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【コミカライズ・九章完結】鏡花の桜 〜花の詩〜  作者: 京崎 真琴
第三章~白菊~
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死の前夜~番所~

 鞭の音が響くたび、恭一郎は苦悶の表情を浮かべた。

 意識が遠のくと水をかけられ、また鞭で打たれる。

 上半身の着物を脱がされ、後ろ手で縛られた恭一郎の背中はすでに血だらけだった。

「恭一郎さん……」

 ふいに鞭の音が止み、男がしゃがみ込んで恭一郎の顔を覗く。

「もうやってないって言ってくださいよ……。それだけでいいんですから……」

 男の表情は、自分が鞭で打たれているように苦しげだった。

「……なんだ……? 手が痛く……なったのか……?」

 恭一郎は玉のような汗をかきながら薄く笑った。

 男は頭を抱える。

「冗談言ってる場合ですか? っていうか、よくそんな余裕ありますね……」

「余裕……はないな……」

 恭一郎は弱々しく笑った。

「俺だって、好きでこんなことやってるんじゃないんですよ……。あんたが何にも言わないから……」

 男はため息をついた。

「……誰も恭一郎さんがやったなんて思ってないんです。あんたは江戸の英雄だ……。誰かがあんたを妬んで嵌めたんじゃないんですか? みんなそう思ってます……。ひと言、やってないって言ってくれたら帰せるんですよ」

「はは……英雄……。俺はそんな器じゃねぇよ……」

「恭一郎さん……! お願いですから!」

 恭一郎は苦笑した。

(随分優しいんだな……)

「……言うことは何もない」

 恭一郎はもう何度言ったかわからない言葉を繰り返した。

 男は苦しげな表情でため息をつくと、ゆっくりと立ち上がる。

「ちょっと頭冷やして、よく考えてください」

 男はそう言うと、恭一郎に勢いよく水をかけた。

 水の勢いもあり、恭一郎はそのまま倒れ込む。

 恭一郎の様子を見た男は、もう一度ため息をつくと部屋から出ていった。


「火盗って……意外と優しかったんだな……」

 ひとりになった部屋で恭一郎はフッと笑った。

 番所に連れてこられてから、すでにひと月ほどが経っている。

 すぐに拷問されると覚悟していた恭一郎だったが、ごく普通の取り調べが先日までずっと続いていた。

 鞭で打たれたのは今日が初めてだった。


「みんなちゃんとやってるかなぁ……」

 恭一郎は倒れた姿勢のまま、火消しの仲間の顔を思い浮かべた。

「俺のせいで、や組は相当やりづらいだろうし……」

 恭一郎はため息をついた。

「新助にだけでも話すべきだったか……」

 恭一郎はそう呟いて、思わず笑った。

「いや、ダメだろ……。あいつ馬鹿だし、絶対黙っていられねぇよ……」

 恭一郎は目を閉じた。

(まぁ、俺が何も言わなくても……大丈夫だろう……)

 恭一郎は急速に意識が遠のいていくのを感じた。

(今って寝ていい時間なのかな……)

 恭一郎はそんなことを考えながら、静かに眠りに落ちていった。



「恭一郎さん! 起きてください!」

 体を揺すられて、恭一郎は目を覚ました。

(なんだ……もう鞭打ちの時間か……?)

 恭一郎がぼんやりと考えていると、男が恭一郎の体を起こし手を縛っていた縄を切った。

「恭一郎さん、釈放です」

 恭一郎は呆然と男を見た。

「……え? どうして……」

 自由になった両腕を動かすと、背中の傷が広がり鋭い痛みが走った。

 けれど、痛み以上に恭一郎は今の状況に困惑していた。

 

 男は申し訳なさそうに視線をそらす。

「証言が取り消されたんです……。恭一郎さんが火をつけたのを見たというのは勘違いだった、と」

「勘違い……?」

 恭一郎は眉をひそめた。

(どういうことだ……。俺に罪を着せたかったんじゃないのか……?)

