CAT:03 吾輩は猫である(キャッツ)
朝目を覚ますと毛皮が妙にむずむずするようになった。それが何日か続いたので、春とやらが来たのだとようやく気付いた。誰が。アタシが。
他の猫たちは、おそらく気付いていただろう。虫たちも、ネズミも、ジンジャに屯するのんびり屋の鳩たちでさえ、気付いていただろう。花たちは蕾を開きはじめるかすでに咲き誇り、そのことを教えていたはずだ。誰に。アタシに。
そういえば肌を刺す風が、どことなく柔らかになっているような気はしていた。だがアタシはといえば、周囲にある新しいことに気を取られて、注意を向けることを忘れていたのだ。
すっかり身体の傷も癒え、以前より力強く歩けるようになったアタシは、相も変わらずニンゲンたちの家に居座っていた。
色々考えた。正直な気持ちを言わせて貰うなら、アタシは一匹で生きていきたい。誰にも頼ることなく、己の爪と牙だけを拠り所として、自由に彷徨っていたい。好きなときに、好きな餌場を漁り、好きな場所で眠りに就きたい。その思いは、今も変わらない。
だがそれは無理なのだと、アタシは教えられた。この街は、この世界は、アタシを自由には生かしてくれない。形のあるものないもの、様々なものがアタシを絡め取り、アタシのできることを制限する。お前はこの範囲の中だけで生きていろ。そう、命令する。
アタシははみ出したくなる。だけどもそれは、比喩ではなく命を賭ける必要がある。その覚悟はあると思っていた。けど、実際にはなかった。
生きていたい。そう思った。だから、この家に、舞い戻ったのだ。
絡め取る触手を引き剥がすには、力が必要だ。だが今のアタシには、まだその力がない。悔しいが、それが現実だ。アタシが力をつけるまで。時間が必要だ。そう思った。
だからアタシは、この家にいる。ニンゲンたちと一緒にいる。アタシが大きくなり、例えばあのデブ猫をブチ倒せるくらいの力を手にするまで。それが無理でも、一匹で新たな餌場を見つけ、守れるようになるまで。
アタシは、ここにいる。
ニンゲンどもは、近頃慌ただしい。この春はニンゲンにとっても何らかの節目に当たるらしく、新しい生活の準備で忙しいのだ。普段はアタシたちに負けないくらいのんびりしているナユキも、オトノハと一緒に何やかやと動き回っている。
今日も、二匹は賑やかだ。
オトノハが、見慣れない妙な格好をしている。衿と袖の締まった、薄い黄色のシャツと、濃い緑色の、スカートっていうひらひらした服。スカートと同じ色の固まりを頭に載っけて、上機嫌に笑っている。背中には大きな赤い箱みたいなのを背負っている。そんな格好で、さっきから回ったり踊ったり、アタシを抱きかかえたりしている。
ナユキもおかしい。カメラとかいうぴかぴか光る箱を持って、時折顔に当てては、オトノハに向け、何やかやと指示している。
「手でハートつくって。ハート」
「次は横ピース」
「そこで雌豹のポーズ!」
馬鹿馬鹿しくなったアタシは、部屋を出て庭へ向かった。
木を登って塀に降り立ち、塀伝いに散歩をはじめる。できるだけ外へ出るのは控えているが、あの調子じゃあ、今日は昼寝もできそうにない。風も心地よいことだし、絶好の散歩日和だとは、いえる。
道路に一度も降りることなく、塀と屋根伝いに、街を巡る。他の猫どもには、見つけられないよう気を配る。ハイドアンドシーク。厄介だしうっとおしいことだが、今は仕方ない。アタシは覚えておく。この日の散歩と、不便さと、悔しさを覚えておく。いつか堂々と、道の中央を闊歩する日のために。
気がつけば、ジンジャに来ていた。ここは街の中でも一等高い場所にあって、日当たりもいい。これからの季節は、アタシたちにとっても過ごしやすい場所になるだろう。
