冬至の日
兵舎の朝は早い、エドの隊であるプラナタリア隊とジャックのロッククロス隊は領主館であるダン=クレイスト騎士爵の屋敷の敷地内にある兵舎を間借りし、領主館の警ら隊と生活をともにしていた。彼らは基本3交代制をしており、日の出の遅い冬季には夜明け前に朝の交代となる。食事の時間も警ら隊の交代に合わせて決まっており、プラナタリア隊の出動である街の開門の時間に合わせて起きると朝食を食いっぱぐれてしまうのだ。エドは部屋は隊長として一人部屋をもらっているが、他のプラナタリア隊のメンバーは6人部屋を4人で使っていた。
エドは隣の部屋の住人が出勤の準備をする音で目を覚ませた。
部屋には暖炉はなく、北のウルリカ山脈に住むホワイトグリズリーの毛で作られた毛布にくるまることが唯一の暖をとる手段であった。あくびをすると吐く息は白くなった。この息の色の白さで気温の寒さ度合が分かるのだ。どうやら今朝も寒いらしい。隣の衛士が出勤した後、エドはもぞもぞと毛布から起き出し、静かさを取り戻した兵舎の井戸へ向かった。
兵舎から井戸までは木製の屋根が続いており、雨の日も濡れないようになっている。
井戸は穴を石垣で囲い、井戸屋形に滑車を取り付け、桶で水を組み上げるという大昔から変
わらぬ作りをしている。そのため40メートル近くはあろう長いロープを使って地下水を組むのだ。4リッターは入る桶を上げるのは結構な体力を消費する。屋敷に勤める女性達にはとてもきつい作業だろう。エドは汲んだ水を井戸の周りにある小さい桶に移しかえると、あまった水は井戸の脇に設置されている雑用水用の甕に入れる。この水を女性達が洗濯や植物の水やりに使用するのだ。
木桶に移した水に手を入れて水をすくおうとすると、いつもと変わらない自分の顔が水面に映った。
その瞬間、木桶の水が凍り付き、エドの脳裡に強烈なイメージが頭痛とともに焼き付けられた。
森、吹雪、湖、そして女性。
「ううっ。」
エドはたまらず、地面に手をつき頭痛が収まるまでしゃがみこんでいた。こんなことは初めてであった。
まるで歯の知覚過敏を数倍にも増したような痛みであった。痛みが収まってからエドは本来の目的に戻ろうと木桶を見ると先ほどは別人のような、やや疲れ切った顔をした自分の顔が水面に映っているのであった。
空からは雪が舞っていた、ロックウェル王国の南方に位置するクレイストの街でも雪は降る。
毎年、この時期になると雪は降るのだが、何度見てもエドの目には新鮮に映るのであった。
エドは装備を担ぎながら、馬屋に向かうとプラナタリア隊のメンバーは既に馬番から馬を引き渡されて自分たちの装備を馬に括り付けているところであった。
「おはようございます、今日はみなさん早いんですね。」
エドは馬番から手綱を受け取りながら、隊の全員に声を掛ける
「昨日の夜は寒くてえれえ辛かったですわ。」
最年長のロドが自分の手のひらを温めようと両手をさすりながら笑った。
「支給の薄い毛皮じゃあ、寒くてよく眠れませんでした。」
弓使いのロレンスが笑って言う。
「俺なんか、寒くて隣で眠っているロドの兄貴のベットに入り込もうかと何度思ったか」
エドの次に若い槍使いのエッジがおどけて言う。
「なっ、男同士なんかごめんだね。俺の寝床に入ってきたら思いっきり殴ってやるからな」
ロドが若干引き気味で言う。
「確かにロドのベットは温かそうだな」
エドが笑って言うと、ロドが情けない声で拒絶の声を上げ、プラナタリア隊の面々は声を上げて笑った。
エド達、プラナタリア隊はプラナタリア街道を南へ進む。幸い雪はパラパラと降る程度、積雪も10センチ程度で馬を走らせることにも問題はない。
冬季は夏季に比べてぐっと日が短くなる。街の衛門が開いているのは日出から日没まで、プラナタリア隊の哨戒任務もその間のみになっている。夏季は街からおおよそ30キロの街道2往復していたが、秋になると1往復、そして現在は街から15キロを2往復となっていた。
プラナタリア隊は午前の1往復を終え、領主館の食堂でお昼を取って哨戒に出発しようとしていた。
「最初はどうなるかと思ってやしたが、どうにか天候も持ちそうで。」
最年長のロドがエドに語りかけながら、馬を走らせる。
「ええ、予定通り、夕方までにはルカナンに戻れそうですね。」
しかし、エドは曇天から舞い落ちる雪に不安を抱きながら馬の手綱を握りしめる。
上質な見た目の牛革手袋では、この寒さを凌ぐことはできなかった。
最近、買ったばかりで、散々自慢していたロドの毛皮の手袋をエドは横目に見ながら、今度の休みには撥水効果のある熊の毛皮の手袋を購入しようと心に決めるのであった。
本日も何もなく最後の復路を進んでいると、雪の粒は格段に大きくなり、本格的に積もる気配を見せていた。
「隊長、積雪で馬を走らせるのは限界です。ここからは馬を降りましょう。」
一番小柄な馬に乗っているリックからの申し出をエドは受けることにした。
「ロド、徒歩で街まではどのくらいかかりそう?」
「ふた刻(時間)程じゃないかと、この雪で正確な位置がわかりませんから、あくまで感ですが」
ふた刻、まだ時間はかかりそうであった。曇天ですでに辺りは暗くなり始めていた。
