表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
1/12

CAT:01 箱の中の猫(シュレディンガー)

 ここに連れてこられたときのことは、はっきり覚えている。

目を覚ましたら、そこは狭くて暗い場所だった。こいつはあとで知ったことだが、アタシはただひとり、ダンボールと呼ばれる箱の中に放り込まれていた。

箱の中で、アタシは泣いていた。そこは真っ暗闇で、アタシ以外の誰もいない。少し前までいたはずの母親も、兄弟たちも、私のそばには見当たらない。

もちろんアタシは知っている。誰かが寄り添っているように思えても、それはまやかし。本当に困ったとき、どうしようもなくなったときには、アタシはひとり、闇の中を歩んでいかなくちゃいけない。それくらいのことは、生まれたときから知っていた。

 はずだったのに。暗闇にも、孤独にも慣れ親しんでいたはずだったのに。そこは寒くて、寂しくて、心細くて。泣くつもりなんて全然なかったのに、時折声を上げて、アタシは泣いていた。

 どれくらい、そうしていただろうか。

 突如、闇の空が、白くなった。それは少しずつ少しずつ、広がっていって。

 光が射す方を、アタシは見上げた。空の隙間から。何かが覗いていた。

 それが何か、アタシは知っていた。ニンゲンっていう、アタシたちより大きな動物の顔。

 泣くのをやめた。どうしてそんなのが見えているのか、わからなかった。

 蓋が閉じられる。光が消える。それから、足元がゴトゴト動き出す。

 次に空が開いたとき、アタシはここにいた。

 確か首を二度振って。身体を大きく伸ばして。

 箱の中から、アタシは飛び出した。ニンゲンが追いかけてきたが、無視した。

 アタシは猫だ。雨の日に、朽ちかけた煙草屋の錆びたシャッターの前に、箱に入れられて置き去りにされた、一匹の捨てられ猫だ。


 もしも言い訳をさせてもらえるならば。連れてきてくれ、と頼んだわけじゃない。確かにあの箱の中はアタシにとって居心地のいい場所とはいえなかった。けど、自分の居場所は自分で探すものだ。四本の足を酷使し、ときに牙や爪を用いて、自らで勝ち取るものだ。アタシが母親と呼べる存在と一緒にいられた時間は僅かだったが、その僅かのあいだで、親猫は教えてくれた。

 そして今、草陰から見渡す限り、ここだって決して居心地がいいとはいえない。ニンゲンたちがイエと呼んでいる大きな建物があって、その続きにニワと呼んでいる広場がある。イエの中には大きなオスのニンゲンと小さなメスのニンゲンがいて、アタシを連れてきたのは小さなメスの方らしかった。

 ニワにはたくさんの樹木と草花が植わっている。土の上は一面に短い草が茂っていて、アタシには歩きやすい。ただ、どうも居心地が悪いのは、それらがどれもこれも、季節がバラバラのように思えるからだ。アタシたちは、生来そういった事柄に敏感だ。

 アタシの毛並みは、こうして隠れるには都合のいい色をしている。耳の先から尻尾の先まで、ほとんど真っ黒。ただし、両耳の間から首にかけてだけ、光に当たるときらきらする、妙な色になっている。しかもここの毛だけ、ほかのところよりやたら長い。アタシが見つかるとしたら、原因は多分この毛だ。それでもアタシは、この髪を結構気に入っている。何てったってクールだし、全身黒んぼよりは、よっぽどいい。

 まあ、ともかくそうやって、私は身を潜めつつ、大きなニンゲンと小さなニンゲンのやり取りを盗み聞きしているってわけ。オーライ?

 二匹はニワに出てきて話をしている。ここで主導権を握っているのはどうやら大きい方のようで、小さい方は大きい方の承諾を得ずに、アタシを連れてきたらしい。

 小さい方が、アタシを飼いたいとしつこく食い下がっている。最初は大きな声だったが、デカブツが何かを言うたびに、反論する声が小さくなっていく。過去の失敗を一つ一つ指摘されているようだが、その言い訳が「あのひは、ユキエちゃんとやくそくがあって」とか「おみずを、あげるのをわすれて」とかならまだしも、「きゅうに、かせいじんがせめてくるようなきがして」とかになったら、色んな意味でもういけない。

