【短編】ハルとぬくもりと恩返し
大切な人に出会わなければ、孤独にならずに済んだのに――そんな言葉を俺は聞いたことがあった。でも、別に大切な人に出会ったりしなくても、人は孤独になれるのだ。人の群の中に飛び込むと、それだけのことで自分が独りだと思い知らされる。
例えば二年のゼミのとき。グループで発表することになって、誰かが「じゃあ役割を決めよ」なんて言いだした。でもその瞬間、俺は気づく。俺以外の全員が、お互いに何を得意としていて、どんな役割を割り振ったらいいのか、わかっているのだ。山口は、佐藤は――と、順番に名前を呼び合った後、不意に沈黙が訪れた。
「あ、えっと……君」
それが俺を指していることはわかったけれど、それ以上にはっきりとしたことがあった。
俺だけが、彼らの中で、名無しだったのだ。
「……じゃあ、資料まとめ、おねがい」
「あ、うん」
会話はそれで終了した。それから先も、俺が発した言葉は「うん」と「いいよ」と「はい」だけだった。それでも発表はつつがなく終わって、無事に単位が取れた。――そのことに俺はホッとして、同時にいたたまれない気持ちになった。
そうやってどんどん惨めになって、辛くなって――寂しくなる。視線が下がる。足が止まる。そういう経緯を経て、大学に入ってから三年目にして俺は表情筋がすっかり衰えてしまった。今はもう、どんな風に笑っていたかも思い出せない。ただなんとなく――本当になんとなく、人の輪に入れなかったというだけの理由で、勝手に独りになって、心が動かなくなった。
だから寂しくて足が止まるのも自業自得。だからこそ、キツかった。誰かのせいにしてしまえば、もっと気楽でいられたのに。 俺はずっと足元を見ていた。だからこそ気づいたのだ。
「……ん?」
花壇の影に、グレーの毛玉が転がっている。――いや、違う。
「猫じゃん、これ」
それはグレーの長い毛をした猫だった。ガビガビでところどころすすけていたりして、痩せてガリガリでボロボロで、それでも呼吸は弱々しくも続いていた。
放っておけば、きっとこの子は死ぬだろう。それが悲しかったわけではない。たとえ小さな命が失われてしまうのだとしても、人間の気まぐれで中途半端に手を伸ばすのは偽善だ。よくない。だからこれまでもこういう時は見ないフリをして立ち去っていた。でも。
……春だ。夜桜が美しく、街灯に照らされて淡く輝いている。他の季節の夜よりも、この季節は空が明るい。つま先しか見ていなければ気づかずに済んだのに、この猫がここにいたから、なんとなく顔を上げてしまった。
寂しい、と。衝動的に思ったのは、その瞬間だった。腹の底に鉛が押し込められてしまったように重くなり、吐き気が込み上げてくる。指先が震えて、心臓が締め付けられて、呼吸が浅くなって――その猫を、抱き上げた。
手が震えた。そいつはまるで抵抗もせずに、俺に身を委ねていた。うっかり指の力が抜けたらこいつは地面に叩きつけられる。そう気づいたら、唐突に怖くなった。
「……病院」
口に出した瞬間、気づく。動物を連れていく病院なんて、どこにあるのかわからない。ポケットからスマホを必死で取り出して、なかなか反応しない画面に苛立ちながら、どうにか一番近い動物病院を見つけて、電話をかけた。
呼び出し音が鳴っている間、俺は腕の中の温もりが冷たくなってしまわないか、怖くて、怖くて、仕方がなかった。電気のついていない病院に裏口から入れてもらって、冷たい診察台の上に横たわる姿を見下ろして、俺からしたら何をしているのかわからない先生の手元をジッと見て。そうしている間に俺は、無意識に息を止めていた。
「大丈夫、なんともないよ」
と。そう言われる瞬間まで。
***
――またちょこちょこ病院に連れて行く必要はあったけど、その日のうちに連れて帰ってもいいと言われて……そして、困った。こいつはそもそも野良猫だ。たまたま俺が拾っただけ。そんな猫を、一体どうしたらいいのか。
病院の外で立ち尽くす俺の腕の中、猫の顔を覗き込むと、小さな爪がギュッと俺の服を掴んでいることに気づいた。だから俺は、決めたのだ。
「なあ……お前さ。俺の家に、来てよ……いいだろ?」
