DOUBLE
【double】- 動詞。形容詞。
二つの。二人の。二重の。裏表のある。不誠実な。
ドイツ語の「doppel」に相当する言葉である。
朝が来た。いつも通りの、くすんだ朝が。
どこかで小鳥が歌っている。枕元に置かれた時計は、秒針のかすかな音を介して今日も時間が過ぎゆくことを静かに主張していた。
少し頭痛がする。ため息をついて、僕はベッドからゆっくり起き上がった。
そのままキッチンに向かう。珈琲を淹れるためだ。これは毎朝のルーティンと化している。だから、まだ起ききっていない、ぼんやりした頭でも流れるように手が動く。
薬缶に水を入れて火にかけ、豆とドリッパーを準備する。今日はミルクを入れるのはやめよう。そういう気分だ。
することを終え、湯が沸くのを待つ。この時間がなければ、珈琲は飲めない。この少し暇な時間を、僕は何をするでもなく、ぼんやりと過ごす。これもまた、僕の朝の一部だ。
数分後、薬缶の笛がけたたましく鳴った。前々から思っていたが、やはり少しうるさい。湯を沸かしている間、キッチンを離れているわけでもない。もう少し音の小さいものに買い換えようかと、そんな他愛の無いことを考えながら、僕は棚からいつも使っているカップを取り出した。
「やあ、おはよう」
突然、ソファーから声がした。
そこには、さっきまで確かに誰もいなかったはずなのに。
「随分と遅いお目覚めだな」
「……ダブル」
僕は振り返って“彼”を視界に入れた。
「なんだ、その間抜けな顔は。まだ寝惚けているのか?」
いつも見ているその顔で、ダブルはいつものように笑った。
⬜︎⬜︎⬜︎
「ん、今日は目玉焼きじゃあないのか? 昨日卵を買っていたから、てっきりそうだと思っていたんだがな」
適当に野菜でも炒めようと冷蔵庫を漁っていた僕の後ろからダブルが中を覗き込む。
「なんで僕が卵買ってたの知ってるんだよ。あの時、お前居なかったのに」
「オレは何でも知ってるぜ? 特に、お前のことに関してはな」
「お前は食べないくせに。ま、目玉焼きでもいいけど、別に」
ダブルの言葉を受け流しつつ、僕は朝食の支度を始めた。冷蔵庫から卵を取り出し、フライパンに割り入れる。卵が焼ける音が、僕とダブルしか居ない部屋に響いた。
少し焦げてしまった目玉焼きを皿に乗せ、食卓へ向かう。
いただきますと小さく言い、目玉焼きを口に運ぶ。正直言って焦げたところは苦いので好きではないが、残すわけにもいかない。完全に自業自得だが、朝から憂鬱な気分になってしまった。
そんな僕をよそに、ダブルはポケットに手を突っ込み、僕の周りをふわふわと漂っている。
「……何見てるんだ。食べづらい」
「いや、別に。ただ暇なだけだ」
ダブルがにやにやと笑いながら僕を見つめる。
なんとなく落ち着かない。それももう慣れたものだが。
⬜︎⬜︎⬜︎
朝食を終え、僕は外出の準備をする。
無地の白いシャツ。シンプルなスラックス。多分、誰がこの服を着ても、同じような印象を持つだろう。何の個性もない。
これがいつも通りだ。
「あそこの書店、早く行かないとあっという間に混むぞ。急げ急げ」
いつのまにか玄関に移動したダブルがそう僕を急かす。
適当にいなそうと思ったが、その言葉に僕はひっかかりを覚える。
……書店?