 小さい方が泣きながら箱を持って、「ねこさん、どこ」と言いながらニワを探し回り始める。こういう雨の日には、ニンゲンはカサってのを手に持って、濡れるのを防ぐ。猫のアタシでも、アレは便利なものだと思う。

 このメスは、カサも持たずに、ニワを歩く。手にする箱は、びしょ濡れになる。あの中に戻るのは、真っ平御免だ。

 アタシは飛び出す。二匹の前に姿を見せてやる。二匹がアタシを見て、驚いたような顔をしている。アタシは低く一つ唸ってから、出口だと当たりをつけた方へと走った。


 ニンゲンの言葉で表すなら二日? 三日? アタシたちにも時間の概念はあるが、たぶんそれはニンゲンのものほど厳密じゃない。雨が降って、一日中日が出なかったりすれば、尚更だ。風が吹いたら遅刻して。雨が降ったらお休みで。生きることに休みはないし、決まった頃合には腹も減るが、感覚的には、まあそんな感じだ。

 アタシは街中をうろついていた。もう少し前向きな言い方をすれば、居場所を探していた。

 勢いであそこを飛び出したはいいが、何かの当てがあったわけじゃない。アタシがまずするべきことは、ここがどんな場所かを知ることだ。

 収穫は、豊富にあった。棲みやすそうなコウエンが二つ。旨そうな餌が捨てられている場所が七箇所。無防備な鳩どもが群れているジンジャが一つ。

 それから、アタシに敵意のこもった目を向けてくるご同類が、たくさん。

 アタシは毎回、餌場を変えた。最悪の場合は鳩どもを狩ることを考えていたが、この地域の餌場は豊富で、困ることはなかった。先任者たちが漁った後でも、充分ご馳走にありつける。それだけのものが、確かにあった。

 野良で生きるってことは、一日のすべてを、餌を探すことと寝ることで終えることだと言ってもいい。アタシがもう少しオトナになれば、ファックすることがそれに加わるだろう。アタシもいつかはどこかの牡猫とファックしたいと思うようになるかもしれない。けれどもそれは、今じゃない。

 だから私がするべきことの第一は餌を探すことで、それさえできれば、この街を住処にすることができると思った。

 ここは、棲みつくには充分だ。それに、昼寝もたっぷりできる。落ち着ける寝床を見つけようと考えていた。その時点までは。

 たぶん四日目くらいの晩に、空腹を満たすために餌場に足を向けたときだ。

 その餌場を使うのは二度目だった。アタシは発見した餌場をすべて巡り終え、二週目に突入していた。だから、そろそろかもしれない、と覚悟はしていた。

 餌場に近付いたアタシを、ご同類たちが取り囲んだ。ほとんどがいわゆる野良猫、ニンゲンの世話を受けていないヤツらだが、二、三匹、赤いのや白いのを首に巻きつけているヤツがいる。飼い猫どもは普通、野良とは群れないが、どんなところにも例外はいる。いわゆる全猫集会、ってヤツだろう。

 野良たちの間には、縄張りってのが決まっている。特に、こういう豊かな地域は縄張り意識が強いし、掟破りに厳しい。新参者のアタシに、主に敵意が向けられていたのが、その証左だ。一度か二度なら、通りすがりのお客さんとして、見逃してくれる。だが、住み着く気配を見せ始めたら。縄張りを持つ先任者たちは、黙っていないだろう。

 こいつはつまりは、そういうことだ。

 群れの中から、一匹が進み出た。長い毛並みの、デカいメス猫だ。アタシがまだガキだってことを差っ引いても、コイツはデカい。アタシの二倍、下手すりゃ三倍の体格差はある。おそらくコイツが、この地域のボスだろう。

 驚いたのは、こいつが首に赤い輪っかをしていることだ。飼い猫が野良たちのボスになることはまずありえないが、時折、そういった垣根を超越したようなヤツがいる。そいつは大抵、飼い猫だとか野良だとかいうこととは関係なしに、圧倒的な力と威厳を持っている。

