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【コミカライズ決定・九章完結】鏡花の桜 〜花の詩〜  作者: 京崎 真琴
第一章~山桜~
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辻斬りの日常

「花魁、信様がいらっしゃいました」

 襖ごしに緑の声が響く。


 緑に促されて部屋に入ると信は咲耶と向かい合うように座った。

 こうして玉屋で会うのはひと月ぶりだった。

 静かな沈黙に包まれる。


「……刺青、あったのか?」

 咲耶が口を開いた。

 三日前の辻斬りについてだ。

「ああ」

 信が目を伏せて答えた。

「……そうか」


 二人のあいだに再び沈黙が訪れる。


 咲耶は信を見つめた。

 窓から差し込む光で信の薄茶色の髪は、光の中に消えてしまいそうな色合いに淡く輝いている。

 こうして信が咲耶のもとを訪れているのは、客だからでも間夫だからでもない。

 ひと月に一度は玉屋に来るようにと咲耶が頼んだのだ。


 信は咲耶にとって感情が読み取れない数少ない人間だった。

 咲耶は信から憎悪以外の感情を感じたことがない。

 その憎悪も出会った最初の頃だけで、ここ最近の信からは憎悪すら感じない。完全な「無」だ。


 咲耶は一度だけ、信が笑うところを見たことがあった。

 それは愛想笑いでも自嘲的な笑みでもなく自然と浮かび上がったような綺麗な笑顔だったが、そのとき信がなぜ笑ったのか咲耶にはまったくわからなかった。

 それ以降、笑顔はおろか、信の表情といえるものを咲耶は見ていない。

(また彼は笑えるようになるだろうか…)


 咲耶の視線に気づき、信の薄い色の瞳で咲耶を見た。

「どうした?」

 信が口を開く。

「いや……なんでもない」

咲耶を目を閉じてから微笑んだ。


「あ、そういえば……」

 咲耶は思い出したように言った。

「一緒に住み始めたんだろう? あの助けた子と」

 ひと月前に信はそんな話しを咲耶にしていた。

「ああ、弥吉と住んでいる」

「うまくやっていけそうか?」

「ああ……、弥吉は毎日何か怒っているが、たぶん大丈夫だ」

「そうか……」

 弥吉の心配をした方がよさそうだな、と咲耶は静かに思った。


「ちゃんと食べているのか?」

「ああ、食べられる草も家の周りにたくさんあるから」

「そう……か、よかった……」

 弥吉は思ったより深刻な状態なのではないか、と咲耶は少し顔色を悪くした。

(普通の食事を知らないから仕方がないのか……)


「米や肉、魚なんかは食べられているか?」

 草が主食でないことを願いながら咲耶が尋ねる。

「ああ……米や野菜は近所の人がたまにくれる。肉や魚はなかなか獲りに行けないから、最近食べてはいないが」

「……獲りに……行く? 狩りに行くのか……?」

「ああ」

「自分で?」

「ああ」

 咲耶は混乱し始めていた。

「買わないのか……?」

「かわない?」

 信は首を傾げた。

 二人のあいだに沈黙が訪れた。


(まさか……買うという概念がないのか……?)

「お金は知っているか……?」

 咲耶は恐る恐る聞いた。

「ああ……何かは知らないが、弥吉がよく欲しがっている」

「そうか……」

 咲耶は弥吉が気の毒でならなかった。

「お金があれば、米でも肉でも魚でも、なんでも欲しいものと交換できるんだ。お金を使って欲しいものを手に入れることを買うというんだよ……」

 咲耶はできる限り簡単に説明する。

「そうなのか。自分で獲りにいかなくていいのか?」

「ああ、自分で獲りに行ける人の方が少ないからな……。大抵は働くことでお金がもらえるから、そのお金で肉や魚を買うんだ」

「そうだったのか」

 信は目を伏せた。

(理解してくれただろうか……)

 一緒に暮らす弥吉のためにも、なんとか理解してほしかった。


 ふと、咲耶はある疑問が浮かぶ。

「長屋の賃料はどうしている? あのヤブ医者……じゃなかった……良庵(りょうあん)が紹介した長屋に住んでいるんだろう?」

 信の今の住まいは、咲耶の馴染みの医者に紹介してもらったものだった。

 良庵は信のために賃料を肩代わりするほどお人よしではない。

「賃料はよくわからないが、先生が難しいことはやっておくからいいと言っていた」

「良庵が?」

 咲耶は眉を顰める。

 良庵が誰かのために動くなどにわかに信じられなかった。

「信……おまえ、良庵に何かされてないか? 最初に何か言われた覚えはないか? 元通りに戻すからお腹を開いて臓物を見せてほしいとか……、体の一部を切り取らせてほしいとか……言われてないか……?」

「それは言われていないが、ときどき仕事の手伝いはしている」

「仕事の手伝い?」

 信に医療の知識があるとは聞いたことがなかった。

「ときどき先生が持ってきた毒性の植物や虫を食べて感じたことを先生に話している」

「!?」

 咲耶は言葉を失う。

「俺は大抵の毒にもう耐性があるから。口にした毒の味や臭い、感じた身体の変化を細かく先生に話している。喉が熱くなるとか、指先がしびれるとか。最近は白い粉末や透明な液体を飲むことが多くて、それはほとんど身体にも変化がないから安全な手伝いだ」


 咲耶は開いた口が塞がらなかった。

(人体実験されてるじゃないか……)

 咲耶は目の前に信がいなければ、頭を抱えてうずくまりたかった。

 一年近く、ひと月に一度は会っていて、毎日草を食べて毒を飲んで暮らしていた信に気づかなかった自分が信じられなかった。

(私は一年何をしていたんだ……)


「先生は本当に良い人だ。こんなことしかできなくて申し訳ない」

 真顔で感謝の言葉を口にする信を見て、今度こそ咲耶は本当に頭を抱えた。

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