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師の影、真実の光

作者: 久遠 睦

序章:日常と予兆


佐倉結衣、27歳。彼女の世界は、言葉にならない人々の感情で飽和していた。横浜港から吹き付ける湿った潮風が、街の隅々にまで染み渡るように、彼女の心にも依頼人たちの喜び、怒り、そして絶望が流れ込んでくる。神崎法律事務所の若きアソシエイト弁護士として過ごす日々は、そうした感情の奔流を、法という名の無味乾燥な言語に翻訳し、書類の山へと変えていく作業の連続だった 。


午前中は、夫の不貞に涙ながら声を震わせる女性のための離婚調停準備。午後は、追突事故の過失割合を巡って一歩も譲らないトラック運転手からのヒアリング。夕方には、膨れ上がった借金の返済計画に光を見出そうとする若い夫婦の相談。結衣は、一つ一つの案件に誠実に向き合った。だが、彼女には一つの「癖」ともいえる特性があった。彼女は、依頼人が語る事実の裏側で、本人すら意識していない感情の微細な揺らぎを、まるで不協和音のように感じ取ってしまうのだ 。その過剰な共感性は、時にプロフェッショナルとしての客観性を欠く未熟さの表れだと自戒することもあったが、心のどこかでは、それが法という無機質なフィルターでは決して捉えきれない「真実」の欠片なのだと信じていた。


「佐倉先生、また眉間に皺が寄っているぞ」


不意にかけられた声に、結衣は我に返った。声の主は、神崎龍之介。この古びた雑居ビルの一室に構えられた法律事務所の主であり、結衣の唯一の上司であり、そして師でもある男だ。彼は、窓辺の使い込まれた革張りのソファに深く身を沈め、分厚い哲学書から顔を上げずに言った。


「その債務整理の案件、依頼人の人生まで背負い込む必要はない。我々の仕事は、法的な手続きを代行すること。それ以上でも、それ以下でもない」


神崎は、かつて法曹界で「やり手」としてその名を轟かせた敏腕弁護士だった 。しかし、今では横浜の片隅で、結衣と二人きりの事務所を営む、世捨て人のような生活を送っている。彼の過去には、ある贈収賄事件で無実の人間を有罪に追い込んでしまったという黒い「噂」が、消えない影のように付きまとっていた 。その影は、神崎自身が好んで纏っているようにも見えた。彼の凪いだ瞳の奥には、何かを、あるいは誰かを、ただひたすらに待ち続けているかのような、底知れない緊張感が宿っていた。


結衣は、神崎の言葉に小さく頷きながら、窓の外に目をやった。事務所の窓からは、横浜の二つの顔が見えた。遠くには、未来都市のようにそびえ立つみなとみらいのビル群 。ガラスと鋼鉄の巨塔が夕日を浴びて黄金色に輝いている。しかし、視線を足元に落とせば、そこには戦後の区画整理から取り残されたような、古く入り組んだ街並みが広がっていた。光と影。この街もまた、師である神崎と同じ、複雑な貌を持っていた。


特に、事務所からほど近い寿町 。かつて日雇い労働者の「ドヤ街」として知られ、日本の高度経済成長を底辺で支えた男たちの汗と涙が染み込んだ土地 。戦後の米軍による接収、その後の再開発の波の中で、数え切れないほどの物語が生まれ、そして誰にも知られることなく忘れ去られていった場所 。


結衣はまだ知らなかった。その忘れられた土地の記憶こそが、彼女の平穏な日常を根底から覆す、巨大な事件の震源地であることを。そして、師である神崎が、その震源地で静かに「時」が満ちるのを待ち続けていたことも。


発端:過去からの訪問者


その日、事務所の古びたドアが軋む音と共に現れた女性は、まるで嵐そのもののようだった。雨に濡れたトレンチコート、固く結ばれた唇、そしてその瞳には、深い絶望と、それを焼き尽くさんばかりの烈しい意志が宿っていた。


「神崎龍之介先生はいらっしゃいますか」


女性は名乗った。高田美咲、と。彼女は、神崎の「昔の噂」を頼りに、この場所を探し当てたのだという。殺人容疑で逮捕された恋人、村上健太の弁護を依頼しに来たのだと、彼女は途切れ途切れに、しかし力強く語った 。


健太の状況は、絶望的という言葉ですら生ぬるかった。被害者との最後の接触者であり、犯行現場からは彼の指紋が付いた凶器が見つかり、そして何より、本人が警察の取り調べに対し、犯行を全面的に認める「自白」をしていた 。


