CAT:07 猫鳴り(ティンクルベル)
ここのところ連日で空は青い色を見せていたが、今日もまた雲の少ない晴天だった。
アタシがちょっとした冒険活劇を繰り広げた日から、どれくらいが経っただろうか。正直に言うと、あの日からアタシは、時間の経過がはっきりと定まっていなかった。何やら妙な脱力感に襲われて、目に映るモノや聞こえるモノ、嗅ぎ付けるモノをしっかりと自分のうちに取り入れることができていない。
原因は、だいたいわかっているつもりだ。色々わかったことを踏まえて、今、アタシは次にどうするかを考えるべきなのだ。けれども、アタシの身体は全力で、それを考えまいとさせている。
デブ猫の飼い主、トキコとオトノハは友だちになった。きっとこれからも頻繁に出会うことになるだろう。飼い猫と飼い主は別だ。デブ猫があんなだからといって、トキコが悪いヤツとは限らない。アタシはそれを、受け入れなくちゃいけない。頭だけでなく、心というのか何というのか、つまりは何か奥底の、根っこのような部分で、だ。
この事実は、アタシに別のことも訴えかけてくる。そろそろ改めなきゃいけないんじゃねえか、フレンド。この街との。この街にいるお仲間たちとの接し方を、さ。
それが意識の浅い部分まで浮かんで語りかけてくると、アタシはすべてを投げ出して、ふて寝することにしている。
触れたくないのだ。アタシは。
けれども物事はいつだってそうで、放置していたところで誰も解決はしてくれない。結局は、自分自身で解決するしかない。迷路は進んでいくうち、いつかは壁にぶち当たって、しかもそれらは、そこで右往左往していたり、見なかった振りをして眠っている間に、四方を取り囲み、進む道を選べないようにする。そうなったとき、どうするか。爪を立て、身体を伸ばして乗り越える。牙を剥き、噛み千切り、破砕して道を拓く。そうすることが、できる場合もある。できない場合もある。
高さと堅牢さに負け、打ちひしがれ、その場で身体を丸めるしかなくなることも、ある。
行き場がなくなる前に。それを察知して、閉じられる前に細い道に飛び込む。そういうのも、生きるっていうことなのかもしれない。
アタシは動きはじめることにした。
動くといってもアタシの迷路はすでにどちらに進んでも高い壁だらけで、できることは限られている。そんなときアタシは思いつくままに任せることに決めている。
無性に、ワガハイに会いたかった。
ワガハイは、アタシがそこそこ見知っている唯一のお仲間だ。唯一の話相手でもある。話し相手。アタシに必要なのはそういう存在なんじゃないかって思ったのだ。単純だって笑うかい?
日の下を小走りで進む。アタシは、以前ほどは周囲に気を配らなくなっている。猫どもも、簡単には手を出さなくなってきた。ヤツらも一枚岩じゃない。自分の餌場が荒らされないなら、それでいい。そう考える者もいて、それはそう少ない数でもない。アタシたちは面倒くさがり屋なのだ。
アタシの身体も、少し大きくなった。四本の脚はまだ細くて頼りないが、背中の辺りは、少し盛り上がって力強い肉がついてきたように思う。アタシは密かにほくそ笑んでいる。
丘を登って、神社へ。アタシの肉体は階段を軽快に駆け上がる。お馴染みの建物がある。
木を登って、枝から枝へ。それから屋根へ。
いた。
アタシはゆっくりつ近付く。白い毛並みの中に茶色の斑が混じったそいつが、こちらを向く。
「よう」
それだけ言って、横に並ぶ。返ってくる挨拶はない。いつものことだ。
ワガハイは眼下の景色を眺めている。こちらを無視しているようにみえるが、実際にはそうではない。ただ単に無頓着なのだ、こいつは。だがそういう緩やかな他者への関わり方が、アタシには心地いい。
「今日は何が聞こえるよ」
「先ほどまでは、風の音と、鳩たちの話し声と、五丁目のミチゾウ殿の願掛けが。今は、わからぬな」
「それで」
「ミチゾウ殿のご夫人の、病気が長引いているらしい。ニンゲンは病気になると看病し、病院に行き、お見舞いに行き、願掛けをする。それがどういうことか、考えていた」
「アタシたちには縁のない話だ」
「そうでもない。吾輩らを同じように扱い、同じような行動を起こすニンゲンもいる。グレイシーのご主人なども、さしずめそちら側のニンゲンであろう」
別に主人ってわけじゃねえよ、と顔を背けて吐き捨てるが、ワガハイは一顧だにしない。アタシの小さい心の変化など、こいつにはお見通しなのか。そんな気もする。
「アタシだって、あそこを一歩出りゃあ、病気をすればそれでおしまい。大怪我をすりゃあ、それでおしまいだ。変わらねえよ何も」
「クスザワ家に居を構えるつもりだと思っていたのであるが」
