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CAT:11 あるがままに(ナチュラルウーマン)

 その日の夕方頃、帰ったアタシは久々にナユキを驚かせた。

 口元と足の先を血まみれにしたまま縁側へ上がったアタシを見つけたナユキは、慌てて走り寄って来た。それからアタシの身体を撫で回したりひっくり返したりして、その血がアタシのものじゃないことがわかると、ようやく落ち着いた表情を浮かべた。

 それからが怖かった。みるみるうちに無表情になったナユキはアタシの首根っこを乱暴に引っ掴むと、風呂場へ向かった。何をされるか悟ったアタシは全力で暴れたが、ナユキはいつも以上に無反応で、ああ、怒っているんだな、と合点がいった。

 アタシは洗われた。それはもう隅々まで、嫌になるくらい丁寧に洗われた。抵抗空しく、アタシは押さえつけられ、脚を開かされ、すべてをナユキの前にさらけ出してしまった。身体は綺麗になったが、誇りは汚された。そう思ってくれていい。

 獲物を仕留めたあとは、どこかで痕跡を消してから帰ること。アタシはそう、心にしっかり刻み込んだ。

 それはともかく。

 ナユキの魔手を抜け出したアタシは、オトノハのもとへ向かった。

 艶めいた毛皮になったアタシをオトノハが抱き上げる。その顔は、昨日よりは幾分ましになったように見える。だがそれでも、普段どおりのこいつに戻ったとは言い難いようだ。ということはおそらく、今日もまだオトノハは行動を起こさなかったのに違いない。

 自分がどうするべきか。その答えは、オトノハの中ではきっと出ている。必要なのは、きっかけと勇気。

 勇気はこいつが自分で奮い起こすしかない。だが、きっかけなら、与えてやれるかもしれない。

 あの雨の日。オトノハは箱ごとアタシをこの家に連れてきた。無理矢理引っ張ってきた。あのときには腹立たしく思ったし、憎みもしたが、今は少しばかり感謝してやってもいい。時を経て、新しい事実を知ったり、今まで見えなかったものが見えるようになったりして、それまで抱いていた気持ちも裏返ってしまう。アタシが生きている世界ってのは、どうやらそういう、あやふやなものでもあるらしい。それともあやふやなのは、アタシの方なのか。わからない。

 結果としてオトノハは一つ、アタシにそういうものを与えたんだろう。だったら、アタシから一つお返ししてやるのも悪くはない。そうだろう?

 だからあいつがどう思おうと。アタシは無理矢理引っ張ってみることにする。


 翌日。ガッコウが休みのオトノハを、アタシは表通りで待ち受けた。

 朝食を終え、着替えて、ナユキと一緒にクスザワショウテンのシャッターを開けたオトノハが、そのまま表通りに飛び出してくる。早速走り出そうとしたオトノハの前に、アタシは立ち塞がった。

「ぐれこちゃん、どうしたの?」

 アタシは低く二度鳴くと、オトノハに背を向け、ゆっくり歩く。十歩ほど進んだところで振り返り、もう一鳴きした。

「どこかに、いきたいの?」

 イエスの意味で、もう一鳴き。

 オトノハが隣までやってきたのを確認して、歩き始める。のんびりと、オトノハの速度にあわせてアタシは歩く。商店街を歩いていると、オトノハはあちこちから声を掛けられる。そのたびに立ち止まるので、散歩はさらにのんびりとしたものになる。

 よくよく考えてみれば。街中をこうして並んで歩くのは、初めてかもしれない。いつもはアタシが後ろからついていくか、そうでなければ、オトノハがアタシを抱きかかえていた。

 アタシたちは並んで歩く。まるでニンゲンの、友だち同士のように。

 商店街を抜けると、ようやく普通の歩みになった。家の数が減り、田園や樹木が目立ちはじめる。

「コウエンに、いくんじゃないの?」

 訝しげなオトノハの質問にアタシは答えず、ただただ歩く。オトノハもそれ以上は何も言わず、ついて来た。

 先行するアタシのあとを、オトノハが小走りで追ってくる。そうしてどれくらい歩いたか。

 アタシは一軒の家の前で、歩みを止めた。

「ここって……」

 オトノハが二階建ての白い家を見上げている。アタシはオトノハから離れて、門の前まで進んだ。

 そして、長い長い、力いっぱいの咆哮。

 きっと届いただろう。アタシは確信していた。

 気付いたことがあった。

 ナユキたちのところに厄介になると心に決めてから。アタシの気持ちの中で、何とはなしに、あの家の庭が妙に存在感を増した。

 何というのだろう。庭にある樹木と、それらの間隔。塀の高さや間取りといったものが気になって気になって仕方がなくなったのだ。その日のうちからアタシは、その庭のどこに何があって、どこからどういうものが侵入できそうかということを、すべて頭に叩き込もうと調べて回った。そうして、庭のすべてを把握したと思えて、ようやく落ち着けたのだ。