結衣が事件の概要を聞くだけで胃が収縮するのを感じる中、神崎は表情一つ変えずに美咲の話を聞いていた。そして、彼女が話し終えるのを待って、静かに、しかしきっぱりと告げた。


「お引き受けできません。勝ち目がない」


それは、冷徹なプロフェッショナルとしての判断。だが、結衣には分かった。神崎のその言葉は、計算された一幕だった。彼の視線は、美咲ではなく、結衣に向けられていた。それは、試すような、あるいは挑発するような眼差しだった。結衣の心の奥底にある、青臭いとさえ言える正義感という名の導火線に、静かに火を点けるための。


美咲の顔から血の気が引いた。彼女は懇願するように、神崎に食い下がった。

「でも、先生なら……。先生は、不可能を可能にする弁護士だと聞きました。どんな不利な状況でも、真実を見つけ出すと……」


「噂は噂だ。昔の話だよ」神崎は冷ややかに言い放ち、再び手元の本に視線を落とした。


その瞬間、結衣の中で何かが弾けた。目の前で希望を打ち砕かれ、震える美咲の姿。そして、それを見てもなお、心を閉ざしたままの師の姿。


「先生が引き受けないなら、私がやります」


声が、自分でも驚くほど大きく響いた。事務所の空気が張り詰める。神崎はゆっくりと顔を上げ、初めて結衣を真正面から見た。その瞳の奥に、ほんの一瞬、満足げな光が宿ったのを、結衣は見逃さなかった。


「……好きにしろ。ただし、俺は一切手伝わん」


神崎はそう吐き捨てたが、その言葉が彼の本心でないことは、結衣にはもう分かっていた。この事件は、神崎が、そしておそらくはこの街が、長年待ち望んでいた「始まり」なのだ。


最初の接見で会った村上健太は、寿町の安アパートで暮らす、ごく普通の若者だった 。少し気弱そうで、他人の顔色を窺う癖がある。だが、アクリル板越しに彼が語る「自白」は、まるで他人のセリフを棒読みしているかのように空虚で、感情が欠落していた。結衣の耳には、彼の言葉そのものよりも、その裏で悲鳴を上げている「恐怖」と「無力感」が、痛いほど鮮明に聞こえていた 。


日本の刑事司法が抱える「人質司法」という名の闇。密室での長時間の取り調べ、捜査官による威圧や利益誘導 。それらが健太の心を折り、意に反する供述を強いたことは想像に難くない 。彼は、社会的に弱い立場にあるがゆえに、都合の良い「犯人」として選ばれたのだ。結衣は、接見室の冷たい空気の中で、静かな怒りと共に確信した。


事務所に戻り、神崎に報告すると、彼は「だから言っただろう。時間の無駄だと」とだけ言った。しかし、その夜、結衣が一人残業していると、神崎は無言で一枚の古い新聞記事のコピーを彼女のデスクに置いた。十数年前の、彼が担当した贈収賄事件の記事だった。そこには、今回の健太の事件と奇妙に符合する、いくつかのキーワードが記されていた。


奔走:証拠の探求と二つの事件


健太の無実を証明するための戦いは、検察という巨大な壁との戦いから始まった。結衣が証拠開示を請求しても、検察側が提示してきたのは、彼らが公判で使う予定の、健太に不利な証拠のリストだけだった 。弁護側に有利になりうる証拠は、その分厚いファイルのどこにも見当たらない。日本の刑事司法における、この圧倒的な情報の非対称性 。それが冤罪の温床となることを、結衣は改めて肌で感じていた。


「これじゃ、丸腰で戦えと言っているようなものです」

結衣が不満を漏らすと、神崎はデスクで珈琲を啜りながら、こともなげに言った。

「それがこの国のルールだ。ルールの中で戦うしかない。あるいは……ルールの外でな」


その言葉に背中を押され、結衣は独自の捜査に乗り出した。彼女はまず、事件現場となった横浜港近くの倉庫街に何度も足を運んだ。警察の現場写真と調書だけでは分からない、空気、匂い、そして距離感。健太の自白調書に記された犯行状況と、実際の現場の地形との間には、無視できない「ズレ」がいくつも存在した 。例えば、調書では「一突きにした」とされる凶器のナイフ。しかし、法医学鑑定書を隅々まで読み込むと、被害者の傷の角度には、素人が一突きにしたにしては不自然な点が見受けられた 。