「待った、僕は書店に行くとは言ってないし、行こうとも思ってないぞ」
「いや、昨日言ってたぞ。オレははっきり聞いたね」
珍しくダブルが驚いた顔をする。些細な会話だから、僕が覚えていないだけかもしれない。
少し違和感を覚えつつ、僕は玄関ドアを開けた。
「今日はどんな本を買うんだ?」
ダブルが後ろから話しかけてくるが、僕としては外出中はあまり彼と話したくはない。
「外出中は話しかけるなって言ったよな?」
僕は周囲の人に気取られぬようにダブルの隣に並び、小声で言う。
「何故? オレはお前にしか見えないぞ?」
「……だからだよ」
ダブルは相変わらず飄々とした笑みを浮かべている。この状況を分かっていて、わざとやっているらしい。なんて性格の悪いやつだ。
「わかってるくせに」
そうぼやき、僕は盛大にため息をついてささやかな抗議を示す。が、ダブルは全く気にしていないようだ。彼の下手な鼻歌が、ごく小さく聞こえた。僕自身も音痴なので、あまり他人のことは言えないが。
しばらく歩き、目的地に到着した。駅前の小さな書店。客は何人かいるが、まだ混んでいるわけではないようだ。
もともと行こうと思っていなかったからか、欲しい本というのも特に見つからない。適当に店内を回る。ふと、棚に入った知らない作家の短編集が目に入った。普段は短編なんか読まないのに。
まあこれも縁かと思い、その小説を買うことにした。本を手に取り、レジへ向かう。
「短編? そんなの、お前いつも読んでたか?」
僕の手の中にある本をちらりと見て、ダブルが怪訝な顔でそう訊く。話しかけるなと言ったのに。
「いつもは読まないけどね。まあ、なんとなく、気になっただけだよ」
「へえ。これが運命の出会い、ってやつか?」
「さあな」
長々と話すと──いや、もうすでに少し目立っている。僕以外の人にダブルは見えないからだ。誤魔化すのもなんだか面倒になってきた。早めに切り上げて、店を出てしまおう。そちらのほうが幾分か楽だ。
買った本を紙袋に入れてもらい、店を出る。
「あれ、久しぶり!」
後ろから呼び止められたその声は、とても聞き覚えのある声だった。
「ねえ、時間ある? もし良かったらなんだけど、ちょっとお茶しない?」
そう言って、無邪気に彼女は笑った。その顔は眩しい。そして、とても懐かしい。
僕に、断る理由は存在しなかった。
⬜︎⬜︎⬛︎
「……本当に久しぶりだね。ええと、君は何で此処に?」
思わぬ再会を果たした僕たちは、近くのカフェに場所を変えた。
「何で……って、ああ、そういうこと? 確かに私、この辺には住んでないんだけどね」
彼女はからからと笑い、飲んでいたアイスティーをかき混ぜる。グラスの中の氷も、それに合わせてからからと音を立てた。
「最近、個展をこの街でやることになってね、それの打ち合わせで今日は来たの」
「個展……」
どうやら彼女は、僕の知らないところで成功を収めているらしい。僕は喜ぶべきなのだろう。きっと。
なんだかやけに静かだなと思い、はたと気付く。ダブルが話していない。一言も発していないのだ。僕のそばに居るはずの、おしゃべりなあいつが。
僕は思わず振り返る。ダブルは相変わらずそこに居る。でも、いつものような飄々とした笑みも、皮肉も無い。
ただ、何の感情も無い表情で、僕と彼女を見つめていた。
「うん。まさか貴方がこの街に住んでいるなんて、全然知らなかった! 奇跡みたいだね!」
彼女はそう言って、また無邪気に笑った。
彼女は素直だ。そうやって、思っていることを全て口にしてしまう。
僕とは違う。
「…………うん、そうだね。まるで奇跡だ」
そうやって、また心にも無いことを言って、作り物の笑顔を貼り付けている、こんな僕とは。
違う。
⬜︎⬛︎⬛︎
「今日はありがとう! 時間を使ってくれて」
「……いや、こっちこそだよ。忙しいだろうに」
そんな他愛のない会話をしながら街を歩く。既に空は茜色に染まりつつあった。どこかで鴉が鳴くのが聞こえる。
しばらく黙って歩く。
「なあ」
突然、後ろから声がした。ダブルだ。
「お前、『あいつ』のことどう思ってる?」
「はぁ?」
「あいつ──あの女だよ。どう思ってる?」
「何言ってんだお前。らしくないぞ、こんなにお前が喋らないなんて」
ダブルは僕の言葉には耳を貸さない。視線は彼女を見つめたままだ。
「オレは嫌いだね」
「……嫌い?」
「お前はどう思う? あの女の事」
「どう、って……ただの、良い友達だよ。それ以上でもそれ以下でもない」
「本当に?」
「勿論──」
勿論、本当だ。
そう答えかけた僕を遮って、ダブルが言った。
「本当に、そう思っているのか?」
背骨に、氷を入れられたような、そんな寒気のようなものを感じた。
「何、を言ってるんだ?」
「今言ったこと、嘘だろ? お前はそんなこと、これっぽっちも思っちゃあいない」
ダブルは、またいつものような飄々とした、皮肉を含んだ笑顔をしていた。
「なあ。そうだろう?」
「お前が、知ったようなことを、言うな」
