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落暉の一条  作者: 蟹家
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それでもまだ、現実(二)

 それから部屋を出て下男に掃除を頼み、本来は必要ない銀貨一枚を渡した。いわば賄賂だ。時折、部屋から漏れ出る行為の声を扉の前で盗み聞きしている彼は、私に少なくないチップが渡されていることを知っている。

 それがこの娼館の主、パトリスの耳にまで回ったら、きっと何かしらのケチを付けて巻き上げられるに決まっている。端金で面倒を避けられるなら、そうする。

 「お金で済むなら払っちゃうの。私たちはそうやって生きていくの」当時この店の一番手だったエトワルは、右も左も分からない私に優しくそう教えてくれた。歳は私の二つ上。姉のような存在と言っていい。

 コンコンとエトワルの部屋の扉をノックする。

「エトワル、私。マキアだけど」

「来たのね、入って」

 ドアを開けると、薄い生地のネグリジェを纏ったエトワルが椅子に腰かけていた。

 彼女がこちらを振り向くと、肩にかかった栗色の髪がはらりと落ちる。薄いグレーの瞳が私を見る。

「今日はもう終わったのかしら?」

 そう言った彼女に、ビスクドールに命を吹き込んだような美少女の面影はなかった。細く棒切れのような四肢に、血色の悪い灰色の肌がへばり付いている。けれど、瞳だけは吸い込まれそうなほど妖しく艶めいた輝きを放つ。

 ニ、三年前から体調を崩しがちになった彼女は、ここ半年ほど客を取れなくなっていた。

 町医者にエトワルを診せたが、教会の医術でないと治療は難しいという話だった。

 父王が死に様々な制度が変わり、医術はソティラ教の独占でなくなったが、やはり今でも医術の中心は教会だった。

 娼館並ぶ裏町に聖職は近付かない。教義において婚約者以外との姦通は認められておらず、したがって娼婦は下賤な畜生と同じだった。夜の隅で私達が泣いても、狂った野良犬の遠吠えと変わらない。

「今日は六人お客を取ったから、もう終わり」

 私がそう言うと、エトワルは軽くふっと息を吐き出した。溜息のようだった。彼女の顔は心なしか力んでいる。

「どうしたの? エトワル、ちょっと変だよ」

「そうね、黙ってても仕方ない」

 そう言うと、私に手を突き出してきた。何かを握っている。

「これ、今日あなたの部屋の引き出しからはみ出ていて、見つけのだけれど」

 静かな怒気をはらんだその声は、私の心を緊張させる。

 そして、エトワルはゆっくりと手を開いた。

 王家の印が入った首飾りだった

 獅子をモチーフにしたそれは、六年前までの国旗でもあり、私の家紋でもある。そして、私が今は亡き王家の一人であることを示している。

「マキア、私がなんでここにいるのか、話したことあるわよね」

「……」

 革命以前の数年は、数千の市民たちが王城に乱入し近衛軍と揉み合いすることが、何度もあった。その中でエトワルの父は死んだ。そして豪農の娘として育ったエトワルは、幼くしてその身を売られることになった。

「父があの愚王に殺されたからよ。まつりごとの責から逃げて、私の父を! 殺して!」

 彼女はそう言うと首飾りを床に叩きつけた。そして、私を押し倒して、馬乗りになる。

 革命の前夜、私は市民の怒声と窓から見える近衛兵の死体を炙る業火に震えていた。母はその時に首飾りをそっと私に握らせた。

『この獅子は先王たちなのよ。大丈夫。あなたはいつまでも守られるの』

 父母の首が落ちる時も、弟が串刺しにされる時も、広場で輪されている時も、初めて身を売った時も、私はずっとその首飾りを握っていた。

「なのにマキア、あなたが姫だなんて! 裏切った!」

 細い棒切れのような腕で私の頬を何度も叩いた。痛みはない。力は、殆ど入っていない。

「もう国はない。だから私は姫じゃない」

「っ! ……バカにしてたんでしょ! 私のこと!」

「バカになんてするわけない。今の私はエトワルのおかげ」

「あの! 愚王が! だから、私は」

「……分かってる。でも父は死んだ」

「友達だと……思っていたのに!」

「……私は友達だと思ってる」

 そこまで言うと、エトワルは手を止めて、私の胸に突っ伏した。

 じんわりと胸元が暖かく湿って、彼女が泣いているのだと分かった。

 そこにいつものエトワルの姿はなく、ただ一人の少女だった。

 私は彼女の栗色の髪をそっと撫でた。ゆっくりと、何度も、何度も。

「友達……だよ」

 静かな嗚咽が聞こえる。

 私に体を預けて泣くエトワルが、どうしようもなく愛おしかった。

 頭をそっと持ち上げる。涙でぐしゃぐしゃだ。幾千の男を虜にしたその目に、妖しい光は無い。ただの少女が泣いている。

 涙で濡れた彼女の頬に口づけ、舐めた。少し塩辛い、ただの人の涙だ。火照ったエトワルの頬は心地よかった。濡れ跡を探すように、私の唇は彼女の頬を彷徨う。目の下から、顎先まで行ったり来たり。そして、その果てに見つけた唇にそっとキスをした。幾度も触れるように。けれどそれは徐々に熱を帯びて。

「マキア……もっと……」

 エトワルは何かを懇願するように私の名を呼ぶ。開いた口を埋めるように下を絡めて、彼女の赤らんだ耳朶を愛撫する。熱い吐息が口を満たして、嗜虐心と官能を刺激する。

 太ももにぽたりと冷たいものが垂れた。それが何か分かったと同時に、私は心臓の底が止められないほど熱く燃え上がるのを感じた。


ーー


「私、自分は何も苦労しないんだろうって思っていたの」

 二人で何度も果てて薄いまどろみを感じながらエトワルの頭を撫でていると、彼女はおもむろにそう言った。

「人よりお金持ちの家に生まれて、欲しいものは買ってもらえて……。マキアほどじゃないと思うけれど」

「……うん」

 エトワルの言葉に頷いてみる。

 私が王家に生まれて、求められたのは品位と節制だった。欲しいものもなぞ、買ってもらったことはない。けれど、彼女に言っても通じないだろう。それに、彼女の機嫌を損ねたくなかった。

「今の歳くらいにはお嫁に行って、数年のうちに子どもが出来て、一人目は女の子で……」

 部屋を照らすランプの火が揺れる。獅子の首飾りは、まだ床に落ちたままだった。

「こんな人生、思ってもみなかった。父様が死んで、あっという間に何もかも立ち行かなくなって、家族がバラバラになって、身体を売るようになって、病気になって……」

「病気は治るよ、きっと」

 悲嘆ばかりを口にする彼女の言葉を埋めるように、そう言ってみる。ありがとう、と彼女は笑った。そして私は、彼女の命が短いことを悟った。

「でも、人間って、こんな状況にも慣れちゃうもんだね。だって私、今幸せだもの」

 彼女の命が短かろうとも、今はまだ幸せだった。行き場のない冬の雀が身を寄せ合うように、明日もきっと私たちは身体を重ねる。

「エトワル、私も……」

 言葉にならない思いを、口づけで伝える。確かめあうように舌を絡める。

 その日初めて、人と繋がったのだと思った。


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