CAT:09 感染症(トキコプラズマ) 上
近頃オトノハの機嫌がよろしくない。
季節の移り変わりは早いもので、短い春は桜の花弁と共に消え去り、街はじわりじわりと熱気を増して、新しい夏を迎え入れていた。
毛皮を着込んだアタシたちは一見暑さに弱そうに見えるが、実際にはそうでもない。どちらかといえば、寒い方が苦手だ。これだけの厚着にも関わらず、なぜやらそういうふうになっている。おそらく、アタシたちが生まれたときから身につけているこの衣服が、そういう仕組みになっているのだろう。何が言いたいかといえば、つまりアタシたちは、見かけほどには暑さを苦にはしないってことだ。
ただこの数日の、身にまとわりつくような嫌な空気は別だ。ここのところ、ずっと雨模様という嬉しくない天気が続いている。そのせいかどうかはわからないが、何となくあちこちがべたべたしている。
アタシは雨の日があまり好きじゃない。自由に出歩けなくなるってこともあるが、それが理由ってわけでもない。
アタシが捨てられた日は、それはもう空がそのまま落ちてきているんじゃないかってくらいの大雨だった。
あたしを取り巻く身の回りの、すべてのものが変わってしまった日。雨粒が屋根やら、地面やら、木の枝やらを叩く音。それらを聞いたり、雨の日の、あの独特の何ともいえない匂いと湿り気を感じると、アタシはどうしても、あの日のことを思い出してしまう。寂しくて、それからとても寒くて、小さな箱の中でひとり震えていた、あの日のことを思い出してしまう。
感傷だってのはわかっている。それがもう、過ぎ去った記憶だとは理解している。けど。わかっていたって、自分でどうにもできないことだってある。
今だからこそ、こうして回想することもできる。思い返しては、喉奥からこみ上げてくる苦味を感じることができる。けれどもあれは、一つ違っていれば、そういうことすら感じ得なくなるかもしれなかった日。そういう日だった。そのことをアタシは、忘れるわけにはいかない。決して。
オトノハが不機嫌になることが増えたのも、雨の日が続きはじめた頃からだ。
オトノハは、家の中で大人しくしているよりは、外で走り回るのを好む方だ。雨が降ると、公園には行けないし、当然走り回ることも、友だちと遊ぶこともできない。できることといったら、ナユキにエホンを読んでもらうか、ノートとやらに絵を書くか、アタシを追い回し、捕まえ、強引に撫で回すくらいのことだ。そりゃあまあ、嬉しくないことこの上ないだろう。特に三つ目は、アタシも嬉しくないことこの上ない。アタシが雨の日嫌いな理由には、コイツもきっと含まれる。
で、まあ、思うように暴れまわれない日が増えて、そういうのが積み重なって不機嫌になっているのだと思っていた。最初は。
オトノハは機嫌がそのままアタシの扱いに直結する。だからアタシは、それに気付いてからというもの、アイツの気分を探ることに、それなりに心を砕いている。とはいえ、これまでアイツが長時間不機嫌なままでいるってことは少なかった。オトノハはナユキを含め、様々な大きいニンゲンたちに叱られることが多いが、あの歳にして叱られ慣れているというか何というか。それが重大なことでなければ、叱られた事実を含めすぐさま忘れるし、ナユキが本気で怒ったときでも、一日眠れば、自分の中で消化していつもどおりにふるまえる。そういうヤツだ。全面的にではないにしても、ある意味褒めてやっていい部分であると思う。
そんなアイツがうじうじと何日にも渡って不機嫌そうにしているのは、やはり尋常じゃないことだ、と判断してもいいだろう。
気になったアタシは何とか聞き出してみたいと思ったが、アタシにできることといえば、オトノハに寄り添って、アイツが自分から喋り始めるのを待つことくらいだ。けれども、オトノハが沈んだ表情でひとり佇んでいるときには、できるだけ傍に寄ってやるようにした。普段に比べては、ということだが。
いつもだったら。アタシとふたりきりのとき、オトノハはナユキに言いにくいことを、勝手にしゃべり始める。アタシに対して吐き出して、何一つ答えが返って来なくたって、そうして自分の心に整理をつけるのだ。アタシがワガハイ相手にしゃべり散らすのに似ている。アレだって、答えが返されることは滅多にない。それでもアタシは、その行為自体にいくらかの平穏を得ている。説明するのは難しい。けれども、そういうことはある。
それを期待して、アタシは寄り添う。いつものように寄り添う。けれどもオトノハは、今回ばかりは自分の心にしがみついて、離さないようがんばっているように見える。