 アタシは正直、ここから逃げ出したかった。

 ボス猫が一声鳴く。声までデカい。アタシたち二匹を中心に、配下たちが輪をつくる。こいつが、リング。そしてさっきのが、ゴング。

 アタシはボス猫の周囲を、ゆっくりと半円に動いた。意図は、伝わったはずだ。

 アタシの選択肢は、二つある。このボス猫に頭と尻尾を垂れ、この地に棲みつくのを許してもらうか。それともこのデブ猫をぶち倒して、力ずくで縄張りを奪うかだ。

 アタシがどちらを選ぶかなんて、わざわざ答える必要もないだろう。

 さあ、はじめようか、太ったお嬢ちゃん(レディ・ファッティー)。

 アタシは爪を出して飛び掛る。先制の一振りは、軽くかわされた。このデブ、見かけ以上に素早い。

 アタシは爪の先を遣うようにして、両前足を振るった。圧し掛かられてしまえば、勝負は決まる。だが、リーチは明らかに向こうの方が長い。懐に入り込みたいが、それには危険が伴う。如何ともしがたい体格差だった。

 あたしの攻撃を、ボス猫は難なく避けてゆく。アタシにはもう、わかっていた。体格だけじゃない。スピードでも、ヤツのほうが速い。たぶん、スタミナもあちらが上だろう。

 だが、それでも。爪を緩めることは、できない。

 ボス猫が初めて爪を振るった。後頭部を、張り飛ばされる。アタシが右前足を繰り出したのと、同時だった。

 地に倒れ伏した。目の前がぐるぐると回っている。ただ一撃。それだけでもう、動けなかった。

 巨体が、一歩一歩、近付いてくる。アタシの前で、止まる。大きな顔の。大きな口が開き。鋭い牙が、アタシの喉に。

「そこまで」

 猫たちが、瞬く間に四方へ散り、姿を消す。ボス猫よりも大きな歩幅が、こちらにやって来る。

 アタシが見上げた先にいたのは、ニンゲン。何日か前に見た、大きいニンゲンの方だった。

「もういいんじゃないか。それくらいで」

 ボス猫に向かって、話しかける。ボス猫は一つ鼻を鳴らすと、背中を見せ、闇に消えていった。

 ニンゲンは、しゃがむと、アタシを抱きかかえた。抵抗したかったが、身体が動かない。

「大変だ。怪我をしているじゃないか」

 全然大変そうでない口調で言うと、人間はまた、もと来た道へと帰り始めた。私は何もできず、時折抗議の鳴き声をあげて、そのうちそれにも飽きて眠ってしまった。


 それで今、アタシはどうしているかっていうと。

 結局アタシは、あのイエのニワに戻っている。ボス猫に殴られたところから血が出ていたとかで、大きなニンゲンはアタシを手当てしてくれた。それから幾らかの間、アタシは気分が優れず、何もする気が起きなくて、ニワでゴロゴロしていた。

 喜んだのは小さなニンゲンで、暇ができると、アタシに何やらちょっかいを出そうとする。アタシとしては鬱陶しいことこの上ないが、餌をくれるのがこのメスガキなので、無視し続けるわけにもいかない。餌は毎回変わる。大きなニンゲンがアタシのご同類がたくさん載った紙の束を、どこかからたくさん持ってきて、それを眺めてはうんうん唸っている。そしてそれから、今回の餌が決まる。今までで一番旨かったのは、ニボシっていう木の枝みたいな食い物と、ミルクっていう白い飲み物だ。

 まあそんなこんなで居ついてしまっているアタシなんだが、もちろんコイツらと馴れ合う気なんてさらさらない。体調が戻ったらすぐにでも、ここから飛び出してやろうと考えている。

 なのにこいつらときたら。信じられない。アタシに、名前をつけやがった。

 つけられた名前は、グレイシー。出典や意味は、もちろん知らない。大きなニンゲンが「うん、ぴったりだ」とかほざいて一人で納得している。

 アタシとしてはサンドラとか、もっとイカした呼び名の方がよかったけど、まあいい。これはアタシが、ここにいるときだけの名前だ。

 アタシは定住しない。ニンゲンに飼われたつもりはない。

 これはアレだ。そう。ちょっとした、異文化コミュニケーションってヤツだ。

 ささやかな抵抗に、動けるようになったアタシは、ニワやイエの暗がりに、すぐにでも身を隠す。小さなニンゲンは必死でアタシを探すが、もちろん見つけられるわけがない。あたしは灰色グレイでもない真っ黒で、見つけられる(シー)には程遠い。もしも見つかったとしたら。そいつはアタシご自慢の、きらきら光るたてがみのせいだ。

 アタシは今日も姿を隠す。

 アタシがいるかいないかは、見つけてみるまで、わからない。


評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