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落暉の一条  作者: 蟹家
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それでもまだ、現実(一)

「お前ももう少し可愛げがあれば、もっと客つくのになぁ」

 ヴィクトル・ディケンズはひとしきりの説教の後、濃い紫煙と一緒にそう吐き出した。

 彼と交わるのも十数度目の私は、行為後の彼が葉巻をふかしながら説教をするのはとっくに知っていた。この無意味な説教の後は気が済むまで舐めさせられることも分かっている。

 ランプは体毛の濃い彼の上半身は四十半ば相応の、腹周りにだけ肉のついた彼の体を照らしている。昼の顔はそこそこ成功した商人だと聞いている。妻子と、愛人が二人。説教の合間の自慢話でそう言っていた。

「マキア、お前のために言ってやってんだぞ」

 「ありがとうございます」と私は笑った。面倒だろうとディケンズの指名は大事だ。指名の数が控室での私のヒエラルキーを決める。多ければ店やルカからも大事にされ、無ければ蔑ろにされる。

「そうそう、それだよ。仮面みたいに張り付いたその笑顔。そのせいでお前は客がつかない。化粧マキアージュなんて源氏名にされちまう」

 どうやって笑えというのだ。十でこの娼館に売り払われてから早五年。寝た男の数でしか争えない売女の一人となった私に、なにを、笑えと。

「でも、ディケンズ様は私をご指名くださるのでしょ?」

 喉の奥にわだかまる言葉たちを差し置いて、平然と私はそう言った。表裏。けれど多分、この軽薄な表こそが私だ。涙よりも先に、今この場をやり過ごすための方法が出る。

 ディケンズはハハハと笑う。

「お前は聡いなぁ。小賢しいって言ってもいい」

「お嫌いですか?」

「いや、俺はお前のそういうところが気に入ってるんだ」

「ディケンズ様のようなお方に好かれることは光栄ですわ」

「あぁ、そうだろうとも……」

 彼の脂ぎった手が、私の頬を撫でる。官能的な表情を作ってみせると、彼の下品な視線が絡みついてくる。手は首筋から胸元へと降りてきて、乳房を掴まれる。

「マキア……」

「分かっていますわ」

 ディケンズの物欲しげな顔を浮かべた瞬間彼の口に指を押し当てた。

「ああ、良い子だ。マキア」

 そして、彼の股座に顔を埋めるのだった。



 ディケンズが残したワインボトルに直接口を付け、流し込む。二、三度濯いでから、シーツへと含ませるように吐き出した。赤がじわりと滲んで広がっていく。

「……汚い」

 未だに鼻の奥に生臭さがある。息を深く吸うと、部屋にはまだディケンズの吸った甘い葉巻の香りがまだ残っていた。倦怠感、嫌悪感と共にそれを吐き出す。

 少し寒気を覚えて、湿ったタオルケットを肌に寄せる。それから私はベッド脇のローテーブルに置かれたチップの銀貨を数えた。

「……四枚、五枚」

 ディケンズは分かりやすい男だった。行為の満足度でチップの銀貨を変えてくる。最大で十枚。いつもは八枚前後だから、少なかった。

「やっぱり六人は取りすぎか……」

 私は普通、一晩に三人程度しか客を取らない。常連の指名が入ったから五人も取ってしまったけど、あまり良くなさそうだ。

 そこまで考えてから、チップの銀貨を掴み取り、力任せに投げつけた。

 けたたましく鳴り響き、それから数枚が床を転がる。

「なんで、私が……こんな」

 頭の奥から溢れる感情。情けない自分への嫌悪感。唇を噛む、眉間にしわが寄る、なにかがぐにゃりと曲がる。けれど、涙は出ない。ベッドに顔を埋めてシーツを思い切り引っ張るけれど、涙は、出ない。

『どこにいようとあなたはいつまでも王族なのよ。だから誇りを忘れてはいけない』

 十年前の母の言葉が心を通り過ぎる。こんなところにいてもですか? 見知らぬ男に金で抱かれてもですか?