結衣は、弁護士会照会という武器を使い、関係各所に情報の開示を求めた 。被害者の通話記録、現場周辺の防犯カメラ映像、健太の勤務記録。断片的な情報が、パズルのピースのように少しずつ集まってくる。


並行して、彼女は地道な聞き込みを続けた。警察が「重要参考人ではない」と判断した人物にこそ、真実が隠されているかもしれない。被害者が通っていたバーのマスター、健太が働いていた工場の同僚、そして事件現場近くで暮らす人々。結衣は、持ち前の共感力を武器に、彼らの心の扉を叩いた。威圧的な刑事の尋問には口を閉ざした人々も、真摯に話を聞く若い女性弁護士には、少しずつ心を開いてくれた。


「あの被害者の男、最近よく見かけない男と会ってたよ。見るからにカタギじゃない、羽振りの良さそうな男とね」

「健太? あいつが人殺しなんて冗談だろ。あいつは、虫も殺せないような奴だよ。ただ、最近金のことで悩んでたみたいだけどな……」


些細な証言の断片。それらが結衣の頭の中で繋がり始めたとき、彼女は奇妙な事実に突き当たる。捜査の過程で浮かび上がってくる人間関係や金の流れが、神崎が過去に担当した、あの贈収賄事件の構図と不気味なほど酷似しているのだ。


ある夜、結衣は意を決して神崎に問いただした。

「先生、この事件、十数年前の先生の事件と繋がりがあるんじゃないですか? 被害者の背後にいたという建設会社の名前、今回の事件の関係者リストにも同じ名前があります」


神崎はしばらく沈黙し、窓の外に広がる横浜の夜景に視線を向けた。ランドマークタワーの光が、彼の横顔に深い陰影を落としている 。



「……偶然だろう」

彼はそう答えたが、その声にはいつもの冷たさはなかった。

「だが……もしお前が本気でその『偶然』を追うつもりなら、一つだけ教えてやる。俺が担当した事件の被告人は、最後まで無実を主張していた。そして、彼の無実を証明できるはずだった唯一の証人が、公判の直前に姿を消した。その証人が最後に目撃されたのが、寿町だった」


神崎の言葉は、新たな謎の扉を開いた。二つの事件は、単に似ているだけではない。同じ根から生えた、二本の歪んだ木なのかもしれない。そしてその根は、横浜という都市がひた隠しにしてきた、暗い歴史の土壌に深く、深く伸びている。


結衣は、図書館の古びた資料室で、横浜の戦後史を貪るように調べ始めた。米軍による広大な土地の接収 。闇市と裏社会の隆盛 。そして、寿町地区の成立と変遷 。そこには、港湾利権を巡る抗争や、土地開発に絡む不正の記録が、生々しく記されていた 。忘れられたはずの過去が、亡霊のように現代に蘇り、健太という一人の若者を奈落の底に突き落とそうとしていた。


危機:迫りくる闇と師への疑念


真実の輪郭がぼんやりと見え始めた矢先、結衣の周囲に濃密な闇が立ち込めてきた。それは、明確な悪意となって彼女に牙を剥いた。


始まりは、事務所への不審な侵入だった。深夜、結衣が施錠を確認して帰宅したはずの事務所が、翌朝には何者かによって荒らされていた。金品は盗られていない。ただ、健太の事件に関する資料だけが、入念に物色された跡があった 。


それから、執拗な尾行が始まった。帰宅途中、いつも同じ男が距離を置いて後をつけてくる。ある夜、結衣は意を決して路地裏に入り、男と対峙した。

「これ以上、首を突っ込むな。お前のためだ」

男は低い声でそう告げると、闇に消えた。


脅威は、物理的なものから、より巧妙で精神的なものへとエスカレートしていく。結衣のPCがハッキングされ、調査資料の一部が消去された。協力してくれていた証人たちが、次々と「何も話せない」と口を閉ざし始めた。誰かが裏で圧力をかけているのは明らかだった。そして極めつけは、自宅の郵便受けに投函された一枚の写真。それは、隠し撮りされた、結衣自身の写真だった 。


その脅威は、彼女が現在の事件だけでなく、神崎の、そして横浜の「過去」というパンドラの箱に触れてしまったことへの、明確な警告だった。真犯人は、結衣の調査に気づき、その息の根を止めようとしている。


恐怖と焦りが、結衣の心を蝕んでいく。そんな彼女の様子に気づきながらも、神崎は何も言わず、ただ静観しているように見えた。その態度が、結衣の中で恐ろしい疑念を増幅させた。