腕の中で小さな命は、今にも消えそうな声でなぁんと答えた。
***
朝の日差しがカーテンの隙間から差し込んでいる。しっかりと寝たはずなのに、身体が痛い。寝ている間に腕が変な方向に曲がったせいだった。寝相が悪いわけでもないのに、なんで腕を伸ばして寝ていたんだろう。まるで腕枕でもしたみたいに――
「……ん?」
と、俺は不意に自分の部屋の異変に気づいた。一人暮らしで、趣味の本や画材ばかり買い込んで、あまり整頓された空間ではない。一昨日描いて、でも気に入らなくて放り投げた画用紙が床に何枚か散らばっていた。
そんな部屋だから、ちょっと物が増えたくらいじゃ変化には気づけない。まあこんなものかな、みたいな。その程度で終わってしまう。だけど今日は、明らかな異変がそこにあった。
俺の隣に、人がいる。
「……あんた、誰?」
声をかけると、その人は目を覚ました。髪は短い。緩めの天然パーマで、色は濃いめのグレー。たぶん……男、だと思う。
もぞもぞと身体を動かし大きく伸びをしてから、ハッと気づいて飛び起きて、その人は俺を見下ろした。
「驚かせてごめんね。でも、嬉しかったからちゃんと気持ちを伝えておきたくて」「……いや、だから、誰?」
「昨日助けてもらった猫!」
彼は猫っぽいポーズをとって、小首を傾げてにゃあと鳴く。身長が俺よりも高くて、ひょろひょろだけど、どちらかというと綺麗系イケメンで。そんな彼がにゃあにゃあ言っていたとしても全然可愛くない――どころか、ちょっと鬱陶しくすらある。
けど、それどころじゃない。
「はぁ!? なにアホ言ってんだよ、鶴の恩返しじゃあるまいし」
「えー、結構あるんだよ? 今は鶴が恩返しすることは減っちゃったけど、犬とか猿とか、あと変わったところだと狸とかハクビシンとかもかな」
「それが人間になるの?」
「そうそう。で、恩返しするの」
彼はニコニコ笑って俺の顔を覗き込む。
「びっくりした?」
「いや、するだろ……だって、動物が人間になるとか……ええ……?」
どう考えても話がおかしい。こんなこと、普通に考えてあり得ない。確かに鶴の恩返しでは助けた鶴が女性の姿になって綺麗な織物を織ってくれた。それで生活が助かって――という話だったと思うけど、
「だとしても、普通目の前に現れるのは女の子なんじゃないの!?」
「残念だけど、俺、オスだから。あ、でもちゃんと恩返しはするよ。きみがして欲しいことを言って。なんでもいいよ。ただし、俺がやりたいって思ったらね」
さらっと言って、彼は笑った。「え? ええ……いや、なんか話ついていけてないんだけど……」
この状況を、どうしたらいいのだろうか。俺は思わず怯んでしまった。パッと言葉が出てこない。そんな俺を、彼はじっと見つめている。
その瞳は、澄んだビー玉のようで、キラキラと輝いていて――昨日の夜、俺を見上げたあの瞳と、同じだった。そのことに気づいた瞬間、俺はあの衝動を思い出す。
淡く輝く桜。普段よりも明るい夜。綺麗なのに、そのことにも気づかずに、俯いて歩いていた自分のつま先。
眼前の青年は、俺の言葉を期待するように待っていた。その眼差しに導かれるように、俺は、彼に、手を伸ばしていた。
「……え?」
気づけば彼を抱き締めていた俺の耳に、驚くような声が響く。彼の身体は一瞬だけ強ばった。逃げるでも、拒むでもない。ただ「距離」という概念を測り直しているみたいな反応だった。
それからすうっと力が抜ける。その身体は、温かかった。昨日、痩せて汚れた毛玉を抱き上げたときのように、確かに命を感じられた。「傍に居てほしい」
「……俺に?」
「そう。お前に。別に、何もしてくれなくていいから。ただずっと、俺の傍に居てよ」
「そんなことでいいの?」
「それが……一番難しいことだから」
「ふうん、そっか」
彼は嬉しそうにそう呟くと、細い腕で、俺の身体を抱き締めた。
「まあ、いてあげてもいいかな。居心地のいい寝床と美味しいご飯を用意してくれるなら。そうしたら、ずっと隣にいてあげるよ。俺の命が尽きるまで」