アタシを見つけて驚く鳩どもを蹴散らし、ジンジャの屋根に登る。街中が一望できる。この景色が、アタシは好きだった。
屋根の真ん中、頂点まで歩く。一番上に辿り着く前に、足を止めた。
先客がいた。白を基調に、茶色の斑が混じった猫だ。首輪の代わりに細い紐が回されていて、小さな鈴がぶら下がっている。アタシに気付いて、こちらを向いた。
見たことのない顔だった。
邪魔するぜ、とアタシから声をかけて、横に並んだ。そいつは顔を戻すと、何事もなかったように踞る。興味がない。そう言いたげだった。
攻撃的ではない感情。悪意のない感情。猫同士からそういう扱いを受けるのは、この街に来てからはなかったことだ。
「見ない顔だな」
目を合わさずに、話しかけてみる。返事を期待した訳じゃなかったが、以外にも、それはあった。
「吾輩も、そう思っていたところだ」
その一言で、こいつがボス猫の手下でないことはわかった。
アタシはそいつに向き直った。
「ここは、アンタの縄張りかい」
「そう意識したことはない」
「じゃあ、アタシがたまに来てもいいな」
「我々は、元来自由なものだ」
「その割には、縛られているじゃねえか。鈴一つと紐一本で」
「そういう見方もある」
「他の見方があるってのか?」
「一つのことを、どう捉えるか。それによって、心の持ちようも変わるものだろう」
何だか堅苦しいヤツだったが、白状しよう。アタシはちょっと、楽しくなっていた。よくよく考えてみれば。初めてだったのだ。他の猫とまともに話をすることなんて。
「アンタ、名前は?」
「まだない」
アタシはこいつを、ワガハイと呼ぶことにした。
それからしばらく、ワガハイととりとめのない話をした。こいつの言うことは時に難解で、アタシにはよくわからないことが多かったが、アタシは生まれて初めての会話というものを、楽しんでいた。初めてがこんなヤツだったのは幸運だったのか、不幸だったのか。
景色がオレンジ色に、染まりかけていた。
「そろそろお暇させていただく」
ワガハイが身を起こし、滑るように屋根を降りていく。その背に声をかけようとして、やめた。
何を言うべきか。アタシにはわからなかったから。
また会おうぜ。心の中でだけ、そう告げた。
家に着いた頃には、オレンジ色は深い藍色に塗り替えられていた。
縁側の、薄く開けられたドアの隙間から部屋の中に身体を滑り込ませる。目ざとく見つけたオトノハが、アタシを抱きかかえる。アタシは低く唸って、食い物を要求した。
縁側に出る。オトノハが皿を置く。アタシはそこに、首を突っ込む。オトノハはアタシの隣りに座り込んで、その様を見ていた。
「あたしね。もうちょっとしたら、がっこうに、いくんだよ」
オトノハの声は、何だか嬉しそうだった。
「がっこうっていうのはね。いろんなところから、いろんなこがあつまってきて……。そこで、いっしょにおべんきょうしたり、あそんだりするんだよ。ともだち、いっぱいできるかなあ。ねえ。どうおもう?」
知るか。朝までのアタシなら、そう答えてやっただろう。
だが、今のアタシは、ちょっとだけ違った。
横目でちらりと、オトノハを見る。
そうか。お前も新しい世界に、踏み出すんだな。
お前の言うともだち、ってのがどんなものか。どんないいものか、アタシにはわからなかったけどさ。今は、ほんの少しだけ、わかる気がするよ。
変なヤツだったけどさ。アタシも今日、会ったよ。それが、お前の言うともだちってのと同じモンかどうか、わからねえけどな。
アタシは皿の中身を貪り尽くす。顔を上げると、笑顔のオトノハが、変わらず座っている。
ま、お互い、がんばろうや。
なあ、とアタシは一つ、鳴き声を上げた。