「オレは何でも知ってるぜ? 特に、お前のことに関してはな」
ダブルがそう言って目を細める。その言葉は、前も聞いたような気がする。
僕の手が、ほとんど無意識に持っていた鞄の中へ伸びる。
手帳の表紙の、ざらついた感触。さっき書店で買った本の紙袋。財布の金具。
違う。僕が今探しているのは、これではない。僕が探しているのは──。
右手が、硬くて冷たい物に触れる。そのままつかみ、引き摺り出す。
鋏だ。何故入っていたのだろうか。入れた覚えはないのに。だが、不思議と違和感はなかった。まあ、そんなことはどうでもいい。探していたのはこれだ。刃物。
「いいモノ持ってるじゃあないか」
ダブルが鋏を見て満足げに笑う。
「あの女は気づいてないぞ。今がチャンスだ」
彼女は僕の前を歩いていた。背中が、無防備に晒されている。
「駄目だ」
僕は小さな声でそう呟く。
「そんなこと、僕は」
なけなしの理性を総動員して、そうほざく。
「どうした? いかないのか?」
ダブルが言う。
僕は一歩、彼女に近づく。
「ほら」
彼女の背中が、すぐそこにある。
手を伸ばせば、簡単に届く距離。
「今」
鋏の先が、柔らかいものに触れ、押し込まれる。
彼女の体が、ゆっくり、倒れる。
「……ぁ」
赤く染まってゆく地面。
生暖かく湿った手。
呼吸が荒くなる。
何故。
違う。
これは──。
⬛︎⬛︎⬛︎
僕は、逃げるように立ち去り──否、その場から逃げた。
自分の家に転がり込み、鍵を掛ける。
「何故……僕に『彼女を殺せ』なんて言ったんだ」
荒い呼吸もそのままに、僕はダブルを問い詰める。
「そんなにオレを睨むなよ。オレは『殺せ』なんて、一言も言った覚えは無いぜ?」
ダブルはいつも通り、薄っぺらい笑みを浮かべている。いちいち癪に障る。
「五月蠅い」
「オレは関係ないね。神にだって誓える」
「違う」
「何も違わない。オレは何もしていない。全部、お前一人が、勝手にやったことだ」
「お前が殺したようなものだろう! 僕は、僕は彼女を殺したくなんかなかった!」
思わず叫ぶ。一人で勝手に? そんなはずはない。ダブルが、お前が言ったから、僕は──。
「本当に、殺したくなかったのか?」
「当たり前だ!」
「でも恨んではいただろ? 本当は、憎くてしょうがなかったんじゃあなかったのか? あの女が」
心臓の音が大きい。何も聞こえなくなりそうだ。だが、彼の決して大きくない声は、すんなりと僕の耳に入ってくる。
入ってきてしまう。
「誰もがついて行く才能のある彼女と」
違う。
「誰もいない、オレしかいないお前と」
違う。
「なあ? そうだろう?」
違う。
確かに、その感情が無かったと言えば、嘘になるかもしれない。羨ましかったと、そう言えるのかもしれない。置いていかれたと、そう感じていたのかもしれない。
だが、その感情が殺意に変わった、なんて、そんなことは有り得ない。
認めてはいけない。
僕はキッチンへ走る。かすかに、珈琲の苦い香りがした。
引き出しを開ける。手に取ったのはナイフだ。鋏は彼女の体に刺さったまま置いてきてしまった。
ナイフをダブルに向ける。
「僕じゃない……お前が殺した!」
自分でも何を言っているのかよく分からない。でも止められない。
ナイフを構える。「あの時」のように。
彼女を、刺したときのように。
ダブルは避けようともしない。ポケットに手を突っ込み、じっと僕を見つめる。
ナイフを刺す。衝撃。
──鋭い痛み。
ナイフが、刺さって、いるのは。
「──……」
僕の、腹?
痛みに耐えられず、膝をつく。ダブルには傷ひとつない。
何故?
僕は、彼を──ダブルを、狙ったはずなのに。
これじゃあ、まるで。
僕が、自分で自分を、刺したような────。
「…………ぁ」
その時、唐突に僕は気付く。
ダブルは、幽霊でもなんでもない。
自分が生み出した、ただの幻。もう一人の自分だ。
ダブルは、僕のことに関してはなんでも知っていると、口癖のように言っていた。当然だ。彼は僕だ。自分のことを知っているのは、至極当たり前のことだ。
視界が霞む。妙に冷静になった頭が、そんな変なことを考え出している。
ダブルがしゃがみ込み、僕の顔を覗く。今まで近くであまり見たことが無かった、彼の顔。
その顔は、毎朝僕が鏡で見ている顔だった。
僕の顔だ。
「ほら、やっぱりそうだろう? オレは関係ない。全部お前がやったことだ」
視界が赤く染まってゆく。体から何かがごっそり抜け落ちていくような、そんな感覚がする。
「オレの所為じゃあない。自分でもよくわかってるじゃあないか」
意識が消える直前、ダブルが──もう一人の僕が、そう言って嗤った。
僕と全く同じ顔で。
僕と、真反対の笑顔を貼り付けて。
秒針の音が、やけに、大きく、響い、て────。
最後まで読んでいただきまして、本当にありがとうございました。
皆様が普段読まれている小説とは比べ物にならない程拙いものですが、楽しんでいただけましたら嬉しいです。
今回はこちらで失礼させていただきます。
ありがとうございました。