学校から帰ってきて、Tシャツと短パンに着替えたオトノハが、身体を折りたたみ、三角になって、縁側で降り続く雨を見ている。アタシはその隣にいる。オトノハはアタシを見ず、手も延ばさず、灰色の空ばかりを見ている。アタシが鳴いても、少し首を傾けるだけで、撫で擦ろうとしない。
悔しいけれど。アタシには、どうにもできなさそうだった。
けれども。そうであっても。
この家にいるのは、アタシだけじゃない。アタシ以上に、オトノハを見つめているヤツ。
ナユキが、そんなオトノハに、気付かないわけがなかった。
足音が近づいてきたので、アタシはオトノハの傍を離れた。
空いたスペース、オトノハの隣に、ナユキが腰を下ろす。そうしてふたりで、雨に降られる庭を見ていた。
ナユキは何も言わない。オトノハが、自分で言い出すのを待っている。オトノハはきっと迷っている。けれども、アタシもナユキも知っている。
「あのね」
耐えきれず、口を開いた。
「みんながね。トキコちゃんと、あそばないほうがいいよって、いうの」
みんなって誰、とナユキが聞く。マイコちゃんと、サイトちゃんと、とオトノハが名前を挙げはじめる。
「マイコちゃんとトキコちゃんがね。あんまりなかよしじゃないの」
ナユキが頷いた。
「オトノハは?」
「わたしはねー。マイコちゃんも、トキコちゃんも、ともだち」
でも、マイコちゃんと、トキコちゃんと、あそぶときはちがうの、と小さい声で付け足した。
つまりは、友だち同士の板挟み、ってことだろう。アタシにはよくわからないが、ニンゲンには、こういう複雑な事情がたくさんあるってことは学んでいる。
「マイコちゃんとトキコちゃんで、取り合いになってるの?」
オトノハは大きく首を振る。
「トキコちゃんは、なにもいわない」
そうだろう、とアタシも思った。
ナユキが腕を組む。ふたりとも無言で庭を見ている。
ナユキが口火を切った。
「それで、オトノハは、どうしたい?」
オトノハが、両眉を寄せて苦そうな顔をした。身体を小刻みに動かしている。
「決めたくない?」
首をぶんぶん縦に振る。頭だけ飛んでいくぞお前。
「おこらない?」
上目遣いで、オトノハがナユキを見る。ナユキが微妙な笑みを浮かべた。
「言ってごらん」
オトノハが足を伸ばしてバタバタさせる。そんなに言いにくいのか。
足を止めて、顎を胸に埋めて顔を隠す。そうしてしばらくじっとしていたけど。
「しょうじき、めんどい」
言いやがった。
ああ。そうだよな。お前はそういうヤツだよな。
けれども。アタシはオトノハの気持ちが、よくわかる。もしもアタシがニンゲンで。オトノハと同じような状況に置かれたなら。アタシもきっと、同じように思うだろう。
アタシから見た印象だが。同年代の小さいニンゲンたちの中でも、オトノハは独立している。何というか、自分を中心に生きている、という感じがする。まず自分があり、周囲はその付属物なのだ。それは、ナユキやアタシであっても、根本的には変わらない。だからオトノハは、自分以外のだれがどこで何をしているかに、頓着しない。気にしない。気にするのは、それらの行動が自分に関わってくるときだけだ。
もしもオトノハが猫だったら。コイツは何の苦労もなくアタシたちに馴染むだろう。
けれども、ナユキは渋い顔をしている。オトノハも、それを予想していたようだ。
ゆっくりと、言い聞かせるように。ナユキが語りかける。
「でもそのままだと。トキコちゃんは、ひとりになっちゃうんじゃないのかい?」
わかんない、とか細い声が返る。
「トキコちゃんが、かわいそうだとは、思わない?」
やはり、わかんない、と返ってくる。
様々な物事が、様々なところに繋がっている。アタシはワガハイからそういう話を聞いた。そうして、自分だけでは生きていけないことも、身をもって知った。
けれどもオトノハは。そういう経験を、まだ得ていない。オトノハの世界は、オトノハを中心に回っている。
小さいニンゲンたちの多くは、チチオヤとハハオヤを持っている。が、オトノハにはナユキしかいない。オトノハが得られるのは。引き継げるのは。ナユキの持っているものだけだ。
それ以外のものは。すべて自分で学んでいかなくちゃいけない。
けれども、そんなことは。アタシが思うまでもなく、ナユキが強く感じていることだろう。
ナユキとオトノハの間でやり取りが繰り返される。最後にナユキは「自分で考えてごらん」とオトノハの頭を撫で、立ち上がった。
オトノハが三角形に戻る。うつむき、顔を隠している。アタシは空いたオトノハの隣に戻り、身体を寄せた。
顔を挙げる。手を伸ばし、アタシの背に触れる。
それだけぶん、軽くなったのだろう。そんな気がした。
いいさ。
今日のところは、これでいいさ。
アタシは毛皮を押しつける。そうしてふたりで。降りやまない雨空を見上げた。