神崎は、すべてを知っていたのではないか。この危険な状況も、真犯人の正体も。そして、自分を意図的にこの危険なゲームの駒として、盤上に配置したのではないか。彼は、過去の事件で失った名誉を回復するために、自分を捨て石にするつもりなのではないか。


ある嵐の夜、結衣はついに神崎にその疑念をぶつけた。

「先生は、私を利用しているんですか!? 私が危険な目に遭うことも、全部計算のうちなんですか!」


結衣の震える声が、狭い事務所に響き渡る。神崎は、窓の外で荒れ狂う雨を静かに見つめていた。やがて、彼はゆっくりと振り返り、結衣の目を真っ直ぐに見た。その瞳の奥には、これまで見たことのない深い苦悩と、そして何かを成し遂げようとする鋼のような決意の色が浮かんでいた。


「……お前が今、降りるというのなら、俺は止めん」

神崎は、それだけを言った。

「だが、もしお前がそれでも前に進むというのなら……一つだけ覚えておけ。真実には、人を救う力もあれば、破滅させる力もある。その両方を引き受ける覚悟が、お前にあるのか?」


師は、味方なのか、敵なのか。それとも、過去の罪を償うために自分を道連れにしようとしているのか。結衣の心は、信頼と不信の間で激しく引き裂かれた。だが、彼女は知っていた。もう、後戻りはできないことを。この事件の真相を突き止めるまで、自分の戦いは終わらない。


結末:師の影、真実の光


横浜地方裁判所、第1号法廷。傍聴席は満員だった。村上健太の最終公判は、メディアの注目も集めていた。被告人席で小さくなる健太の隣で、結衣は深く息を吸い込んだ。


検察官の最終論告は、力強く、そして簡潔だった。動機は金銭トラブル、現場から見つかった指紋付きの凶器、そして何より、被告人自身の詳細な自白。有罪率99.9%を誇るこの国で、それは勝利宣言に等しかった 。


裁判長の促しを受け、結衣は静かに立ち上がった。法廷の全ての視線が、この若き女性弁護士に注がれる。傍聴席の最前列には、横浜の経済界を代表する名士、堂島ホールディングス会長・堂島重光の姿があった。白髪を綺麗に撫でつけ、高価なスーツを隙なく着こなした彼は、地域の発展に尽くした功労者として知られている。その表情には、退屈な芝居を観るような、微かな侮蔑の色さえ浮かんでいた。


「弁護人は、まず一点、申し上げます。この事件は、殺人事件ではありません」


結衣の第一声に、法廷がざわめいた。


「これは、一人の無力な青年を『殺人犯』に仕立て上げることで、真の犯罪を隠蔽しようとした、『冤罪製造事件』です」


結衣は、まず健太の自白の信用性を徹底的に突き崩した。警察の取り調べ記録をスクリーンに映し出し、健太の供述が捜査官の誘導によって二転三転する様を可視化する。そして、独自に入手した現場近くの駐車場の防犯カメラ映像を提示し、健太のアリバイを証明した。


「では、なぜ健太さんは嘘の自白をしたのか。それは、彼が『犯人』に選ばれたからです。寿町で育ち、日雇いの仕事を転々とする彼のような社会的弱者は、権力にとって最も都合の良いスケープゴートだからです」


堂島の表情は、まだ変わらない。だが、その指先が、膝の上で微かに震え始めたのを、結衣は見逃さなかった。


「そして、この『冤罪製造』の手口は、今回が初めてではありません」


結衣の声が、法廷に響き渡る。

「今から十五年前、この横浜で、ある贈収賄事件がありました。当時、将来を嘱望された一人の官僚が、建設会社から賄賂を受け取ったとして逮捕され、有罪判決を受けました。その弁護を担当したのが、私の師である、神崎龍之介です」


傍聴席にいた神崎に、一斉に視線が注がれる。彼は、ただ静かに結衣を見つめていた。


「検察官、異議を申し立てます! 十五年前の事件と本件は無関係です!」

検察官が鋭く叫んだ。


「いいえ、断言します」結衣は検察官を真っ直ぐに見据えた。「二つの事件は、同一の犯人による、同一の構図の犯罪です。十五年前、被告人とされた官僚は、最後まで無実を訴えていました。彼のアリバイを証明できるはずだった唯一の証人は、公判直前に姿を消しました。そして、被告人に不利な証拠だけが、まるで誂えたかのように次々と『発見』されたのです。今回の健太さんの事件と、全く同じ手口で」


