。
今後、彼女の勿忘草の眼差しが向けられる先は、今、目の前で彼女を抱きしめているオレだけでいい。
過去のオレの死も、後悔も、その祈りさえも。
彼女を煩わせるなら、その全ては不要なものだ。




