とある古いオタクの懐古趣味
私は古いタイプのオタクで、昔、秋葉原(アキバ系なぞもはや死語だ。)で美女萌えなどと言ってたオタクよりも古い世代のオタク(作品愛!グッズなども全て集めていた)なのだ。最近の同人界隈も商業主義が浸透していて、昔の金の事を考えない同人が実に楽しかった記憶しかない。
昔のオタク趣味にかけるようなエネルギーはもはやない。良作と言われるアニメ、ゲームなどを見ても「面白かった」で終わるのみで、余韻が実に残らないものだ。年を取ったせいなのかも知れないが、今時のオタク趣味は昔に比べると随分と薄くなった。
昔取ったオタクの情熱の杵柄で、アニメやゲームの元ネタを書いたりすると、ネットはクリエイター界隈側も見る時代なのか、かなり嫌がられる事は間違いない。
聖書学好きオタクなぞそんな扱いなわけだが。
ファイナルファンタジーの元ネタを知りたくて色々調べたりしていたわけなのだけど。
最近は同人をしたくなるような熱量を持つ作品は少ないのだけど、ファイナルファンタジーの元ネタとか考えてると熱くなれるわけよね。作品愛の古いタイプのオタクなのだ。
作品愛とか解説の濃厚さを漂わせてるオタク系が減ったのは実に寂しい。みんな設定で萌えれないんだな。
Xの世界では時々話題になる、リアルワールドの時事ネタをゲームやアニメネタで喩えたりするのは、もう西洋文明では一発退場なレッドカードだ。
古いタイプのオタクは、感性がもうそんなのでしか楽しめない所あって、何でこう世間一般の消費社会で熱くなれないのだろうか?
昔のオタク文化は世間の消費社会のアンチテーゼっぽい所があった。(作っていた人が左翼系が多かったせいで)今では西洋近代まるごと屑籠に捨てられそうな、啓蒙主義的なメッセージが輝いていた。
リアルワールドでは、なんちゃってキリスト教保守主義の風を吹かせてるのに、地動説アニメ見て宗教の迷妄を揶揄してるとか、どうなってるのだろうか?などと思ってしまう。
アメリカ中西部のバイブルベルトな人なら、フラットアースとか言って地動説すら信じてないのがガチでおるわけ。
恐竜と人類が同時期に創造されたとか、地球は6000年前に6日間で創造されたとかの聖書原理主義博物館を揶揄するのに、聖書は一字一句真実だと信じる福音派よりも、狂信的に(信仰なしの)キリスト教保守主義の価値観を持ってるのが、美少女萌えのオタクっぽい人達だった。
なので、宮崎駿が左翼だったのをマジで知らない人達がいたりする。昔のアニメほど左翼匂のするものはなかったのにも関わらず。
作品愛とか濃厚設定萌えとか、そういうタイプのオタクはやっぱ日陰者なんだなーって。
昔の左翼風味のコスモポリタニズム的な人類愛イデオロギーがあった生暖かかった昔のアニメをしみじみ懐古したりしてます。
昔の啓蒙主義が輝いていたアニメって、消費社会みたいなのに凄くアンチテーゼなのあったから、私はリア充的な人達は何故自己充足できないんだろう?と見ていた。その体験があるから、リア充に真の素晴らしさを感じる感性がないのだ。
聖書が一字一句真実だとか、地球の歴史は6000年前に始まったとか、そのようなイデオロギーを頭から信じれない信仰の問題なのだ。
ネットがない時代はリア充は難しかった。情報や言語空間がリア充系ではなくて、左翼系に押さえられてるので、プレリア充ってフジテレビのアメリカかぶれ番組と一部雑誌位しか情報源がなかった。
ネットが普及してない90年代前半、周りにいたリア充は、骨の髄までアングロサクソン文化にどっぷり染まってる、なんちゃってニワカな欧米かぶれのマスコミ文化人すら裸足で逃げ出すガチ系だった。
放っておけば良いものを、消費社会への強制改宗を迫った人達何だったんだ。
未だに古いオタク的な楽しみ方しかできない古いオタク
昔のベルばらのアニメの、ファッションリーダーとしてのマリー・アントワネットを揶揄する池田理代子の破壊力凄すぎだろ。
あのアニメのせいで、骨の髄までアングロサクソン文化にかぶれていたリア充が無常観強く見えたりする効果は凄い。
こうやって、個人的な秘密宗教だった時代のキリスト教よろしく、リア充の目の届かない所で、池田理代子の漫画だの、ファイナルファンタジータクティクスが突きつけるリアリズムなどに共感してるのは、さぞ不快だったに違いがないだろう。
FFシリーズのナンバリングタイトルがラテン数字だった事すら昔はタブーだった。ラテン数字は、一部のインテリしか知り得ないものだった。本を読めば普通に書いてある事すらタブー感があった。
田舎者のオタクだったわけだ。
昔の日本の庶民が、憂さばらしのために働いてるって世界観が、リア充は嫌いだった。
田舎者のオタクも、そういった昔の日本の庶民のような価値観があって、実に享楽的だった。昔は、別に漫画でない稀覯本(というよりも発行部数が1000冊代のニッチな分野の本)なども、給料全てを注ぎ込みたいようなものが沢山あった。
給料全てを注ぎ込みたいと思うような、ニッチな本にかける熱量はもはや今はあまりないものだから。作品愛の古いオタクもそういった濃厚さが地続きにあった。
あの時代を思い出すと、実に充足感に満ちていた。だからリア充になりたいとあまり思ったことがなかった。あまりに満たさ過ぎているもので溢れていたから。
だからリア充文化の他人巻き込み系が不思議に見えていた。
おそらく禅仏教(曹洞宗)にルーツがあるであろう、日本の庶民の「世界観なし」(だから角川やスクエニに課金)は、リア充は許せないのだろうなと。
欧米の宗教学の本でも、道元禅師は数ある仏教国の坊さんの中で、際立つ思想家として紹介されている。憂さばらしのために働く日本の庶民の価値観が許せないのも、オタク文化の根っこには仏教的な世界観が横たわっている。
今のオタク文化がリア充と垣根なくなってわからなくなったのだが、オタク文化には明確な東洋性がある。
あの時代の何でもありのフリーダム過ぎる雑誌文化は、きっと「日本版自由主義」と言っても良いものだったに違いない。銀河英雄伝の政治腐敗描写にすら目くじらを立てるなど想像もできなかった。