堂島の顔から、余裕の笑みが消えた。彼の目は細められ、その視線は結衣と神崎の間を鋭く往復した。


「では、なぜこのような手の込んだ偽装が必要だったのか。真犯人が、どうしても隠し通さなければならない『原罪』があったからです。その原罪の舞台こそ、横浜という都市がその輝かしい発展の影に葬り去ってきた、暗い歴史の中にあります」


結衣は、一枚の古い地図をスクリーンに映し出した。それは、戦後間もない頃の寿町周辺の地図だった。

「終戦直後、横浜の中心部は米軍に接収され、人々は住む場所を失いました 。特に、この寿町一帯は、焼け野原となった土地を巡り、法も秩序もない、力だけが支配する世界でした 。その混乱の中、ある一族が、不法な手段で広大な土地を次々と手中に収めていきました。その土地こそが、現在の堂島ホールディングスの礎となったのです」


傍聴席が、大きくどよめいた。堂島は、顔を蒼白にさせ、結衣を睨みつけた。その瞳には、もはや侮蔑ではなく、剥き出しの憎悪が燃え盛っていた。


「今回の事件の被害者、ジャーナリストの広岡氏は、その土地収奪の真相に迫っていました。彼は、堂島会長、あなたの『原罪』を暴こうとしていたのです。だから、あなたは彼を殺害した。そして、十五年前と同じように、罪を他人に着せることで、すべてを闇に葬ろうとしたのです」


「黙れッ!」


堂島が、ついに叫んだ。その声は、これまで彼が築き上げてきた名士としての仮面を粉々に引き裂いた。


「その通りです」結衣は、その叫びを待っていたかのように続けた。「あなたは、真実の言葉に耐えられない。だから、これまでも力で、金で、人の口を封じてきた。十五年前、神崎弁護士の法廷で消された証人。彼は、あなたの不正を告発しようとしていました。しかし、彼はあなたの脅迫に屈し、姿を消すしかなかったのです」


結衣は、裁判長に向き直り、最後の一枚の書類を提出した。

「ここに、その消された証人が、神崎弁護士に宛てて残した手紙の写しがあります。そこには、堂島会長から受けた脅迫の内容と、不正の証拠の在りかが詳細に記されています。神崎弁護士は、法廷で一度は敗れました。しかし彼は、無力ではありませんでした。彼は、法廷の外で、この手紙を守り続け、真実が再び光を得る時を、十五年間、たった一人で待ち続けていたのです」


「小娘が……! あの落ちぶれた弁護士风情が……!」

堂島は、席から立ち上がり、わなわなと震えながら結衣と神崎を指差した。「貴様らごときが! この私が、血反吐を吐きながら築き上げたこの横浜を! 私の王国を汚すというのか!」


その言葉は、自白以外の何物でもなかった。彼の社会的仮面は完全に剥がれ落ち、そこにいたのは、自らの欲望を守るためなら他人の人生を躊躇なく踏み潰す、醜い老人でしかなかった。法廷は、騒然となった。


数時間後、裁判長は、厳粛な声で判決を言い渡した。

「被告人、村上健太、無罪」


健太は崩れるように泣き、美咲がその体を強く抱きしめた。


法廷を出ると、初冬の冷たい空気が火照った頬に心地よかった。隣を歩く神崎が、ぽつりと言った。

「……見事だった」

「先生が、守り続けてくれたからです」

結衣が答えると、神崎はふっと笑った。「俺は、待っていただけだ。お前のような、馬鹿正直で、諦めの悪い弁護士が現れるのをな」


二人の視線の先で、パトカーに押し込まれる堂島の姿が見えた。かつての威厳は見る影もなく、ただ呆然と虚空を見つめていた。


数ヶ月後、神崎法律事務所の窓から見える横浜港は、穏やかな陽光にきらめいていた。結衣が淹れた珈琲を手に、神崎が言った。

「一つの影が消えても、この街から影がなくなることはない。光が強ければ、影もまた濃くなる」

「知っています」結衣は、師の横顔を見つめ、力強く頷いた。「だから、私たちの仕事もなくならない。そうでしょう?」


神崎の「影」から抜け出した結衣は、自らが放つ「光」で、法廷を、そしてこの街の未来を照らす、真の弁護士としての一歩を踏み出した。その光は、この街が抱え続けるであろう影を、より一層深く、そして鮮やかに映し出していた。


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