 恭一郎が考え込んでいると、ふいに男が腕をとって恭一郎を立たせた。

 ずっと同じ姿勢だったためか足に力が入らず、恭一郎はふらつく。

 その様子を見た男は、恭一郎の腕を自分の肩に回し、支えるように扉に向かって進んでいった。


「恭一郎さん……、俺たちは謝れません……。でも……」

 男は前を向いたまま苦しげに口を開く。

 恭一郎はすぐ横にある男の顔を見た。

(優しいと火盗をやるのもラクじゃないんだな……)

 恭一郎は少し微笑む。

「気にするな。おまえたちは仕事をしただけだ……」

 男の口が何か言いたげに動いたが、男はきつく目を閉じただけで何も言わなかった。


(帰れるのか……。まさか帰れるとは思ってなかったな……)

 恭一郎はぼんやりとそんなことを考えていた。



◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇



 半纏を羽織ると、恭一郎は番所を後にした。

 外は暗かったが、月が出ているため歩けないほどではなかった。

 恭一郎は空を見上げる。

(真夜中だったか……)


 背中の痛みは酷かったが、番所で少し休んだため恭一郎は普通に歩けるようになっていた。

(こんな時間なら朝までいればよかったか……)

 恭一郎はため息をつく。

 もう帰ることはないと考えていたため、恭一郎は番所までどのような道を通ってきたのかまったく覚えていなかった。

(とりあえず勘を頼りに帰るしかないな……)

 恭一郎はなるべく月明かりの届く大きな通りを選んで進んだ。


「あれ、恭一郎さん?」

 細い路地からふいに現れた男が、恭一郎の顔を見て声を上げる。

 恭一郎は男を見た。

(誰だ……?)

 男は人の好さそうな笑みを浮かべていたが、月明かりでできた陰影のせいかその顔はひどく胡散臭く見えた。

「釈放されたんですね! やっぱり恭一郎さんが火付けなんてするはずないと思ってたんですよ~」

 男は大げさなくらい嬉しそうな声で言った。

 恭一郎は眉をひそめる。

(なんだ、こいつ……。とりあえず、あんまり関わらない方がよさそうだな……)

 恭一郎は一礼すると、そのまま去っていこうとした。


「そういえば、知ってます? 今、や組大変なことになってますよ?」

 男の言葉に、恭一郎は足を止めた。

「……どういうことだ?」

 恭一郎が振り返ると、男は不気味なほどにんまりと笑った。

「や組は自分たちが活躍するために、火をつけて回ってたんじゃないかって噂になってるんですよ~。あ、いや僕はもちろん、そんなわけないってわかってますよ! でも、や組は相当大変みたいですね」

 男はそう言うと恭一郎に近寄った。

「恭一郎さんもとんだ汚名を着せられましたよね……。お気の毒です。釈放されても噂は消えませんからねぇ。困ったものです」


 恭一郎は無言で男を見つめ続けた。


「あ、そうだ! もしよかったら僕が汚名を晴らすお手伝いをしましょうか! ちょっとしたツテがありましてね」

 男は恭一郎に顔を近づけ、声をひそめた。

「そのかわり、ちょっとしたお願い、聞いてもらえませんか?」

 男の瞳は妖しく輝いている。


「フッ……」

 恭一郎は思わず噴き出した。

「そうか……、おまえか……」

「…………はい?」

 男が浮かべる笑顔が引きつって歪む。

「俺やあの子を嵌めたのも、あの火事も……。おまえの仕業だな……」

 恭一郎は男を睨んだ。

「……はい? ちょっと何をおっしゃってるかわからないですが……」

 男は引きつった笑顔を浮かべながら、後ずさりした。


「汚名なんて晴らしてもらわなくて結構だ。お願い? 何が狙いか知らないが聞くわけないだろう。……何の証拠もないからな、今は何も言わない。だが、おまえのようなやつは、いつか必ず罰を受けることになる。それだけは覚えておけ」

 恭一郎はそれだけ言うと、男に背を向けて歩き出した。


 その瞬間、半鐘の音が鳴り響いた。

 恭一郎は弾かれたように顔を上げる。

(火事か……この鳴り方だとここから近いな……)

 恭一郎は男のことを一瞬にして忘れ、半鐘の音が聞こえる方に向かって走り出した。


 だから、恭一郎は気づいていなかった。

 そのとき背後で、笑顔の消えた男が殺意に満ちた眼差しで恭一郎を見ていたことに。

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