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聖女様はあなたを救わない

作者: 青狐
掲載日:2026/04/18

その街には、名前を口にするだけで空気が少し柔らかくなるような噂があった。曰く、どこかに人を癒す「聖女様」がいるという。病に伏した者が回復した、失ったものを取り戻した、人生をやり直せた——そうした話が、確かな証拠もないまま、しかし不思議な説得力を帯びて語り継がれていた。

 男がその噂を初めて耳にしたのは、まだ若く、未来に対して無根拠な自信を抱いていた頃だった。酒の席で誰かが笑いながら話したその伝説を、彼は鼻で笑い、そんなものにすがる人間の気が知れないとさえ思った。

 それから二十年以上が過ぎた。

 気づけば、彼はその“すがる側”に立っていた。

 仕事は長く続かず、家庭も崩れ、何かを始めるには遅すぎる年齢になっていた。振り返れば選択を誤った記憶ばかりが積み重なり、前を向こうとすれば空虚な未来しか見えなかった。誰にも必要とされていないという感覚だけが、やけに鮮明に残っていた。

 ある夜、古びたアパートの薄い壁越しに、隣人が誰かと電話で話しているのが聞こえた。「あの人に会えたら、きっと大丈夫だよ」——その言葉に、なぜか胸が引っかかった。

 あの人。聖女様。

 忘れていたはずの伝説が、妙に現実味を帯びて蘇る。男は自嘲気味に笑ったが、その夜は眠れなかった。

 翌日、彼は図書館へ向かった。

 調べ始めると、噂は断片的にしか存在しないことがわかった。新聞にも記録はない。ネット上の書き込みは曖昧で、場所も時期も一致しない。それでも、不思議な共通点があった。「会った者は口数が減る」「詳細を語ろうとしない」「ただ、救われたと言う」——どれも曖昧で、しかし嘘とは思えない記述ばかりだった。

 男は日を重ねて情報を追い、噂が集中する区域を絞り込んでいった。それは街の外れにある、再開発から取り残された一帯だった。かつては商店街として栄えていたが、今は半分以上がシャッターを下ろし、人通りもまばらな場所だ。

 夕暮れ時、男はそこに立っていた。

 風が吹くたびに、どこかの看板が軋む音がする。人の気配は少なく、代わりに時間が滞留しているような感覚があった。ここに本当に何かがあるのかと疑いながらも、彼は歩き続けた。

 路地を一つ曲がったとき、不意に視界が開けた。

 そこだけが、妙に明るかった。

 小さな庭のような空間があり、中央には古びたベンチが置かれている。周囲の建物が影を落としているはずなのに、そこだけは柔らかな光に包まれていた。

 そして、ベンチに一人の女性が座っていた。

 白い衣服というわけでも、特別な装飾があるわけでもない。ただ、どこにでもいそうな、しかしどこにもいないような、不思議な存在感を持った女性だった。年齢は判別できない。若くも見えるし、年老いているようにも感じられる。

 男は足を止めた。

 女性はゆっくりと顔を上げ、彼を見た。

 その瞬間、胸の奥に沈んでいたものが、音もなく揺れた。

「……来たのね」

 声は小さかったが、はっきりと届いた。

 男は何も言えなかった。何をどう説明すればいいのか分からなかったし、そもそもここに来た理由すら、言葉にするのが難しかった。

「あなた、自分のことをずいぶん責めている」

 女性は静かに言った。

 男は思わず目を伏せた。否定する気力もなかった。

「過去をやり直したい?」

 問いはあまりにも直接的だった。

 男は一瞬だけ迷い、それから小さく頷いた。

「全部を変えたいのかしら。それとも、ひとつだけでいいのかしら」

 男は口を開きかけて、言葉を失った。どれを選べばいいのか分からない。何を変えれば、自分は救われるのか——そんなことすら、もう判断できなくなっていた。

 女性は少しだけ微笑んだ。

「選べないのね」

 その声には、責める響きはなかった。

「それでもいいわ」

 女性は立ち上がり、ゆっくりと男の前に歩み寄った。

 距離が近づくほどに、奇妙な安心感が広がっていく。何も解決していないはずなのに、何かが軽くなっていく。

「ひとつだけ、約束して」

 女性は男の目をまっすぐ見つめた。

「もしやり直せたとしても、また同じ場所に戻ってきたら——そのときは、今度こそ自分を見捨てないで」

 男は理解できなかったが、なぜかその言葉だけは、深く胸に刻まれた。

 次の瞬間、女性の指先が男の額に触れた。

 視界が白く塗り潰される。

 遠くで何かが崩れるような音がして、それが過去なのか未来なのか分からないまま、意識が途切れた。

 ——目を覚ましたとき、男は見覚えのある部屋にいた。

 古びたアパートではない。もっと若い頃に住んでいた、まだ何も失っていなかった頃の部屋だった。窓から差し込む光も、壁にかけられた時計の音も、すべてが懐かしい。

 鏡を見ると、そこには若い自分が立っていた。

 男は震える手で顔に触れた。現実だった。

 やり直せる。

 そう思った瞬間、胸の奥に微かな違和感が生まれた。

 ——「また同じ場所に戻ってきたら」

 あの言葉が、離れなかった。

 男は息を整え、ゆっくりと窓の外を見た。まだ何も起きていない世界が広がっている。選び直すことができる未来が、確かにそこにあった。

 だが同時に、何かが欠けている気もした。

 あの女性の顔が、思い出せない。

 声は覚えているのに、表情が曖昧だ。思い出そうとすればするほど、輪郭が崩れていく。

 男はふと、ある考えに至った。

 もしも。

 あの場所に、もう一度行ったら。

 そこに、また彼女がいるのだろうか。

 あるいは——

 男はゆっくりと立ち上がった。

 時計の針は、かつて自分が選び損ねた時間を指している。

 扉の向こうには、まだ何にも染まっていない世界がある。

 そして、あの言葉だけが、やけに鮮明に残っていた。

 ——今度こそ、自分を見捨てないで。

 男はドアノブに手をかける。

 そのとき、ふと気づいた。

 自分は「やり直す側」なのか、それとも——

 「試されている側」なのか。

 扉を開ける音が、やけに大きく響いた。

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