これから一緒に過ごそうとしてるのに、命が尽きるときのことなんて考えなくたっていいのに。つい、そう考えてしまったけど、それでも今は、嬉しいと思った。
だって、この腕は、温かかったから――
***
――次の瞬間、俺はふと目を開けた。そこは自分の家だった。
「……夢?」
かと、思った。だけど俺の傍らには痩せた猫がいる。夕べタオルで拭いてやったから、汚れは取れて毛並みも少し整っていた。瞬間、猫がぱちりと目を覚ました。ふと顔を上げ、俺のほうに視線を向けて、にゃあ、と鳴く。
まるで笑っているみたいな顔で。さっきの青年によく似たえくぼで。
「まあ、夢でもなんでもいいか」 俺は隣で布団を温めてくれていた猫の身体を抱き上げる。彼は大人しく俺の腕に収まって、気持ち良さそうにほほをスリスリとすり寄せてきた。
「ずっと一緒にいてよ。お前か……俺か。どっちかの命が尽きるまで」
そうやって声をかけると、猫は当然だとでも言うようににゃあんと鳴いた。
***
――それが、十二年前のこと。
あれからも結局、俺が顔を上げて生きるようなことはなかった。飲み会とか合コンとかにも呼ばれなかった。スマホの連絡先はすっからかんのままで、同窓会とかがあるのかないのかも知らないままだ。でも別にいいか、なんて。この凪の状態に、すっかり慣れてしまっていた。
たぶん、家に猫がいるからだ。猫を快適に生きさせるためにとせっせと働いて、猫が喜ぶご飯を買って、時々おもちゃで機嫌を取って――そんなことをしていたら、あっという間に時間が過ぎた。余計なことを考える暇がなくなったら、身体が軽くなっていった。もちろん変わったこともある。朝、カーテンを開けるようになった。ハルが窓辺に行きたがるから。買い物もコンビニじゃなくて商店街の小さな店に行くようになった。そこで店員とも話すようになった。「元気?」「そうだね」と、それだけだけど。でも互いに顔を覚えているという、その空気が心地良かった。
でもそれも、そろそろ終わりのようだった。
「……なあ、お前さ」
俺の膝の上で小さく丸まった老猫は、だんだんと呼吸が弱くなっていく。普通に、寿命だ。病気もなく、健康で、本当にずっと俺の隣にいてくれた。名前を呼んだらにゃあんと返事をしてくれたし、寝るときはいつも、一緒の布団に入っていた。
だけど猫の寿命は、人間よりも、ずっと短い。
大切な人に出会わなければ、孤独にならずに済んだのに――そんな言葉を俺は聞いたことがあった。それは本当のことだった。こいつがいなくなると思うと、指先が震える。
だけど、それでも大丈夫な気がしていた。
「ずっと、一緒にいてくれて、ありがとな。本当に恩返ししてもらった気分だよ」
猫はもう、顔を上げることもなく、浅い呼吸を繰り返している。その呼吸も、ゆっくり、ゆっくりと小さくなって――
でも、まだ、温かい。
……本当のことを言うと、こいつが死んだら俺ももう死ぬのかな、なんて。そんな悲観的なことを考えたこともあった。その考えに、どこかで縋りたかったのかもしれない。そうすれば全部、こいつのせいにできるから。でも今は、それができない。できなくなってしまったのだ。俺は思ったよりもずっと、元気になっていた。
俺の身体は、なにか温かいもので満たされていたから。
たぶん、大切な誰かと過ごした後の孤独は、からっぽな孤独とは違うのだ。出会いと別れを繰り返して、温もりが降り積もれば、その重みで自然と顔が上がるのだ。
あの夜こいつに出会わなければ、そんなことにも気づけないまま摩耗して削れて消えていた。
「ホントにおまえ、恩返ししてくれたんだな」
「なぁん……」
ほとんど消えかけた猫の声が、そうだよ、と言わんばかりに小さく響いた。そうして猫は――死んだ。
「ずっと、ありがとな……ハル」
ハル。それが、こいつの名前だった。
ふと、顔を上げる。窓の外には、美しい桜が花開き、はらはらと舞い降りていた。
ああ、また、この季節が来たんだな。
そう思うことで心が軋まなくなった自分に救われた気分になりながら、俺は静かに――静かに、涙をはらはらと流した。
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