ちょうどアタシが話したいと思っていた方向に、話題が向いた。どうしようか、と一瞬悩んだが、思い切って話してみることにする。
思い切って、はアタシの心の意味でだ。実際にはぼそぼそと。いかにも話したくなさげに、仕方ないから話すんだ、という調子で、ワガハイの横顔へ囁きかける。オトノハと、その友だちと、そいつがデブ猫の飼い主だったという話を。
ワガハイは聞いている。アタシがどんな話をしても。どんな話し方をしても。こいつはただ、淡々と聞く。
「それで、貴女はどうしたいのだ」
そうして、淡々と、問いただしてくる。
アタシは、すぐに答えを返さない。返せない。
ワガハイが瞳を閉じ、ふん、と鼻から息を抜く。
「因果、という言葉があるが、まったく面白い。相関なかった一と一が与り知らぬことで繋がり、その繋がりが様々な因子に作用して、結果となって我々の身に実相を伴ってくる。世間は狭い、桶屋が儲かる、蝶の羽ばたきなどというのはまさにこういうことであろうか」
いつものことながら、アタシには何を言ってるやらさっぱりだった。
目を開けたワガハイがこちらを向いた。
「で、あるが。大事なことはおそらく一つだけであろう。貴女は、どうしたい」
アタシはその眼を見据えた。
「あそこにいたい」
その一言は、思っていたよりすんなり、口から出ていた。
そうでなければ。デブ猫と向かい合ったとき、アタシは迷うことなく降参するか逃げ出していただろう。
ワガハイが小さく頷く。
「吾輩にできることがあれば、協力しよう」
四肢の力が抜けるのがわかる。悟られないよう、アタシはその場にしゃがみ込んだ。
その一言が欲しかったのだ。アタシは、きっと。
ひとりで生きてきたあたしは今、色々なものと繋がろうとしている。繋がりつつある。そんなときに必要なのは何か。それはたぶん、アタシのしていることが正しいのか、間違っているのか、客観的に判断してくれる仲間なのだと思った。
「見ていてくれ。聞いていてくれ。そして、間違っていると思ったら、教えてくれ。それだけでいい」
わかった、と答えて街の景色へ視線を戻す。その横顔は、やけに頼もしく見えた。
ふと、聞いてみたくなった。
「あんた、飼われてどれくらいになるんだ」
ワガハイが首を傾ける。
「もう五年ほどになろうか」
そんな感じはしていた。
「あんたは迷わなかったのか。飼われて生きるか、ひとりで生きるか、さ」
「迷った」
ワガハイはどこか遠くを見ているふうだった。
「何で、そっちを選んだんだ」
「出会ってしまえば、別れられなくなる。知ってしまえば、戻れぬこともある」
「よくわからねえ」
一つ息を吐いた。
「吾輩の飼い主は、高齢だ。これから先、吾輩が先に死ぬか、吾輩の飼い主が先に死ぬか、それはわからぬ」
あたしは頷きを返す。
「吾輩が飼われることを決める前の時点で、飼い主は高齢であった。先がどうなるやら、まったく見当はつかぬ状態であった。一年ほどならよい。だが、二年、三年と年月を経るごとに、吾輩の野生は失われ、ひとりで生きていくことは難しくなるであろう。冷静に判断するならば、吾輩は野良のままでいるか、別の飼い主を選択するべきであったろう。だが、吾輩はそこを永住の地と決めた」
「なぜだ」
「そこにいたかったからだ。離れ難かったからだ」
貴女もそうであろう、と問いかける。ああ、そうさ。そのとおりだとも。
「そうして五年が過ぎた。今、吾輩の野生はほぼ失われておるであろう。餌場を漁る力も、獲物を捕る力も残されていないであろう。もしも主人が先立つことになれば、吾輩は住処を失い、路頭に迷うであろう。辛く苦しく、腹を空かせ、雨に打たれる日を幾日か過ごし、なぜ己がこのような目に遭わねばならぬのか、あのときああしておればよかった、と、周囲を呪い、己の判断を悔い、惨めに汚れながら死んでゆくであろう。飼われることを選ぶということは、そういう覚悟をも受け入れることである、と。吾輩はそう考えている」
どちらを選んでも同じ。そう言っているように、アタシには聞こえた。
だったら。傍にいたいヤツらのところに、いた方がいい。それがいつか、終わるのだとしても。
アタシはワガハイの視線を追う。青い。青い空。アタシには、それしか見えない。
あんた。あんたの目には、いったい何が映ってる。
アタシにもわかる日が来るのだろうか。わかることができるような、そんな猫になることができるんだろうか。
そんなふうに、思った。
「あんたは今、幸せなのか」
抽象的な言葉だ。だが、どうしても聞いてみたくなった。
吾輩がこちらへ顔を向ける。それから珍しいことに。笑みを浮かべた。
「無論だ」
誰かが鈴を鳴らし、柏手を打つ音が響いてきた。それに呼応するように。吾輩の首からさがる鈴も、小さく鳴った。