1時間程、街道を進んだが、雪の勢いは弱まる気配を見せず、むしろ増していた。
プラナタリア隊は雪の中で野営する経験がない。ルカナンの街までは1刻程のはず。
街の衛門が閉じていても、プラナタリア隊は中に入れる。エドはこのまま街まで帰還することを考えていた。
しかし、日が暮れようとしていた頃、プラナタリア隊の正面には見慣れぬ景色が存在していた。
「湖?」
エドの口から無意識に言葉が出ていた。
月が出ていた。
先程までの雪はすっかり止んでいて、月光が凍てつく湖面を照らしていた。
それはあまりにも静寂で、荘厳な、まるで神殿のような澄んだ、まるで神気のようなものが感じられた。
「ここはどこだ?」
自然と問いがプラナタリア隊の面々の口からこぼれた。
ロド、リック、エッジ、ロレンス。
エドは辺りを見回すが、全員無事のようだった。
「隊長、ここはどうやらビルガ湖のようですぜ」
「ああ、間違いねぇ」
ロドの意見にエッジが同意する。
「ビルガ湖?」
「隊長が驚くのも無理はねぇ、ビルガ湖って言やあ、ロッククロス街道の付近にある湖でさぁ。
あのロッククロス隊の哨戒区域よりもさらに遠く、ルカナンの街から三日は掛かる場所ですぜ。」
「そんな、ありえない。」
エドは言いながらも、この神秘的な湖から目を離せないでいた。
暫し、湖の美しさに目を奪われていると、黒い雲が月光を遮った。すると湖面に1つの影が差した。
それは湖面から這い出ててくるように空中まで浮遊すると、瞬く間に巨大化し、人間の女性の容姿を形成した。
雪の純白の白と相反する漆黒の異形は月の影から産まれた闇の精霊のようであった。
突然、吹雪がプラナタリア隊を襲った。それは湖面に浮遊し禍々しい気配を放っている異形から発せられたものであった。
「くるぞ、総員戦闘態勢!」
エドは全身まるごと隠せる程の大きさを持つ大剣で迫りくる吹雪から身を守る。
30秒程続いた吹雪の嵐は大剣を持つ者、魔法で身を守る者、毛皮のマントで身を隠すもの、全てに対して猛威を振るった。
咄嗟に目を守ったのは幸いであった。
身を守る盾のないエッジとロレンスはその一撃で戦闘不能に追い込まれた。サンドブラストのような一撃は毛皮のマントをズタズタに貫通し、さらに革の鎧まで突き抜けた。
「みんな逃げろ!」
エドは大剣を肩に担ぎながら異形に向かって走りだす。
ロドは近くにいたエッジに駆け寄ると傷の具合を確かめた。咄嗟に腕を使って守ったのだろう、顔面は無事であったが、そこかしこから流血していた。まずい、動ける状態ではなかった。
ロレンスも同様であった。
ロドはリックにアイコンタクトで状況を伝える。仲間を置いて逃げることはできず二人は脱出を諦めた。
いち早く反撃に切り替えたリックは、すぐにエドに対して防御魔法を発動させる。
それは危機一髪、紙一重の発動であった。
エドは凶悪な一撃に、すぐに撤退を判断していた。
異形からの広範囲攻撃、それも一撃で命を奪う程のものであった。
ただ、異形から放たれるその攻撃は、異形の至近距離でガードしてしまえば後方への被害は抑えられることをエドは直感で理解していた。
可能な限り、近接しなければ…。
エドは全力で疾走するが、異形に向かって冷気が集中するのを感じた。
第2撃が来る!
担いだ大剣を全面にし、盾とする。
前へ!そして前進することを諦めない。それが隊員の生還に繋がるのだ。
広範囲攻撃が一点に集中するのだ、その攻撃の威力は先ほどよりもさらに上回ることは必然である。
大剣を跳ね飛ばす突風を全身で受け止める。数秒が数分にも感じられた。
腕が、足が、引きちぎれそうになる。剣ごと後方へ吹き飛ばされそうになりながらも、エドは何とか耐え抜いた。気付けばリックからの魔法援護を受け、全身が熱を帯びていた。
この一瞬を掴む!
「地から湧き出る熱き炎よ、剣に宿りて敵を滅ぼせ、エンチャント」
リックはさらに、エドの剣に炎の加護を与えていた。
握った大剣を溶かしてしまいそうな熱をエドは感じていた。
それはエドの腕を覆いつくし剣と身体は一体となった。
全力の突き、大剣は異形の腹を突き抜けていた。
血しぶきの代わりに漆黒が爆ぜた。
そして世界の理が反転した。黒から白へ。闇から光へと…。
光が湖を照らした。
それは暖かいお日様のような光であった。まるで陽だまりの元で母に抱かれていた頃のような、優しい
光であった。女性を型取ったような光…。
光は湖全体を照らすと、凍てついた湖面を溶かし、さらに積もっていた周囲の雪を溶かした。
やがて光は弱まると、エドの体へと吸い込まれていった。
静寂が周囲を支配した。
「ロド、エッジとロレンスは?」
まるで夢のような湖の変化にあっけに取られていたロドは、エドに二人の重症を伝えようと口を開くが、改めて見た二人の体に一滴の血の痕跡がないことに気が付いた。
二人の顔に朱の色が差していた。
「はははっ」
ロドの口から自然と笑い声が出ていた。
「隊長、こりゃ奇跡ですぜ。こいつら、さっきまで、死にそうな顔していて…。」
その後は言葉が出てこなかった。その代わりに涙が溢れそうになっていた。
「ああ、こういうのを奇跡って言うんだな…。」
湖に刺さった大剣は水面に反射的する月の光を受けて輝いていた。