 縄張り意識ってやつなんじゃなかったかと思う。ああ、ここに棲むのだと思い定めたとき、あの庭はアタシの場所になったのだ。

 アイツだったら。塀の内側と家を取り巻く周辺くらいは、自分の縄張りだと思っているに違いない。

 だからすぐに気付いたんだろう。あのときだってよ。

 アタシは門から少し離れて待つ。そうしたら。

 潜り戸を抜けて、巨大な白い塊が現れる。それは重い門扉を軽々と押し開け、アタシの眼前に立ち塞がった。

 御機嫌よう、デブレディ・ファッティー。  デブ猫がぐるぐると喉を鳴らし、アタシを見下ろす。アタシは四肢を踏ん張る。脚は震えている。だが、前ほどじゃない。

 アタシは語りかける。デブ猫、アンタに喧嘩を売りに来た。決着をつけようぜ。

 アタシが飼い猫になったことは、今や街中に浸透している。実際のことだけを言うならば、アタシとこの街にいる猫たちとの軋轢は、すでに有名無実のものだ。争い合う必要はもうないし、野良猫どもも、そんなことは面倒だって誰もが思っている。

 だが、それでも。そいつらを取り仕切っている立場の者には、面子ってものがある。何世代も前から、張り巡らされたルール。そいつを、守らなくちゃいけない。

 だから。アタシはこのデブ猫に、アタシを認めさせなくちゃいけない。

 アタシがアタシであるために。アタシが、あるがままに、この街で生きていくために。

 アタシという存在を、認めさせなくちゃいけない。

 こいつは、そのための戦いだ。

 上の方から視線を感じた。白い家の二階。その窓の一つから、見知った顔が覗いている。

 アンタもいたのか。トキコ。

 いいぜ。見せてやるよ、フレンド。しっかりお目目を見開いておきな。

 デブ猫が吠える。アタシも負けずに、呼び声を返す。

 さあ、はじめようか。


 デブ猫が繰り出す爪を、バックステップでかわす。

 風圧がアタシの鼻先を凪ぐ。だが、爪の先は僅かに届かない。間合いをギリギリで見切り、アタシは身体を翻す。

 デブ猫が前進し、距離を詰める。アタシは速度を落さず、円軌道で側面に回りこんだ。

 そのままの勢いで、右前足を叩きつける。その一撃は肩で防御された。

 再びバックステップ。距離を取る。

 戦いをはじめて、どれくらいが経過しただろう。お互い、有効打はまだ一撃も加えられていない。だがアタシは、手応えを感じていた。

 パワーでは、圧倒的に敵わない。だが、スピードでは充分に対抗できている。そもそもあの巨体がアタシと同じ速度で動けること自体が脅威ではあるのだが、一方的に嬲られるということはない。

 やれる。アタシはやれる。

 ステップを踏み、飛び込む。体勢は低く。下からのアッパーカット。デブ猫は柔らかに身体を捻り、直撃を避ける。頭上から打ち下ろしのカウンター。アタシは脚の間を潜り、後方へ逃れた。