 父上の首がギロチンで胴から離れたあの瞬間からもうこの国に王はいない。私の貴い血もきっと広場で輪わされた時、破瓜と同時に流れ出たのだ。だから男の上で腰を振ろうとも、ただ喘いでいられる。

 私がベッドに突っ伏して空の涙を流していると、扉がノックされた。

「マキア、ディケンズ様は帰ったの?」

 ボーイのルカだった。自分の感情の昂りが、すっと落ち着くのを感じる

「帰った……よ、ルカ」

 帰った、だけだと彼に対してぶっきらぼうな気がして、そう付け加える。

「そうか、入っていい?」

「ちょっと待って」

 まだ裸だった私は手近に置いてあるガウンを着込む。姿見の前に立ち、乱れた髪を整える。首元につけられたキスマークに気付いて、ガウンを引っ張り、隠した。

「入っていいよ」

 扉が開くと、独特な臭気で満たされていたこの部屋が少し爽やかになる。

「お疲れさん、マキア」

「……ありがとう」

 臙脂色の燕尾服に身を包んだ貴族風の身なりのルカ。貴族制が廃された今でもこういった服装は品のある印象を与える。

 私が銀貨をぶち撒ける音は部屋の外まで響いていたらしかった。彼は身を屈めて、床に散らばった銀貨を集めた。

「四、五枚……。これで全部?」

「そう」

「今日はいつもより少なかったんだね……なるほど、それで暴れてたって訳か」

「そういう訳じゃないけど……」

私が王女である話は勿論ルカにも話していない。そんな話をしたら私刑にかけられ、リンチされることは目に見えている。民衆からの父王や母の評価は知っているし、六年経った今でも憎しみは燻っている。あの日の私を死から救ったのは運に過ぎない。

 彼は、大金なんだから取っておきな、と言って銀貨をローテーブルの上に乗せた。それから私の隣に腰を下ろす。

「今日は六人か、お疲れ」

 彼はそう言って私の髪をふわりと撫でた。それにふっと力が抜けて、ルカの膝に頭を落とす。

 それでも撫で続けてくれる彼に、私、甘えすぎだなぁ、なんて思いながら目を閉じる。髪の隙間を通り抜けていく彼の指先は春の風だった。

「ディケンズ、銀貨五枚ってひどくない?」

「どうだろう、俺には大金に思えるけど」

「いつもより疲れてたのに、いつも通りに頑張ったのに、なんでそんな採点みたいなこと」

「でも、貰えないよりはいいだろ。俺なんて月の給金銀貨二十枚だし」

「もっと欲しいの?」

「そりゃまぁ……、勿論」

「じゃあ、その銀貨あげる」

「それは……」

 彼の手に銀貨を握らせようとすると、すぐに引っ込んだ。

「できないよ。ディケンズ様がマキアに与えた物だ」

「ふふ、そっか。残念」

 その言葉を聞いて私は思わず笑ってしまう。まさに、彼のそういうところが好みなのだ。

「そういえば、先月、私の売り上げ抜かされたって本当?」

 小耳に挟んだそのことをふと思い出した。半年前に入ってきたジルが、ここ二年ずっと一番だった先月の私の売り上げを抜いたというのだ。

「それは本当だね。でも、ほんのちょっとだけだよ」

「ちょっとってどれくらい?」

「銀貨十枚くらい。でも、指名の数はマキアの方が多いし、一番はマキアだよ」

「私は本当の一番でいたいの、こんなところででも」

 私が体を起こしてそう言うと「すごいな、マキアは」と彼は笑った。

 それから来客の鐘がカランカランと鳴った。

「さぁ、お客様だ。俺は仕事に戻らないとな」

 ルカはそう言って立ち上がった。私の頭をくしゃっと撫でる。

「そういえば、エトワルがマキアのこと呼んでたよ。控室で待ってるって」

「エトワルが? 分かった」

 エトワルはこの娼館で働く嬢の一人で、私の唯一の友達だった。

「マキア、また後で」

 右手を軽く上げて、ルカは部屋から出て行った。「また後で」の言葉が心に反響する。私は少し上がった自分の口角を指先で元に戻して、ゆっくりと着替え始めた。

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