 尾の一撃がアタシの右頬を打つ。アタシは跳ね飛ばされるが、衝撃を殺して着地する。

 アタシの目の前で、デブ猫が悠然と首を回す。まさに、女王の風格だ。

 冷酷な瞳がアタシを覗き込んでいる。その目。どちらか片方、奪ってやる。そう狙いを定めて、身体を沈める。

 何の予備動作もなく、ぶちかましが来た。虚を突かれたアタシは、今度は受身も取れず、アスファルトに叩きつけられる。追い討ちで、爪の一撃。

 地面を転がり、すれすれで避ける。何とか立ち上がったが、頭のどこかが切れたのか。左目に血が入った。

 肩で息を整えながら、動きを止めず、デブ猫の周りを回る。

 わかっていたことだが、強い。以前やりあったときに比べれば、アタシは戦えている。だが、それだけだった。戦えることと、勝てること。そこには大きな大きな隔たりがある。

「ぐれこちゃん」

 背中から声がかかる。アタシは顔だけで振り返る。両目に涙を溜めたオトノハが、手を口に当ててアタシを見ている。

 アタシは睨みつける。そうして吼え猛る。

 視界を曇らせるな、オトノハ。

 見ていろ。そこでアタシを、見ていろ。

 あるがままでいたかったら。自分の居場所を守りたかったら。

 そんなときいったい、どうすればいいか。

 アタシにできるのは、そいつを見せてやることだけだ。

 だからオトノハ。そこでしっかり、お前は見ていろ。

 顔を戻す。白い家の二階を見上げる。

 トキコがやはり、同じような表情でアタシたちを見ている。

 まったく。こんなとこだけ似たもの同士だな、てめえら。

 低く唸り、前半身を地面近くまで低くする。デブ猫は逆に胸をそらせ、前面を大きく開いた。

 かかって来いってか。上等だ。

 全力で地を蹴る。アタシの力すべてを乗せて、跳ぶ。デブ猫が両前脚で迎撃する。アタシは空中で身体を捻り、爪の間をすり抜け。

 白い毛皮の首に、牙を立てた。

 デブ猫が叫びを上げる。腹に重い衝撃が来る。だがアタシは顎をしっかり噛み締め、離さない。

 反対側の腹にもう一撃。今度は耐えられなかった。

 牙が抜け、アタシは地べたを転がる。全身が痛みに包まれ、身体の自由が利かない。

 デブ猫が一歩一歩、近付いてきた。影が、アタシに覆いかぶさる。

 まだだ。まだ、終わってねえ。

 アタシは立ち上がり、低く唸って威嚇する。デブ猫が前脚で掬い上げる。上手く着地することもできず、アタシはまた、地べたを転がる。

 立ち上がろうと、脚に力を加える。けれども、今度はいうことを聞かない。牙を剥いたデブ猫が、這いずるアタシを見下ろす。瞳が怒りに燃えている。

 渾身の一撃が加えられることを覚悟し、身構えた。だが。

 その一撃が、いつまでたっても降ってこない。

 いつの間にか、アタシの視界は真っ暗に覆われている。さっきまですぐそこにあったデブ猫の姿もない。

 何か柔らかいものに囲まれているのだ、と気付いた。そして、匂いでそれが何なのかわかった。

 ああ。これは、オトノハだ。

 オトノハが自分の身体でアタシを包み、デブ猫を阻んでいるのだと、わかった。

 抱きしめられている腕の隙間から顔を出す。ぐしゃぐしゃの顔のオトノハが、デブ猫を睨みつけている。そしてデブ猫はといえば、こちらも酷い顔で地面に倒れているトキコに、しっかりと押さえつけられていた。

 デブ猫の顔から怒りが消えていく。たぶん、アタシも同様だったろう。

 デブ猫がトキコの手から抜け出し、喉を鳴らしてから、飼い主の顔をひと舐めする。それから、何もなかったかのように。のっしのっしと家の方へと歩き去り、アタシからは見えなくなった。

 間に邪魔者がなくなったオトノハとトキコが、お互い地面の上にうつ伏せた状態で、泣き顔を突き合せている。しばらくそうしていたと思ったら、急にオトノハが大笑いしはじめた。

「トキコちゃん、ないてるー」

 いや、お前もだろ。

 オトノハが立ち上がるのに合わせて、アタシも腕の中から抜け出す。空いた両手で、オトノハがトキコを抱き起こした。

「あれ、トキコちゃんちのネコ?」

「うん。そうだけど」

「うちのぐれこちゃんと、けんかしたみたい。ごめんねー」

「キャロルはだいじょうぶみたいだけど……。オトちゃんちのネコ、だいじょうぶ?」

「だいじょうぶ!」

 テメエが決めるな。まあでも、どうってことないさ、これくらい。

 トキコちゃんちのネコ、おっきいねー、なんて言ってるオトノハを放っておいて、アタシは帰路に着く。

 アタシは見せた。それをあの二匹がどう受け止めたのか。アタシは知ることができないし、知る必要もきっとない。あとは、アイツらの問題だ。

 アタシがしてやれるのはここまでだ。しっかりやりな、フレンズ。


 傷だらけの身体に鞭打ち、アタシはひとり、小路を歩く。身体のあちこちが痛む。だが、胸のうちは、近頃ないくらいに軽やかだった。

 そういえば、まとわりつくようだった嫌な空気も、いつの間にやら消え失せている。

 足を止めた。

 天を見上げる。雲ひとつない快晴。日の丸が何日ぶりにか、姿を見せている。

 久々に見た、オトノハの心からの笑い顔が、丸いそれに重なった。

 そうさ。アタシはただ、それが見たかった。それだけなんだ。

 あるがままに。自分が自分であれるように。そいつは口で言うほど、思っているほど、簡単なことじゃない。

 それでも。

 あるがままであれるように、アタシは生きる。

 アタシは猫だ。雨の日に、朽ちかけた煙草屋の錆びたシャッターの前に、箱に入れられて置き去りにされた。けれども拾われて、ナユキと、そしてオトノハと、この街で一緒に生きていくことを決めた。

 耳の先から尻尾の先まで、ほとんど真っ黒。ただし、両耳の間から首にかけてだけ、光に当たるときらきらする、そんな毛を持つ。

 一匹の、飼い猫だ。


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